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金継ぎの青 下:ブルー編
追憶:末弟の言
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……兄貴はみんなの自慢だった。
長い戦争と飢饉があった。氷雨も例に漏れず飢餓の波に呑まれ、いっときは住人が全滅しかける惨事に陥ったらしい。喜一が生まれる以前、飢えに喘ぐ町をさらに疫病が覆い尽くした。教会では体の弱った当時の牧師とシスターが倒れ、子供たちもみな病に侵された。……生き残ったのは幼い孤児であった雪乃一人だ。
なんとか成人まで生き延びた彼女が一人目に引き取った子供、それが兄貴だった。最古参の孤児となった清一はシスターを手伝い、行くあてのない子供を家族に迎え入れた。教会の子供たちはみんな兄貴に世話されて育ったようなものだ。俺も、数多くいた群れの中の一人に過ぎない。
選抜試験を合格してこの教会を去り、念願叶ってヒーローになったあの人は、定期的に手紙と仕送り金を送ってよこした。立派な奴だ大したもんだと町の者は口々に言っていたし、食い物に困らなくなった孤児の頬にはいっとき子供らしく肉がついた。シスターは心配そうであったが、誰も兄貴の栄達を疑わない。
孤児は最近まで十余名教会に居着いていたが、———喜一を残してみな教会を巣立っていった。みんな兄貴が送ってくれた仕送り金のおかげだ。学校に行けた者もいれば、安全な町で職を持った奴もいる。
……ここに帰ってこれないのは、兄貴だけ。
ヒーロー協会の汚職が世間で取り沙汰されたとき、ある映像が世に出回った。
誰あろうヒーロー自身が男色趣味の資本家に融資を仰いでいる現場を押さえたビデオだ。異例の枕仕事だとして面白おかしく書き立てられた記事は、でかでかと新聞の一面を飾ることになる。
写真には兄と肥えた男が写っている。何度見返してもそれは敬愛する家族の横顔だった。
———記事が発表されてすぐ、兄自身が弁明に来た。闇に隠れるように帰ってきた兄貴は、しかしながら教会の門を潜ることはできなかった。
俺が詰りながら石まで投げて追い返したからだ。随分酷い事を言ったわりには何を言ったか覚えていない。裏切り者と吐いた言葉の先で、兄貴の顔は見えなかった。暗がりの中だ。ただ首を絞められたような詰まった呼吸音だけが、微かにこちらへ届いていた。
星の灯りで教会の様子はよく見えた。玄関口には卑猥な言葉が落書きされ、生ごみが不法に投棄されていた。数日前火を放たれた庭など煤けて目も当てられない。
兄貴は黙ったまま、身を翻して来た道を戻っていった。母さんは泣きながら俺を止めようとしたが、悪くした足がそれを邪魔する。
あれだけ大声を出しても近隣の住人は出てこなかった。朝早く玄関先へごみを撒きにくるのと同じくらい、静かに様子を伺っているのだろう。
それが最後だ。……以来、俺は兄の顔を見ていない。
———どこか遠くで声がする。
「……おい、こいつ大丈夫か」
「変ねえ。……だけ連れて来れたはずだけど」
「申し訳ありません……」
「いいのいいの、えい。じゃ……分後に……目を……すから」
喜一が跳ね起きて最初に見たのは、怪訝そうにこちらを伺う母の顔であった。
「っは……!ゲッホ!!ぇ、は、ひっ……!?」
「目を覚ましましたか。お客様に迷惑をかけて、お前という子は」
そこは自室であった。教会の離れに位置する一室で、青年は寝台へ仰向けになっていた。倒れ込んだ礼拝堂入口の、ひんやりした板目の感触が未だ頬に残っている。……老婆の手が喜一の額から落ちた手ぬぐいを拾い、額に掛け直した。
「母さんっ!!母さん無事か!?逃げないと、鬼がきた!ま、魔物が……!」
「胡乱なことを。働き過ぎで幻覚でも見たのでしょう」
「違う!旅行客はどこにいる!?あ、あの大男……オーガだ!兄貴の仇のバルドだよ!!」
上半身起き上がった姿勢で喜一はシスターに訴えかける。しゃがみ込んで息子を介抱していた老女は、しばしその顔を突き合わせて沈黙を守った。
「……やはり熱があるようですね……。」
「違うって!本当に見たんだ!」
「静かになさい。今白湯を持ってきますからね」
シスターに呼ばれてブロンド女が部屋に顔を出す。眼鏡がずり落ちた喜一の頬が恐怖に引き攣った。ぱくぱくと金魚のように喘ぎながら言葉を失っている若者を、その美貌が捕らえて笑う。
「目を覚ましたのね。良かったわ」
「リリスさん。すみませんが、息子は今人前に出せる状態にないようです。……代わりに私が町を案内しましょう」
「は!?ま、待って、大丈夫だってば!!」
息子の抗議は一顧だにせず、シスターは立ち上がって支度を始める。
「あら、いいのに。私たちも休ませてもらっているから大丈夫よ」
「……そう言わずに。近くに手頃な足湯があります。老いぼれの湯治に付き合ってくださいませんか?」
「うふふ、そう?それじゃあご一緒させて貰おうかしらぁ」
うふふあははと連れだって、己の養母と謎の美女は部屋を出て行ってしまった。自室に残されたのは喜一だけだ。呆然と口を開いたまま、二人の出て行った戸口を見つめていた青年はそして大変なことに思い至った。
