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第5章

65 忘却、そして完全なる暗闇

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 僕は金縛りにかからない体質になった。それによって金縛り霊に会う事ができない。
 それでも金縛りにかかる方法を探した。試行錯誤やってみた。

 普通に寝てみたり、極限まで疲労を溜めてみたり、風邪にかかったり、ユウナさんが来るであろうフミヤくんの家に泊まったり、いろんな漫画喫茶で寝泊りしたり、いろんなホテルで寝泊りしたり、精神病になったり、金縛り霊3姉妹がいる兎村の旅館に泊まったり……他にもたくさん事を試した。
 それでも金縛りにはかからなかった。もう試すことは何もない。やれることはやった。


 引っ越そう。もう忘れてしまおう。
 約束を守れなかった。全てを忘れてしまえば気持ちも晴れるだろう。


 僕は金縛りちゃんを諦めた。諦めるしかなかった。


 実家に帰るため引越しの準備をしていた僕は、10ヶ月くらい前に書いた『金縛りちゃんノート』が目に留まる。

「あっ、これ……」

 自然と『金縛りちゃんノート』に手を伸ばしていた。
 そしてノートを開くと金縛り霊の事についてビッシリと書かれていた。

 読み返さないと忘れている事がいくつかあった。
 たった11ヶ月で忘れるくらい精神状態は狂っていたのだろう。
 本当に書いてて良かったと心から思った。11ヶ月前の自分に感謝だ。


 金縛りちゃんの事を諦めたばかりなのに『金縛りちゃんノート』を読み返していくうちに涙がこぼれ落ちてしまった。
 諦めたのなら涙なんて溢れるはずがないのに。
 おかしい。止めようとしても涙は止まらない。

「ぅう……」

 やっぱり心の奥のどこかで金縛りちゃんたちを諦め切れていない。
 実家に帰りたくない。この家にいなきゃ金縛りちゃんに本当に会えなくなってしまう。

「……なんだ?」

 最後のページを開いた時に四つ折りにされた1枚の紙が落ちた。
 自分が書いた紙ではない。誰かが書いた紙だ。

「そうか……ハナたちの……」

 記憶を辿り思い出した。これは兎村の旅館にいた金縛り霊3姉妹が書いてくれた手紙だ。
 その四つ折りにされた手紙を拾った。そして中身を開く。

 手紙の中身を見た瞬間、衝撃が走った。

「ど、どういうことだ……」

 金縛り霊3姉妹から貰った手紙は白紙になっていた。

「な、なんで? 確かに文字は書いてあったはずなのに……」

 別の手紙が紛れ込んでしまった可能性も考えたが、この手紙を『金縛りちゃんノート』に挟んだ記憶がある。
 だからこの手紙は絶対に金縛り霊3姉妹が書いた手紙だ。
 でもなんで白紙なんだ。その答えがわからない。

「それに、これって……」

 この白紙の紙に見覚えがある。
 先日、家族旅行で行った兎村。そこの蕎麦屋でウサギみたいなお婆ちゃんが見せてきた紙とそっくりだ。


 脳に旋律が走る。
 頭蓋が振動するほどの衝撃だ。

「うぅ……くっ……」

 もしかしたらお婆ちゃんが見せた手紙って、ハナたちが書いたものなのかもしれない。

 兎村に来た僕に金縛りをかけられなくてあの手紙を書いた。
 そしてどういった経路かわからないが、あのウサギみたいなお婆ちゃんに渡して僕に見せてきたんだと思う。

 その時に見せてきた手紙は白紙だ。それに1年前にもらったハナ達の手紙も白紙だ。


 偶然か?
 偶然にしては出来過ぎている。


 いや、偶然なんかじゃない。
 僕が金縛りにかからなくなったのが原因に違いない。

 金縛り霊が書いた手紙だから見えなくなっていたんだ。
 ハナたちの手紙をお母さんたちも見えてなかった。
 それに手紙を持って来たのは野生のウサギだった。
 たしかお婆さんも野生のウサギが持って来たと言っていた。

