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群青出奔:ブルー編

夢魔の領区

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 兎にも角にも夢のような塔だ。店先に出ている商品はそれぞれこだわり抜いて作られたことが素人目にも理解できる質の良いものだった。煌びやかな回廊を渡り、リリスの導く塔の頂上を目指す。たまに耳にする職人の奇声さえ除けば昔話に聞く極楽のような場所だ。
 ぎぃええ、と鳴き声じみた叫びにびくつく清一を振り返り、リリスが焦ったように笑う。通りがかった衣料品店から悲鳴は聞こえた。
 「ち、違うのよ。いや、違わないけれど……。その、様子を見に行ってみましょうか。ねっ」
 吊られたドレスを幾重にもかき分けた、特筆すべきはレジカウンターの奥だ。床を羊皮紙や布きれが散乱し、作業用テーブルには数人の魔族がひっくり返っていた。ドワーフ二人に兎獣人が一人。あたりが酒臭いと思ったら、床に葡萄酒のボトルが転がっている。叫びを上げたのはこの三人のうち誰かだろう。
 リリスは「できないよぅ、できないよぅ」と酒瓶に頭を打ち付けているドワーフに声をかけた。
 「ご機嫌ようアレン。調子はどう?このドレス新作?いいのができたわねえ!!」
 名を呼ばれたどんぐり眼の老人がぐるんとリリスの方を向く。
 「リリス様ぁ!えべれっ———ほめ、そ」
 「うんぷるるッンん!!あで、ぱにえっ……ぶん」
 「括れ!!」
 「うん……。何言ってるのかわからないわ。お休みして……」
 リリスがそっと壮年のドワーフに試作品であろうスカーフをかける。……とっ散らかったバックヤードの中で、机上だけはその汚染を逃れていた。何度も書き直された服のデザイン案がある種神聖な存在感を放っている……コーヒーカップが危なっかしく机の端に追いやられていたので、清一はその位置をずらそうと手を伸ばした時だ。ぬるりと音もなく、突っ伏していた兎獣人の腕が動いた。
 「ヒッ」
 「……けんしだ」
 ギンギンに血走った瞳がこちらを見上げる。清一が反射的に避けたため机に上体をぶつけた彼女は叫ぶ。
 「剣士だ、おたく剣士だよな……!上腕!こ、コテ……そうだ籠手はいらねえか!?はっ、は……!あんた腕だけ置いてってくれ!最高の防具作ってやっからよ!」
 「け、結構です!!リリスさぁん!!」
 「あらあらまあまあ、おやめなさいね……」
 「大将!ド、ドレスは三着あがったぞ……!ううん……」
 兎獣人が白目を剥いて倒れる。一体何轍しちゃったの、そう頬に手をあてるリリスはだいぶ困惑気味だ。
 「ま———まあ、こんな風にね。腕の良い職人を見つけてはこの塔に囲って、一年契約で個人店を経営してもらってるの。もうすぐ一般客向けの制作発表会があるのよ……。職人気質な人が多いから制作に煮詰まるとこうなっちゃうのよね。なんでかしら、幽閉してると思われないか不安だわ。信じてね」
 そっとこちらを見てリリスが首をかしげる。
 「だ、大丈夫です。わかっています」
 突っ伏したゴブリン族の肩に厚手の布をかけつつ、清一が頷いた。
 職人達は皆拘束されていなかったし、皆血色が良く、収容されている者独特の生気のなさも見られない。この店の三人は燃え尽きてしまっているけれど、道中見た店舗の職人達は皆生き生きと走り回っていた。昏倒した職人達を起こさないように気をつけながら、リリスと清一はそっと店を出た。

 大広間の中央に大理石の彫刻が一体聳え立っている。塔の天辺を仰ぐように、白く滑らかな怪鳥の羽根は螺旋階段へと続いていた。壁面いっぱいに構えられた店の灯りでホールは眩いばかりだ。店員も闊達な者が多い。唸っている者や床に伸びている者を見つけては清一が担いで店内に運び込み、長椅子へと休ませた。
