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ブルー編

怪人とヒーロー

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 青井に味覚が戻ったのはそれから数日後のことだ。久々に味わう酷い塩辛さに青井は信じられないという顔で泣きべそをかく。
 味がわかる。およそ数年ぶりの塩味であった。
 「しょっぱい……ひっく、はは、しょっぱい」
 「そンぐらいで泣くな!……よく噛んで食えよ」
 「うん……ング」
 バルドの膝の上でとる食事は、秘密だが、青井の楽しみの一つになった。抱かれるたび回復していく青年のつむじをバルドは満足そうに見下ろしている。
 「泣き虫野郎。こっち向け」
 「ん……」
 袖に吸わせようとした涙を指の腹で拭われた。ニンマリご機嫌そうなオーガは抱き込んだ恋人を唆すように言って聞かせる。
 「べろが治ったんなら顔まわりはじき回復するだろうよ。鼻はなァ、血が詰まって可哀そうだったからなぁ。この目だってすぐ治る。数年協力的でいてくれりゃあ、全身健康体に生まれ変われるぜ」
 何に協力的であれと言っているのかは明白である。腰に回された丸太のような腕に身を預け、魔界に来てからこっちの爛れた生活を思い出した青井は顔を逸らして勢いのない返事をした。
 「う、うん……」
 「大人しくなっちまって。可愛いぜブルー」
 「うる、うるさい。この……スケベ」
 視線の熱っぽさに気づかないふりをして、青年は誤魔化すようにパンの欠片を飲み下す。無言で背を怪人の胸に寄りかからせると笑い声が降ってくる。
 「可愛いやつだよ、お前は」
 人間の丸みがかった耳が熱くなる。肘鉄をしかけても、くすぐってえと機嫌良くいなされるばかり。こっちの気も知らずに相手は酒瓶をラッパ飲みしている。
 「卑怯だ、俺ばっかり」
 「んん?なんか聞こえたな。助けてバルド様ぁとか喘ぎまくってた野郎の声が」
 「っくそ!最低だ!」
 「怒ンなよブルー。また勃っちまう」
 「ほんと最低だ……いい加減もげろ……!」
 あからさまな煽りに昨夜の情事を思い出してしまい、青井は今度こそそっぽを向いて食事にかぶりついた。謎肉の塩漬けと、キャベツに似た植物、さらにはトマトに近い果実が挟まれている。野菜を好んで食べる男ではないから、おそらくは青井への気遣いだろう。
 自分の死期に焦らされ神経をすり減らしていた青井にとって、食事は日に三度、生きている実感を得ることのできる機会へ変化した。肉体の安定ついでに口説いてくる男との関係も進展しつつある。

 ホットサンドを食べ終わり、グラスから水を飲む顎を掬われた。降ってくる影に大人しく力を抜く。
 こういう風にキスを受け入れることにも慣れた。金の鬼目と目が合うと何処か胸が苦しい。青井は息さえ食まれて目を閉じる。この状況を受け入れようとしている青年に気づいたのか、バルドは獣のように襲いくるだけではなく、ここ数日は特に時間をかけた接触を好むようになっていた。
 「は……っ♡……キス、長い……」
 「うるせえな。上向け」
 「ンく、ぅう……っ♡」
 背筋を伸ばして応えると、筋骨逞しい腕で背筋を支えられる。
 おれゲイだったのかなあ。茫洋とする脳裏で青井は独りごちる。身分をたてに身体を差し出している関係だというのに、バルドに嫌悪感どころか安心感さえ抱くようになっていた。胸に縋って熱をもらうと、触れた皮膚から緊張が解けていく。
 青井の舌が痺れるほど口腔をまさぐった後、大鬼は仕上げに酒精の混じった唾液を注ぎ込んでくる。口移しされる酒は魔界で造られた度数の高い洋酒である。蕩けさせた目を瞬きながら、青井は従順に唾液混じりの酒を飲み干していった。
 「くっ……んく、は……っ♡!ン……っ♡」
 「…………」
 「……は、はあっ♡ひゅ、ふぁ……♡」
 うっとり感じ入ってしまった青井の頬を太い指先が撫でる。口の端を舐め上げ、怪人は獲物の仕上がりに満足げだ。
 「いい子いい子ォ♡よくできましたァ」
 「……っ♡……別に!酒が、……酒が、美味かっただけだから……!」
 「お前の可愛げってのはそういうとこだぜブルー。構わねえさ。ちょっと抵抗してくれた方が唆る」
 悪辣に笑う顔を真っ直ぐ見つめられない。青井の好みは、憧れは、本当はもっと違う筈だった。落ち着いていて、理知的で、言葉遣いが丁寧で、……皆の憧れるあの人のようなものだった筈だ。だというのに、今ではこのがさつで乱暴な、とびきりの悪党から離れることができない。朱に染まった耳をいささか強めに甘噛みされ、青井は腕で覆って顔を隠した。
 ゆるくつり上がった口角と対比して、その意思の強そうな眉尻が不安げに下がっていく。