もしかして今この教会には、あの夫婦と俺しかいないのではないだろうか。
若者の呼吸が浅く短くなる。喜一は立ち上がり、足音を立てぬようにとある部屋へ向かっていった。
長い戦争と飢饉があった。氷雨も例に漏れず飢餓の波に呑まれ、いっときは住人が全滅しかける惨事に陥ったらしい。喜一が生まれる以前、飢えに喘ぐ町をさらに疫病が覆い尽くした。教会では体の弱った当時の牧師とシスターが倒れ、子供たちもみな病に侵された。……生き残ったのは幼い孤児であった雪乃一人だ。
なんとか成人まで生き延びた彼女が一人目に引き取った子供、それが兄貴だった。最古参の孤児となった清一はシスターを手伝い、行くあてのない子供を家族に迎え入れた。教会の子供たちはみんな兄貴に世話されて育ったようなものだ。俺も、数多くいた群れの中の一人に過ぎない。
選抜試験を合格してこの教会を去り、念願叶ってヒーローになったあの人は、定期的に手紙と仕送り金を送ってよこした。立派な奴だ大したもんだと町の者は口々に言っていたし、食い物に困らなくなった孤児の頬にはいっとき子供らしく肉がついた。シスターは心配そうであったが、誰も兄貴の栄達を疑わない。
孤児は最近まで十余名教会に居着いていたが、———喜一を残してみな教会を巣立っていった。みんな兄貴が送ってくれた仕送り金のおかげだ。学校に行けた者もいれば、安全な町で職を持った奴もいる。
……ここに帰ってこれないのは、兄貴だけ。
ヒーロー協会の汚職が世間で取り沙汰されたとき、ある映像が世に出回った。
誰あろうヒーロー自身が男色趣味の資本家に融資を仰いでいる現場を押さえたビデオだ。異例の枕仕事だとして面白おかしく書き立てられた記事は、でかでかと新聞の一面を飾ることになる。
写真には兄と肥えた男が写っている。何度見返してもそれは敬愛する家族の横顔だった。
———記事が発表されてすぐ、兄自身が弁明に来た。闇に隠れるように帰ってきた兄貴は、しかしながら教会の門を潜ることはできなかった。
俺が詰りながら石まで投げて追い返したからだ。随分酷い事を言ったわりには何を言ったか覚えていない。裏切り者と吐いた言葉の先で、兄貴の顔は見えなかった。暗がりの中だ。ただ首を絞められたような詰まった呼吸音だけが、微かにこちらへ届いていた。
星の灯りで教会の様子はよく見えた。玄関口には卑猥な言葉が落書きされ、生ごみが不法に投棄されていた。数日前火を放たれた庭など煤けて目も当てられない。
兄貴は黙ったまま、身を翻して来た道を戻っていった。母さんは泣きながら俺を止めようとしたが、悪くした足がそれを邪魔する。
あれだけ大声を出しても近隣の住人は出てこなかった。朝早く玄関先へごみを撒きにくるのと同じくらい、静かに様子を伺っているのだろう。
それが最後だ。……以来、俺は兄の顔を見ていない。
———どこか遠くで声がする。
「……おい、こいつ大丈夫か」
「変ねえ。……だけ連れて来れたはずだけど」
「申し訳ありません……」
「いいのいいの、えい。じゃ……分後に……目を……すから」
喜一が跳ね起きて最初に見たのは、怪訝そうにこちらを伺う母の顔であった。
「っは……!ゲッホ!!ぇ、は、ひっ……!?」
「目を覚ましましたか。お客様に迷惑をかけて、お前という子は」
そこは自室であった。教会の離れに位置する一室で、青年は寝台へ仰向けになっていた。倒れ込んだ礼拝堂入口の、ひんやりした板目の感触が未だ頬に残っている。……老婆の手が喜一の額から落ちた手ぬぐいを拾い、額に掛け直した。
「母さんっ!!母さん無事か!?逃げないと、鬼がきた!ま、魔物が……!」
「胡乱なことを。働き過ぎで幻覚でも見たのでしょう」
「違う!旅行客はどこにいる!?あ、あの大男……オーガだ!兄貴の仇のバルドだよ!!」
上半身起き上がった姿勢で喜一はシスターに訴えかける。しゃがみ込んで息子を介抱していた老女は、しばしその顔を突き合わせて沈黙を守った。
「……やはり熱があるようですね……。」
「違うって!本当に見たんだ!」
「静かになさい。今白湯を持ってきますからね」
シスターに呼ばれてブロンド女が部屋に顔を出す。眼鏡がずり落ちた喜一の頬が恐怖に引き攣った。ぱくぱくと金魚のように喘ぎながら言葉を失っている若者を、その美貌が捕らえて笑う。
「目を覚ましたのね。良かったわ」
「リリスさん。すみませんが、息子は今人前に出せる状態にないようです。……代わりに私が町を案内しましょう」
「は!?ま、待って、大丈夫だってば!!」
息子の抗議は一顧だにせず、シスターは立ち上がって支度を始める。
「あら、いいのに。私たちも休ませてもらっているから大丈夫よ」
「……そう言わずに。近くに手頃な足湯があります。老いぼれの湯治に付き合ってくださいませんか?」
「うふふ、そう?それじゃあご一緒させて貰おうかしらぁ」
うふふあははと連れだって、己の養母と謎の美女は部屋を出て行ってしまった。自室に残されたのは喜一だけだ。呆然と口を開いたまま、二人の出て行った戸口を見つめていた青年はそして大変なことに思い至った。
もしかして今この教会には、あの夫婦と俺しかいないのではないだろうか。
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