 「ママァこれ買って!!」
 「私も私も」
 「待ちなさい!一人一個よ!こらっ!!制作途中のものには手を出さないの。じゃあブ……クロちゃん。この上だから、行ってきて」
 サキュバス達は気儘に思い思いの店を冷やかしている。店先に下げられた洋灯が煌々と照らす中、雇い主の彼女と別れて上へ上へ、塔の頂まで昇る。
 一番上の階層は喫茶室になっていた。本当にどういう造りをしているのか、手の届かない高さに張り巡らされた硝子の壁面は曇りひとつない。植物園と見紛う麗しいティールームで、目当ての人物が紅茶を啜っている。
 清一は息子と、その家庭教師に声をかけた。
 「ダグ!ルイゼ先生も」
 「…………?あ、えと……こ、こんにちは。お姉さん」
 息子のダゴンはおどおどと挨拶を返してきた。間を置いて清一の全身から汗が噴き出す。リリスに擬態の術をかけられている今、息子に話しかけてもただの不審者だ。
 「ダゴン様。よく見てご覧なさい」
 隣に座る小柄な魔女は気づいているようだった。オーガであるダゴンに隠れてしまう矮躯。華奢なリリスより、更に儚げな純白が清一に微笑みかける。
 「3、2、1……。ほら」
 「あっ、え、えぇ!?母上!母上だ!!お仕事お疲れ様!!」
 「これが幻視魔法、簡単に言えば変身術です。おおかたリリスが編んだのでしょう」
 「じゃあこれ魔胞の布?すごく薄いね。こんな綺麗な魔法があるなんて……母上、ここに座って」
 軽々と膝に抱き上げられた清一はルイゼに頭を下げた。羅紗にも似た手触りのベールが、皮膚から癒合を解かれて彼女の指先を滑る。興味津々で師の手元を見つめるダゴンに、興味本位で声をかけた。
 「今、俺はどんなふうに見えてる?」
 「えーとね。すごくスタイルの良い黒髪のお姉さん。髪も腰まで結ってあるよ」
 「なんだか恥ずかしいなあ……。びっくりしただろ」
 それはしたけど、とダゴンがはにかんで見せた。
 「捲ってみて、あー母上だってわかって。いつもよりもっと嬉しかった」
 「…………き」
 「き?」
 「好きなものを頼みなさい……」
 リリスに支給された給料から紙幣三枚消費するだけでフードメニューを制覇できるとわかったけれど、結局その注文は果たされなかった。ダゴンは既にルイゼからたらふくご馳走になっていたらしい。大皿の山は片付けられ、テーブルには花瓶と見紛う器に満たされたクリームソーダが鎮座している。デザートまで世話になったのを今更悟り、清一は焦った。ルイゼに支払いをしようとするが柔和な笑みで断られてしまう。
 「私にとっても、大切なま、……生徒ですから。健康でいてほしいのです」
 「ルイゼ先生……。」
 「それより貴方も食べなさい。ここの食事はなかなかいいものですよ」
 細い手を挙げてウェイターを呼び止め、ルイゼはグランドメニューを広げる。丁寧という言葉を体現したような彼女だけれど、時々この魔女は母親に似た強引さで親子の世話を焼いた。この感覚は変だと自分でも思う。白い魔女は清一の義母に似ていた。容姿ではなく、その雰囲気や佇まいが。
 (……母さんは、こんな美味いものを食べたことがあっただろうか)
 清一は雪乃の最期を思う。貧しい漁村では潮風に影響されて作物も育ちにくく、毎年飢えで人が死んだ。塩害に強い唯一の芋は苦味が強くとても美味いと言えたものではない。潰した芋に色々なものを混ぜて孤児たちの命を繋いだあの人は、それさえまともに食べてはいなかっただろう。目の前でほかほかと湯気を立てるチキンサンドが夢か幻のように思える時代だった。
