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第5章

68 追憶の夜空の下、僕は産声を上げた

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 目の前にいる白いワンピースを着た天使のような少女たちを僕は思い出そうとしていた。
 けれど思い出そうとすればするほど、僕の頭は痛みに潰されそうになる。

「私の名前はカナよ。あなたはウサギくん。覚えてないの?」

 黒髪の美少女の名前はカナというらしい。僕にカナという知り合いはいない。
 いないけれど何故か懐かしい。懐かしいのは名前だけじゃない。今の会話も懐かしく感じた。
 会話と言っても僕は黒い塊になっている。僕からは発言できない。だから一方的にかけられた言葉だ。

「約束通りまた会えたんだよ。またみんなで仲良く笑い合おうよ。楽しいことしようよ。いつも通りの毎日を過ごそうよ。あの頃みたいに……」

 泣きながら、でも言葉は途切れずにハッキリと黒髪の美少女カナが言った。
 そのままゆっくりではあるが僕に近付いてくる。

 何を言っているのかわからない。何で泣いているのかも。
 だって僕は君を知らない。それにあの頃って……


「ウサギくん。レイナの事も忘れちゃったんですか。毎日レイナの名前を呼んでくれていたのに。レイナのことを……レイナの……うぅ。やっと会えたのに……ぅぁ……ああう」

 今度は栗色のボブヘアーの美少女が泣きながら呼びかけてくる。
 もう顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。でもそんなことはお構いなしに泣きながら近付いてくる。
 美少女の名前はレイナ。カナと同じくレイナという知人はいない。
 なのに僕が君の名前を毎日呼んでいた? 何かの間違いだ。
 毎日呼んでいたなら忘れるはずがない。忘れるはずがないのに……


「ウサギくん……まさかあたしの事まで忘れたんじゃないだろうな。金縛り霊の記憶がなくても生きてた頃のあたしたちの事まで忘れちゃいないでしょ」

 今度は金髪の女性が呼びかけてくる。
 金縛り霊、生きてた頃……何のことだろうか。

「思い出してよ! あたしはリナだよ! ウサギくんのバイトの先輩! リナ先輩だよ!」

 リナ……先輩?
 どこかで……聞いた事がある名前だ。

 誰だっけ。

 3人とも僕の記憶の中にいない。いや、いたのかもしれない。記憶がない。
 でも思い出したい。思い出さなきゃ後悔しそうだ。心が僕に呼びかけている。


 思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思いだ……せ……


 思い出すことに必死になっていて気が付かなかった。
 近付いてくる3人の女性はもう僕の目の前。鼻の先だ。
 3人は同時に僕に触れた。黒い塊になった僕に触れたのだ。
 触れただけじゃない。僕に抱き付いている。


 黒い魂になった僕を包み込んでくれている。


 何だろうこの感じ。温かい気持ち、懐かしい気持ちでいっぱいだ。
 僕はこの時を、この瞬間をずっと待ち望んでいたのかもしれない。
 この瞬間のためだけに必死に生きていたのかもしれない。
 そう思わせるくらい3人は温かい。


 抱き付いてきた3人は、僕に優しく声をかけてくる。


「大変だったね」


 大変だった?


「がんばったね」


 僕が何を頑張ったというんだ?


「辛かったよね」


 辛い事だらけだよ。何でこんなに辛いのかわからない。


「苦しかったよね」


 毎日が苦しいよ。息苦しい。息が詰まる毎日だよ。


「悲しかったよね」


 悲しくない日なんてなかった。生きた心地がしなかったよ。


「痛かったよね」


 そうだよ。痛いよ。心が痛いよ。
 心の傷が簡単には癒せない。もうボロボロだよ。


「寂しかったよね」


 孤独だった。寂しいよ。寂しかったよ。
 ずっと一人だ。誰からも相手されない。


「一人にしてごめんね」


 何で君たちが謝るんだ。一人にしたのはこの世界だ。
 この世界が悪い。


「毎日見てたよ」


 こんな僕を毎日見ても何もない。だって毎日が同じだから。


「私たちを忘れないために名前を呼んでくれてたね」


 まだ声と名前が一致していない状態だ。
 3人が声をかけているのはわかる。
 だけど誰がどの言葉をかけてくれたのかわからない。
 でも全てが僕の心に刺さる温かい言葉だ。
 黒い塊の僕を溶かしてくれる。そんな温かい言葉に感じた。


