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金継ぎの青 下:ブルー編
ふたり
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がたがたと、窓枠が揺れる。
それは庭園用の農具が詰められた小さな納屋だった。小さな納屋の隅に、蹲るようにして更に小さな影が膝を抱えていた。
誰もいない。
誰も僕を探しにこない。
「あれ」が———どこを探しても、見つからない……。
約束を破ったから、自分は罰を受けるのだ。見つけに来てくれる人はもういない。
この町にやってきた夏。手癖のように物を盗んでは納屋に隠した。窓の外ではひぐらしが鳴いている。
この町で生きていたくなかった秋。みんなの遊びに混じることが憚られて、ここに隠れた。薄い硝子窓には、紅葉の赤が映り込む。
この町から出ようと決心した冬。少ないおやつを袋に詰めては、農具の後ろに隠して時を待つ。外は白い。暗い小屋の中で、雪の白さだけが窓から差し込んでいる。
春になったら、きっと出て行く。そう決めていたのに、毎年の冬は厳しくて、ひもじさに負けていつも袋を空にしてしまう。来年こそ、そう思いながら幾度もその愚を繰り返した。
……春が、来たら。寒い氷雨から出て行ける筈だった。それなのに、いつの間にかずぶずぶと、自分は大人になってしまった。
春は二度とはやって来ない。手が「あれ」を探すけれど、いつの間にか何処かへ失せてしまって、何年も探したけれど……ついに見つかることはなかった。しっとりと手に馴染むあの重しが恋しい。
納屋のまわりには、纏わり付くように幾つかの影がへばりついている。それらは入り口を探しているようだった。低い地響きが、ここまで響いてくる。
『かね、かねをぉ、』『よこせよぅう』田代さんだ。
『どこにいった、にく———。』『そこにいるんだロ、ォを』役場の先輩。
『かえれるかエれかえせぇえ』『にくを』『よこせ』……誰なのか、重複する声の主はわからない。
小屋を取り巻く寒さが酷くなった。窓の外には雪が降っている。覗き込む目とかち合わないよう、身を縮こまらせて死角に身を寄せる。しかし、大きくなりすぎてしまった図体は、もう農具の影には収まりきらなかった。鋤の倒れた音に触発されて、影のざわめきが激しくなる。喜一は薄い壁が軋む音から悟る。夢の終わりがやってくるのだ。
———響いてくる呻きが大きくなった。いよいよ納屋ごと潰されそうな軋みに背筋が竦むけれど……一向に影たちが屋内へ侵入してくる様子はない。がさがさと膿んだ肉の塊が壁の向こう側を這いずって、彼らは小屋の外にいる何かを威嚇している。一際大きく威嚇の雄叫びが響きわたり———ついに小屋の一角が内側にへしゃげて、喜一の頬を木片が掠める。視界が開けた。弱々しく光る月が魑魅魍魎を照らし出す。
化け物共は全体重をかけた跳躍で、喜一とは別の生き物に躍りかかった。
夜闇に目をこらすまでの数秒。月の光を受けて、血の滴る剣先が怪物の背から天に背を伸ばす。……既に勝負はついていた。腐った汚泥はばしゃばしゃと剣士の足下を汚して、未練がましく庭園の染みに消えていく。剣を携えたその人は———一突きにした何かを拾い上げる。
「……あ」
本革の野球ボールだった。二つに裂かれた内側から、ぼろぼろと劣化したコルクが零れ落ちている。喜一は小屋の外に出た。ボールの残骸を、懐かしい背中が拾い集めて、喜一の手に戻す。
「遅くなってごめんな」
誰あろう兄がそこにいた。持っていた一降りの剣を地上に放ると、彼は迷わず喜一の手を握る。兄の手は温かかった。記憶の通りの彼が目の前に立っている。
「…………夢?俺、約束破ったのに。兄貴がいる」
家を守れなかった。母を守れなかった。頼まれていたのに、兄に石まで投げたのに、駄目だった。だからボールが見つからないのだと、喜一はずっと悔やんでいた。
「……そうだ。これは喜一の夢だよ」
だから行こう。手を引かれて歩き出す。兄の背中は……石で打ったあの夜と同じだったけれど、髪の色は元の漆黒に戻っていた。
「どこへ行きたい?喜一の好きなところへ行こう」
「いいの?帰らなくてもいいの」
「いいんだ。……やっと気づいたけど、俺たちは、どこへ行ったってよかったんだ」