 ひどく曖昧な記憶を辿ると彼らに行き着いた。壊れた脳が思い出すことを拒否しているのか、断片的な思い出ばかりが頭をよぎる。
 (リーダーと皆、どうしてるだろう)
 青井は迫る死の足音に怯えて、疎遠だったとはいえチームメイトの安否すら心配できずにいた。魔界に引き渡されることの意味とはそれ即ち死である。八百年積もりに積もった怨念憎悪をおさめるためにヒーロー達は生贄として差し出されたのだ。
 それぞれ五大幹部に引き取られて危険な状況にあるはずである。バルドという男が特殊なのであって、手厚く世話を焼いてくる幹部はそう存在しないだろう。……皆の安否が知りたい。

 他人の名前を出すと高確率で機嫌を損ねる大鬼に、その晩青井は声をかけた。
 「……なあ、バルド」
 赤鬼は後ろから青年を抱き込みキスを降らせている。
 「質問があるんだが……いいか?」
 「ああ?ものによるが、まあいい。言ってみろ」
 「その、……みんな、どうしてるかと思って」
 一瞬の間を置いて、二人の間を沈黙が流れる。青井の背筋を冷や汗が伝う。低い大鬼の声が背後から返事をした。
 「お前以外のヒーロー共ってことか?」
 確実に冷え込んだ空気に、おずおずと青井は頷いた。顔を見上げれば表情を窺えるはずだが、威圧感に気圧されて俯いてしまう。
 「知ってどうする?お前にはどうにもできねえぞ」
 「い、生きてるかだけでも……教えてくれないか?俺たちは誰に引き取られるかも知らされてないんだ……自分の立場はわかってる、どうするつもりもない。ただ単純に……知っておきたいんだ」
 八年間のヒーロー活動を経てなお、彼らとは顔見知り程度の関係しか築けなかった。それでも確かに自分たちは仲間であり、志を同じく戦ったヒーローだったから。
 バルドは渋い顔をしていたが、やがて盛大に舌打ちをして仕方ねえなと頭をかいた。
 「そうだな。……ピンクいのは魔王の野郎に。こうるせえイエローは参謀のリッヒェに。へらへらしたグリーンは魔術師のルブルが欲しがった。……レッドの奴はバロンだ。魔界のカジノを仕切ってる守銭奴だが、捕虜を長く生かしておくタイプじゃあない。命がもって数ヶ月ってところじゃねえか」
 腕の中で押し黙る青井をバルドは不機嫌そうに眺めた。こういう反応をするときは何かに耐えているときだ。また暫く気落ちするんだろう。力も無いくせに、どうして人間は背負いこみたがるのだろうか。
 キスで誤魔化そうと手を持ち上げたバルドを見上げ、意外にも青井は笑顔で礼を言った。こういう顔を、バルドはあまり好かない。
 「ありがとう、悪かったな。もう聞かない、俺は……ちゃんと大人しくしている」
 「……お前」
 「俺だって、ほんとはわかってたんだ。こっちに来たらそう長生きはできないって理解してた……な、なのに俺は……」
 「…………ブルー……」
 「一人だけ抗議もしなかった!停戦協定の承諾書にサインした。最初に同意したのは俺だ!!皆タダじゃすまないってわかってたのに、どうせ自分は死んじまうからって……。みんなのこと、み、見捨てた……」
 歪な笑顔は、おそらく誰にも見せられなかった顔だろう。かのレッドだとてこの悲鳴を聞いたことはない。そう考えると、バルドは少し胸がすく思いがした。

 「……おれな、ひーろーに……なりたかったんだ……」

 抱き込んだ腕の中から、擦れた声がこぼれた。青井清一がブルーに就任してから八年が経っていた。その内一戦でも仲間と共闘する機会に恵まれなかった孤独への痛みが、遅れて囁かれ、かき消える。

 「……何言ってる。お前はヒーローで、俺様の担当だろうが。そう簡単にくたばれると思うなよ、クソガキ」

 嗚咽が徐々に大きくなり、はっきりとした泣き声へ変わっていく。全く手間のかかる生き物だ。バルドは堰を切って泣き出した背中を摩りため息をついた。

 それから青年は徐々にバルドに心を許すようになり、よく泣き、また同時にゆっくりと笑うようになっていった。
 ———そう遠くないかつての仲間との再会を、はまだ知らない。
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