「私の名前はカナよ。ウサギくん。あなたの金縛り霊。そして彼女だよ」

 カナ……

「レイナはレイナだよ。ウサギくんの1番の金縛り霊で1番の彼女ですよ」

 レイナ……

「1番の彼女はあたしだけどな。リナ先輩じゃなくてリナで思い出してほしい」

 リナ……


 温かい。心が、体が、全てが温まる。心に空いた何かが埋もれていく感じがする。

 カナ、レイナ、リナ。名前を言うたびにパズルのピースが埋まっていく感じがする。

 カナ、レイナ、リナ。無くしていたピースが見つかって僕というパズルが完成しそうだ。


 こんな黒い塊になった僕だけど涙が溢れている感覚だ。
 この体のどこから涙が出ているのかはわからないが涙が止まらない。感情のコントロールが不可能だ。
 この黒い体がどんどんと溶けていく。僕の涙が洗い流しているのだろうか。

 新しい僕に誕生するための黒い塊だと思っていた。
 雛鳥が孵化するためのタマゴのようなものだと。
 でも違った。
 この黒い塊は鳥カゴだ。僕は鳥カゴの中に閉じ込められていただけだったんだ。
 鳥カゴから解放される。新しい自分が誕生するんじゃない。
 自由に空を飛べるんだ。何の柵もなく自由に。

「うぅう……ぁぅ……ぅぁあ」

 僕は産声を上げた赤子のように泣いた。
 泣いた瞬間、自分の声が耳に入った瞬間、気が付いた。

 いつの間にか僕の体は黒い塊ではなく人間の姿に戻っていたのだ。黒い謎のオーラも消えていた。
 僕は体育座りをしている。雲の上で夜景をバックに体育座りをしている。
 何ともおかしな姿だ。これなら黒い塊のほうがまだ良かったかもしれない。

 情けなく体育座りで泣く僕を優しく包んでくれている3人の美少女がいる。
 その美少女の名前を呼んであげたい。呼びたい。呼ばなきゃいけない。

「カナ、レイナ、リナ」

「はい」

 カナが夜空よりも綺麗な笑顔で答えた。

「うぅ……ぁぅ……ぁぁぅ……」

 鼻水を垂れ流し泣きながら答えたのはレイナだ。

「うん。おかえり」

 温かく迎え入れてくれる母親のような笑顔のリナ。


 そんな3人の表情を確認した瞬間、前が見えなくなった。
 目の前にいる3人の大事な女の子の顔をもう一度ちゃんと見たい。
 なのに見えない。

 何故なのか。それはすぐにわかった。

 僕の涙が視界を邪魔していたのだ。

 涙が止まらない。拭いても拭いても涙が流れてくる。
 止まらない涙とともに言葉が出る。言葉も涙のように止まらない。

「カナ……うう、レイナ……ぅ、ぁ、リナ……」

「泣きたい時はたくさん泣いて」

 そんな温かい言葉をかけながら、僕の涙を細い指で優しくすくいとったのはカナだ。


 今度は眩しい。夜なのに3人が明るく光って見える。
 それに涙が止まらない。顔を見たいのに……。
 もう一度だけ顔を見たら完全に思い出せるはずだ。
 記憶を全て思い出せるはずだ。
 だから涙を堪える。泣いてもいいと言われたが必死に堪える。
 そして両手を使い乱暴に涙を拭った。

 そして見えた。彼女たちの顔を。
 しかし彼女たちの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
 笑顔を見せて涙を誤魔化してたのだろう。
 それでも誤魔化し切れないほどの涙を流している。


「カナ、レイナ、リナ、ハナ、ヒナ、フナ、ユーさん、ワカナさん、金縛り霊、専属霊、全部……全員、思い出したよ」


 何でこんなに大事な事を忘れていたんだろうか。
 何で大切な人たちの名前を忘れていたのだろうか。
 毎日呼び続けた名前。毎日求め続けた人たち。
 目の前にいる3人こそが僕が会いたかったかけがえの無い人たちだ。

「うわぁああああぁっん」

 先ほどまで笑顔だったカナですら大声を上げて泣いた。
 こんなに泣いている姿を見るのは初めてだ。

「ウサギくんウサギくんウサギくんウサギくん」

 僕の名前を連呼するのはレイナだ。
 もう鼻声でしっかり発音できてない。

「うぅうううぐすっ……ああぁぅ……」

 膝から崩れ落ち泣き出したのはリナだ。リナも涙を堪えていたんだ。
 それが一気に溢れ出たのであろう。

 そんな姿を見て僕も涙が止まらなくなった。

「やっと……やっとだ。やっと会えたぁうぅ……ぁぅ……やっと……」

 全てを思い出し号泣した。
 みんなに会えた嬉しさや辛い日々を思い出した悲しさ、そして忘れていたという悔しさ。
 いろんな感情が混じり合って涙が生まれた。その涙は止まらない。もう止められない。