 少し昔のことを思案していると、ルイゼが小首を傾げてこちらを見ていた。人間界で亡くした親と重ねるにしては、年若すぎる魔女だ。取り繕うように清一はサンドを頬張る。
 「仕事はどうですか」
 「本当にお陰様で、今のところ順調です。勤務中にダゴンまで見ていただいて……」
 「いい子だから逆に私が助けられていますよ。今日も薬草の採取を手伝ってくれました」
 「そうなのか?」
 「うん!頑張ったよ!」
 しでかしている事態の割に、日々を穏やかに過ごせている。あの屋敷を家出して、やはり息子と過ごす時間は増えた。サキュバスたちの棲まうリリスの領地は常夜の世界だ。リスノワでの勤務が終わると清一はダゴンの待つ古城へと帰り、息子に乞われるまま、時間の許す限り体術の基礎を教えることができた。働いている間はルイゼがダゴンに魔術のイロハを教授してくれるため、生活資金も安定的に稼げている。
 ———何日かだけの逃避行のつもりだったのに。
 勢いだけの家出がうまくいきすぎて、清一自身収まりがつかなくなっていた。
 「……心配ありませんよ」
 ダゴンの口についたアイスクリームをハンカチで拭いつつ、ルイゼの柔和な表情がこちらに向けられる。
 「あなた方をお預かりしていることは、旦那様に連絡済みです。場所は伏せてありますけれど」
 「先生……。」
 彼女にはみっともないところを目撃されてしまっていた。屋敷の外に出ないと誓わされた日、息子を送り届けに来たルイゼは清一の腫れた目元を見るなり顔色を変えた。咳払いひとつで笑顔を取り繕ったあと、清一の襟から除く手心のない歯形に今度こそ声を失い、一目散に屋敷からの脱走を手引きしたのである。
 どうやら家庭内暴力を心配されたらしい。誤解を解くのに丸一日かけたが、未だ疑いは晴れていないようだ。行動の端々から彼女が自分たちを帰したがっていないことがわかる。
 「勿論、奥様とダゴン様をだしにして身代金を要求したり、取引の材料に利用したりは致しておりません。そう騙る輩が現れてはまずいですから私の主人を通して報告だけ。……もうしばらくは時間を稼げそうです。……私は家庭教師、生徒の学ぶ意志に沿ぐう者。ダゴン様が奥様から剣を学びたがっているのだというのなら全力でそれを叶えるまで。
 ———折角ですからもう少し滞在しておいきなさい。ダゴン様が剣を習得できるまで、あとどれくらいかかるのですか?」
 「え、えと……まず体術の基礎固めを行なっています。正直まだ剣術を教えられる状態じゃありません。剣を握らせるまで最低でも一ヶ月はかかってしまうでしょう。流石にそこまでお世話になるわけには……」
 「いいえ、可能です。お任せあれ」
 「えっ」
 清一が止める間も無く、ルイゼは手帳を取り出して何事か予定を書き入れ始めた。どこから取り出したのか白魚のような手が羽ペンを動かし、一枚の誓約書を書き上げていく。
 「どうぞ。一ヶ月、旦那様は奥様たちに一切の手出しができません」
 羊皮紙を受け取って確かめたが、バルド直筆の署名と血判が押されている。空欄だったのは契約内容のみだったようだ。……腐っても魔王軍幹部の直筆入り契約書である。こんな自由に要求を通すことができる品を、この魔女はどこで手に入れたのか。
 「以前お会いした時に頂きました。私にとっては無用の長物。使う機会のない肩たたき券のようなものです」
 「……ルイゼ先生って何者なんですか?」
 「……。大した者ではありません。一介の、幸せな家庭教師にございます」
 呆然と呟く清一へ、ただ静かに微笑みが返された。
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