 点と点がつながった。


 でも僕が書いた『金縛りちゃんノート』の文字は見える。
 それは僕が書いた文字だからか。

 そしてこのノートに書かれている事をいくつか忘れていた。
 精神状態が悪いせいで忘れたと思い込んでいた。だけどこの流れからして違う。
 おそらく僕は、少しずつ金縛り霊の事を忘れていっている。

 この状況を例えるのなら夢だ。
 寝ている時、夢は鮮明に覚えている。けれど起きた時にはその夢は思い出せなくなる。
 楽しかった夢や怖かった夢を忘れている。それと同じ原理だろうか。

 僕が金縛り霊と関わっていたのは期間は約2ヶ月間だけだ。
 ただこの2ヶ月は僕の人生においてかなり濃い2ヶ月だった。
 だからまだ忘れられない出来事のはずなのに……なんで。
 なんで僕は金縛り霊について忘れてきているんだ。

 これは本当にまずい事だ。
 このまま実家に引っ越してしまったら、永遠に会えなくなるどころか、存在までも忘れてしまうかもしれない。

 だから兎村で蕎麦屋のウサギみたいなお婆ちゃんはハナたちの紙を見せてきたのか。
 だから『悔いが残らないように』などと意味深な事を僕に言ったのか。
 僕の金縛りの事情をわかっているからこその行動だ。

 だったらどうする。
 このまま引っ越さずにこの家に残っていたとしても、いつか金縛り霊の事を忘れてしまう。
 どこまで忘れるかわからない。でも完全に忘れる可能性だってあり得る。

 会えなくなるどころか存在まで忘れるなんて残酷すぎる。

 いつかは、この『金縛りちゃんノート』もただの『妄想ノート』になってしまうのか……。


 だから世の中のオカルト雑誌や心霊番組に登場する金縛りの時の幽霊は見た目が怖いんだ。
 あんなに可愛い金縛りちゃんたちのことを誰も覚えていないから。
 思い出そうとしても顔が黒く塗りつぶされる。体も、何もかも色が思い出せなくなる。
 だから真っ黒の人影が想像されてしまう。
 金縛り霊の特徴の白いワンピースを覚えていたとしてもそこまでの記憶だ。
 顔は黒く塗りつぶされているはず。

 このノートにも書いてあるが、兎村では両親も金縛りにかかっていた。
 そして旅館にいる人たちも全員、金縛りにかかっていた。
 でも『朝には忘れてる』と金縛り霊3姉妹の誰かが言っていた。
 誰が言ったかはこのノートには書かれていない。

 誰が言ったのか僕は覚えていない。

 ハナ、ヒナ、フナ……名前は覚えている。覚えやすい単純な名前だ。忘れるはずがない。
 でも誰が言ったかまでは覚えてない。もしかしたら忘れているのかもしれない。

 1日1日が経過するたびに忘れていってしまう。この忘却の流れはもう止められない。

 忘れたくない忘れたくない忘れたくない忘れたくない。


 僕は目を閉じて金縛り霊の名前を指折り数えながら確認した。

「カナ、レイナ、リナ、ハナ、ヒナ、フナ……それにユウナさん……」

 あれ? おかしい。頭の中に浮かぶ白い男は誰だ? 顔が思い出せない。
 全身が白いという印象しか思い出せない。
 それにもう一人金縛り霊を知ってる気がするけど全く思い出せない。

 目を開けて『金縛りちゃんノート』から忘れてしまった金縛り霊が誰だったのか見返す。

 ペラペラとページをめくり答えを見つけた。

「あった……ユーさんとワカナさんだ」

 ワカナさんとの関わりは少ないから忘れるのは仕方ないと思う。だが、ユーさんの事を忘れるだなんてあり得ない。あんなに特徴的な人なのに……。
 それに名前は思い出せたけど、やっぱり顔はぼんやりとしか思い出せない。