 そんな感動のシーンを遠くで見ていた人物がここにいる誰よりも大きな声で泣いていた。

「ちょっとぉおおおお、わぁあああああああんっ、感動なんだけどぉおおおお、あとアタシの名前呼ばれてないわぁああああん、あぁあああん」

 オカマの金縛り霊のユウナさんだ。
 ユウナさんの名前を呼ばなかったのはわざとだ。
 それくらい記憶が戻ったということになるだろう。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇


 それからしばらくの間僕たちは泣いた。
 雲の上で2年ぶりの再会を喜び泣きまくった。
 僕たちの涙はきっと雨のように落ちていっただろう。
 涙が落ちていった先は……真下は僕の家だ。
 きっと負の感情がたっぷり染み付いた僕の家もこの涙の雨で綺麗に浄化されるだろう。

 星空の下。どんな星よりも輝く綺麗な涙を僕たちは流し続けた。

 気を使ってくれたのだろうか。
 僕の事を見守ってくれていた双子の姉妹アンナとカンナはこの場から姿を消していた。
 僕の予想だと、役目を果たしユーさんの元へ報告しにいったのだと思う。

 そしてライオンの雄叫びのように大声で泣いていたオカマのユウナさんの姿もない。
 これも僕の予想になるが、金縛りをかけにどこかに行ったんだと思う。
 おそらくフミヤくんの家かな。
 いまだにフミヤくんに金縛りをかけていそうな気がする。
 何となくだけど。

 夜空の下。雲の上。
 僕たちは4人だけになり手を繋ぎ、肩を寄せ合いながら2年ぶりの再会に喜び涙を流していた。
 そして夜空に太陽が昇るまでひたすら名前を呼び続けた。
 喉が枯れるまで。満足するまで。気持ちが伝わるまで。

「カナ、レイナ、リナ」
「ウサギくん」

「カナ、レイナ、リナ」
「ウサギくん」

「カナ、レイナ、リナ」
「ウサギくん」

 その間も涙は止まる事はなかった。


 朝まで泣き崩れたがようやく気持ちが落ち着いてきた。
 一晩中名前を呼んだが喉は全くガラガラになっていない。
 そんな事を気にしていると『ぐぅ~』とお腹の音が鳴った。
 お腹はものすごく減っている。
 栄養のあるものが食べたいと思っているところだった。

 僕は眩しい太陽を見つめ金縛りちゃんたちの事が気になった。
 朝ということは規則があるはずだ。
 僕のところにいる時点で規則違反の可能性もある。

「3人とも朝までいても大丈夫なの? また規則とかで会えなくなるのは辛いよ……」

 静かだった夜とは違い電車の音や人混みがうるさい。
 雲の上まで聞こえるとは想像もしていなかった。
 それでも苛立ちや恐怖心は全く感じない。
 むしろ雑音までも心地よいと感じてしまった。
 生きている素晴らしさを実感したのだ。

「何を言ってるのウサギくん。そんな事はもう気にする必要ないよ!」

 カナが呆れた顔をしている。
 そんな事とは規則のことだろう。気にする必要がないとはどういうことだ?

「も、もしかして規則が変わったとか? それなら僕のところにまた金縛りをかけにきてくれるの?」

 嬉しい。またあの頃のような生活が送れる。これほど嬉しいものはない。

「えーっとですね。ウサギくん……とてもとても言い辛いのですが……」

 今度はレイナが目線を逸らしながら口を開いた。
 その表情から言い辛い事を言おうか奮闘しているのがわかる。

「な、何レイナ……嫌な事とかあまり聞きたくないんだけど……良い事があったらその後、悪い事があるって聞いた事があるけど悪い事が起きるの早すぎないか?」

「いや、そのですね……」

 もどかしい。嫌な事は聞きたくない。けれど逆に聞きたい。本当にもどかしい。

「も、もしかして何だけどさ……薄々気付いてた事があるんだけど……今、ほら、雲の上じゃん。僕って死んでないよね? 死んだからみんなに会えたとかそんな冗談言わないよね……あはは……」

「さすがウサギくんです! まさにその通りです!」

「え?」

 僕の妄想が的中してしまったようだ。この非現実的な状況は夢でも妄想でもない。現実だった。
 それも死後の世界というものだろうか。そんな事を想像した瞬間全身が震えだした。

「う、嘘だ。ぼ、僕が死んだ……な、何で……」

 確かにあの日、僕は不眠症になりながらも眠りにつく事はできた。
 だから交通事故ではないはず。それなら泥棒に入られて殺されたのか?
 不運すぎる。
 それとも家が突然家事に……いや、真下を見ても家には異常はない。
 屋根が少し欠けてるくらいだ。
 それなら何で。僕の死因はなんだ。何で死んだんだ。

「ウサギくんは過労死ってやつだよ。いや、仕事してないから過労死じゃないか。なんていう死因だろう、不眠症で眠れなくて死んだから、う~ん……やっぱり過労死でいいのかな?」