手を引かれて雪道をゆく。月は重なり合い、一つに戻りかけている。夢路をいく二人ぶんの足跡が、先の見えない春まで続いていた。
それは庭園用の農具が詰められた小さな納屋だった。小さな納屋の隅に、蹲るようにして更に小さな影が膝を抱えていた。
誰もいない。
誰も僕を探しにこない。
「あれ」が———どこを探しても、見つからない……。
約束を破ったから、自分は罰を受けるのだ。見つけに来てくれる人はもういない。
この町にやってきた夏。手癖のように物を盗んでは納屋に隠した。窓の外ではひぐらしが鳴いている。
この町で生きていたくなかった秋。みんなの遊びに混じることが憚られて、ここに隠れた。薄い硝子窓には、紅葉の赤が映り込む。
この町から出ようと決心した冬。少ないおやつを袋に詰めては、農具の後ろに隠して時を待つ。外は白い。暗い小屋の中で、雪の白さだけが窓から差し込んでいる。
春になったら、きっと出て行く。そう決めていたのに、毎年の冬は厳しくて、ひもじさに負けていつも袋を空にしてしまう。来年こそ、そう思いながら幾度もその愚を繰り返した。
……春が、来たら。寒い氷雨から出て行ける筈だった。それなのに、いつの間にかずぶずぶと、自分は大人になってしまった。
春は二度とはやって来ない。手が「あれ」を探すけれど、いつの間にか何処かへ失せてしまって、何年も探したけれど……ついに見つかることはなかった。しっとりと手に馴染むあの重しが恋しい。
納屋のまわりには、纏わり付くように幾つかの影がへばりついている。それらは入り口を探しているようだった。低い地響きが、ここまで響いてくる。
『かね、かねをぉ、』『よこせよぅう』田代さんだ。
『どこにいった、にく———。』『そこにいるんだロ、ォを』役場の先輩。
『かえれるかエれかえせぇえ』『にくを』『よこせ』……誰なのか、重複する声の主はわからない。
小屋を取り巻く寒さが酷くなった。窓の外には雪が降っている。覗き込む目とかち合わないよう、身を縮こまらせて死角に身を寄せる。しかし、大きくなりすぎてしまった図体は、もう農具の影には収まりきらなかった。鋤の倒れた音に触発されて、影のざわめきが激しくなる。喜一は薄い壁が軋む音から悟る。夢の終わりがやってくるのだ。
———響いてくる呻きが大きくなった。いよいよ納屋ごと潰されそうな軋みに背筋が竦むけれど……一向に影たちが屋内へ侵入してくる様子はない。がさがさと膿んだ肉の塊が壁の向こう側を這いずって、彼らは小屋の外にいる何かを威嚇している。一際大きく威嚇の雄叫びが響きわたり———ついに小屋の一角が内側にへしゃげて、喜一の頬を木片が掠める。視界が開けた。弱々しく光る月が魑魅魍魎を照らし出す。
化け物共は全体重をかけた跳躍で、喜一とは別の生き物に躍りかかった。
夜闇に目をこらすまでの数秒。月の光を受けて、血の滴る剣先が怪物の背から天に背を伸ばす。……既に勝負はついていた。腐った汚泥はばしゃばしゃと剣士の足下を汚して、未練がましく庭園の染みに消えていく。剣を携えたその人は———一突きにした何かを拾い上げる。
「……あ」
本革の野球ボールだった。二つに裂かれた内側から、ぼろぼろと劣化したコルクが零れ落ちている。喜一は小屋の外に出た。ボールの残骸を、懐かしい背中が拾い集めて、喜一の手に戻す。
「遅くなってごめんな」
誰あろう兄がそこにいた。持っていた一降りの剣を地上に放ると、彼は迷わず喜一の手を握る。兄の手は温かかった。記憶の通りの彼が目の前に立っている。
「…………夢?俺、約束破ったのに。兄貴がいる」
家を守れなかった。母を守れなかった。頼まれていたのに、兄に石まで投げたのに、駄目だった。だからボールが見つからないのだと、喜一はずっと悔やんでいた。
「……そうだ。これは喜一の夢だよ」
だから行こう。手を引かれて歩き出す。兄の背中は……石で打ったあの夜と同じだったけれど、髪の色は元の漆黒に戻っていた。
「どこへ行きたい?喜一の好きなところへ行こう」
「いいの?帰らなくてもいいの」
「いいんだ。……やっと気づいたけど、俺たちは、どこへ行ったってよかったんだ」
手を引かれて雪道をゆく。月は重なり合い、一つに戻りかけている。夢路をいく二人ぶんの足跡が、先の見えない春まで続いていた。
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