「くそ……」

 カナ、レイナ、リナ……

 大丈夫だ。大好きな金縛りちゃんの名前は覚えている。

 ハナ、ヒナ、フナ……

 大丈夫だ。忘れることはないだろう。金縛り霊3姉妹の名前もちゃんと覚えている。

 ユウナさん、ワカナさん、ユーさん……

 ベテランの金縛り霊たちの名前も覚えている。正確には思い出しただ。もう忘れない。


 何か一つでも忘れてしまうとずるずると忘れていってしまう気がする。
 だから毎日金縛り霊の名前を確認しよう。そして毎日『金縛りちゃんノート』を読み返そう。

 絶対に忘れたくない。金縛り霊の事を、金縛りちゃんの事を、金縛り霊3姉妹の事を……。

 忘れたくない。忘れてたまるか。


 僕は毎日金縛り霊の存在を忘れないため『金縛りちゃんノート』を見返し続けた。そして名前を呼び続けた。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 金縛り霊の名前を呼び続ける日々が続いた。

 雪が降り積もる日も。桜が満開に咲き散る日も。太陽が照りつけ蝉の儚い鳴き声が響く日も。紅葉が咲き空が茜色に染まる日も。
 来る日も来る日も金縛り霊を忘れないために名前を呼び続ける。

 いつの間にか僕は27歳になっていた。27歳童貞のままだ。

 いまだに実家には帰っていない。帰ると言ったのに行動に移せずにいた。
 その原因は金縛り霊を忘れてしまうのが怖かったからだ。
 まだこの家に住んでいる。引っ越した途端に全てを忘れてしまうかもしれない。それが怖い。

 そして仕事も見つかってない。そもそも仕事をする気力がない。
 最近貯金の底が尽きたところだ。両親からの仕送りで賄っている。人としてもうダメだ。

 なんのために生きているのかがわからない。親に迷惑をかけてばかりだ。

 毎日唱えている金縛り霊の名前もなぜ唱えているのかわからなくなってきた。

 もう金縛り霊に会えなくなってから1年11ヶ月経っている。そろそろ2年だ。
 よくここまで粘り強く金縛り霊の名前を唱え続けていた。

 親にも迷惑をかけて引っ越しを延ばしてもらっているけどもう限界だろう。
 僕の意見を尊重してくれる両親を僕は心の底から尊敬している。本当に良かった。
 でも時々、叱って欲しいとも思う。叱ってくれさえすれば金縛り霊の事を諦められるはずだ。

 全て人任せに行動してしまう僕の悪い癖だ。全て僕が悪いのに……。

 僕の体にも変化がある。眠れない体になっていた。不眠症と言うのだろうか。

 寝るのが怖い。起きた時に金縛り霊の事を忘れてしまうかもしれないからだ。
 だから寝るのが怖くて寝る事ができなくなっている。

 夢と同じ。朝目が覚めたら見ていた夢を忘れている。
 それと同じで金縛り霊の事を忘れてしまうかもしれない。
 もうすでに忘れていることもいくつかあるだろう。

 眠れない日々は辛い。

 体は睡眠を求めている。しかし心では寝るのを拒んでいる。
 その結果、眠れない。寝れたとしても1時間が限界だ。

 体と心で矛盾が生じている。もう僕の体はボロボロだ。

 こんな思いをするのなら実家に帰ってしまいたい。最初からそうしておけばよかったんだ。
 でも心の奥の底で引っ越しを拒んでいる。こんなに辛いのになぜだろうか?

「なんしてるんだ僕は……」

 そもそも僕が唱えているこの名前の人たちは誰だったけ?
 このノートもなんだかわからなくなってきた。でもなぜか毎日唱えている。
 金縛り霊を忘れたくないって気持ちは残ってるけど、金縛り霊がなんなのかよくわからない。
 2年間僕は何をしていたんだ。この『妄想ノート』に僕は振り回されている。