 リナが首を傾げて僕の死因を考え始めた。
 過労死。
 それが一番しっくりくる死因だ。

「で、でも、本当に僕は死んだの? こ、こんなあっさり。死んだ事すら気付いてないよ」

「本当よ。ウサギくんの服。それ幽霊の服ですもの」

 カナが僕の服を指差した。確かにカナの言う通りだ。
 僕はこんな白い服を持っていない。
 よく見たらユーさんが着ている白い服に似ている。

 それに記憶がない状態だったけどユーさんに会った。
 ユーさんはもう会わないと言っていた。なのに会う事ができた。
 それはどうしてだろうか。ここが死後の世界だからだ。
 ユーさんは僕に『人間界では会わない』と言っていた。
 だから人間界ではない死後のこの世界で、死んだ僕と会ったんだ。

 それなら夢でも妄想でもないこの非現実的な世界に説明が付く。
 全てが辻褄通り。点と点が繋がる。

 自分が死んだ事で真っ先に両親の顔が浮かんだ。

「お母さん、お父さん……」

 死んだと言う事はもう両親に会えない。
 両親も同じだ。死んだ僕にはもう会えない。

「悲しむよね……」

「そう……よね」

「あ、ごめん。なんか暗い話になっちゃって。死んだ実感が今更沸いてきたからつい……」

 金縛りちゃんたちに会う事はできた。けれどそれと引き換えに両親にもう会えなくなってしまった。
 こればかりはもうどうする事もできない。そしてどうしていいかもわからない。

「きっと大丈夫よ。ウサギくんなら大丈夫」

「う、うん……」

「今からウサギくんは、選ばないといけない事があるの」

「僕が選ばないといけない事?」

 俯く僕にカナが元気よく声をかけてくれた。
 死後の世界にやってきて選ばないといけない事。それは何だ?
 また何かを選ばないといけないのか。専属霊の時みたいな選択はもう懲り懲りだ。

「成仏するか金縛り霊になるか!」

 驚きの言葉だった。てっきり僕は金縛り霊になっているものだと思っていた。
 金縛り霊にすらなっていない僕はただの幽霊だ。
 そしてここは分岐点なんだろう。
 成仏するか。金縛り霊になるか。それとも悪霊になるかの分岐点だ。
 悪霊の選択はもうない。金縛りちゃんたちが僕を救ってくれたから。

 それじゃ僕の選ぶ道は決まっている。簡単に選ぶ事ができた。

「そんなの決まっている。僕は金縛り霊になる!」

 僕の答えを待っている金縛りちゃんたちは不安そうな顔をしていた。
 けれど僕の答えを聞いた瞬間、不安は晴れて笑顔を取り戻した。
 そして飛びついてきた。
 まるでベットの上にいる、あの時のような感覚で。
 今は雲が僕たちのベットだ。

「カナ、レイナ、リナ、みんなと一緒に金縛り霊をやりたい」

 それが本心だ。死んだのならこれしか道はない。
 大好きな金縛りちゃんたちと同じ金縛り霊を僕もやる。

「金縛り霊を選んでくれてよかったです! これならウサギくんのご両親にも会えますよ! レイナ会ってみたいと思ってたんですよー!」

 僕の顔にレイナは猫のように顔を擦り付けてきた。
 本当に猫みたいだ。
 そしてこの感じも2年ぶりで懐かしい。
 でも死んだ僕はどうやって両親に会うと言うのだろうか。

「でもどうやって? まさか僕の両親を殺すとか、そんな物騒なことしないよね……」

 嫌な想像をしてしまった事をすぐに後悔した。だって僕は嫌な想像ほどよく当たるから。

「そんな物騒なのではありませんよ!」

 よかった。嫌な想像は外れたみたいだ。
 でもどうやって会うと言うのだろうか?

「それじゃウサギくんの金縛り霊としての初めての職業体験といきますか!」

 リナが八重歯を見せながら気合を入れている。この感覚も懐かしい。
 この懐かしさは金縛り霊を知るもっと前のことだ。
 そう。この感覚は居酒屋のバイト。
 リナ先輩として僕に色々と教えてくれていたあの頃と同じだ。

「じゃあ色々教えてくださいね! !」

 不思議だ。
 リナは年下なのにいつも僕の先輩だ。金縛り霊になってもリナは僕の先輩だ。

「金縛り霊……」

 小さく僕は呟いた。
 会いたいと願っていた金縛り霊に自分がなった。だけどそんな実感はまだない。
 契約のようなものをしていないし面接みたいなものもない。
 だけど体は浮いている。白い服も着ている。そして何より栄養を欲している。
 もうそれだけで金縛り霊になったんだと思えた。
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