 カレンダーを見ると赤く印がされている。今日はの命日だ。
 亡くなって2年が経つ。

 去年も交通事故にあった事故現場に行き花を供えた。今年も供えに行くつもりだ。

 という言葉に違和感を感じる。心の中のしこりが気になって仕方ない。

 なぜだろう。

 いつもと呼んでいるのになぜか違う気がする。

 いつも唱えている名前にはの名前のがあるけど、それは関係あるのだろうか?
 ただの『妄想ノート』だ。先輩の事が好きな僕が勝手に呼んでいるだけかもしれない。

 でもわからない。わからない事だらけだ。

 僕はおかしい。僕の頭の中はどうなってしまったんだろうか。


 頭の中に疑問を浮かべながら、の事故現場に花を供えるために家を出た。


 電車に乗るのは久しぶりだ。最後に乗ったのはいつだろうか?
 それは去年だ。ちょうど1年前。同じように花を供えに行く時だったかもしれない。

 人の目が怖い。人がたくさんいる。全員が僕を見ているような気がする。怖い。

 少しぶつかるだけで問題が起きそうだ。少し目があっただけで喧嘩になりそうだ。


 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。


 電車の中もただの道も息苦しい。外は僕にとって害でしかない。

 恐怖を感じながらものために花を供えに来た。
 多分これが最後になるだろう。だってもう引っ越して地元に帰ると決めたのだから。今度こそ絶対だ。

 先輩の事故現場にはすでに花が供えられていた。家族の誰かだろうか。それとも居酒屋の誰かだろうか。

 供えられていた綺麗な花の隣に僕が持っていきた黄色い花を供えた。
 目を閉じ両手を合わせて心の中でに語りかける。

『先輩もう僕は地元に帰ります。なので来るのも多分これで最後になるかもしれません。を返せなくて本当にごめんなさい』

 目を開け、最後に黄色い花を目に焼き付けた。
 丸まった僕の背中は寂しげに見えるだろう。とぼとぼと下を向いて歩く姿も寂しげに見えるだろう。
 そんな寂しさを具現化したような僕は家に帰るために駅に向かった。

 寂しさの具現化は電車に乗ると変身を遂げていた。恐怖の具現化に変わっていた。
 怯えながら電車に乗り人目を気にする。怖い。恐怖が体を蝕んでいく。体は勝手に震える。そう。濡れた子猫のように。

 家に着くまで怯え続けた。家の扉に手を触れた瞬間、震えていた体はピタリと止まる。

「ふぅーー」

 息苦しかった世界から解放されたかのように全力で息を吸った。家の中の空気が一番良い。やっとまともに呼吸ができた気がする。

 家に着いてからは引越しの事を考えた。これ以上は両親に迷惑をかけられない。
 先延ばしにしていた引越しだったが、まずは日程を決めよう。

 来年だ。来年にしよう。もう決めた。

 一度決めたらそれ以上のことは考えないようにする。そうでもしないとまた先送りにしてしまいそうだ。

 眠れない僕は部屋でうずくまるだけ。それなら引越しのため少しでも荷物をまとめよう。早いに越した事はないだろう。

 1年前もやったのに結局は引っ越さなかった。でも今回は本気だ。にも最後の挨拶をして来た。

 なんのためにここにいるのかがもうわからない。
 だからこの『金縛りちゃんノート』とか言うもダンボールの中に封印しよう。
 それなら毎日呪われたように唱えていた名前を唱えずに済む。

 約2年前に書いた『金縛りちゃんノート』をダンボールの中に封印した。
 躊躇いもなくあっさりと封印できた。

 ある程度荷物をまとめた。まとめたと言ってもダンボール2つ分だけだ。
 今日はこれで終わりにしよう。


 部屋でぼーっとする時間が増えた。なぜなら眠れないからだ。

 不眠症は本当に辛い。眠くても寝れない。どんどん体も衰弱していく。
 栄養不足で運動不足な体だ。すぐに病気にかかってしまう。寝れないので回復にも時間がかかる。

 体が耐えられなくなって眠りに着いたと思ったらを言っている。
 寝言がわかるのはそれほど眠りが浅いと言う事だろう。もしかしたら眠っていないのかもしれない。

 僕の寝言は知らない人の名前を唱えるという奇妙なものだ。

 その人物はカナ、レイナ、リナ、ハナ、ヒナ。一体誰の事だろうか。唱えていた人たちの名前だろうか?
 だから寝言で勝手に言葉が出てしまったのだろうか。でも封印したあのを読み返さないと唱えていた名前がなんだったのか覚えていない。

 もうわからない。何もかもわからない。

 起きてるのか寝てるのかすらもわからなくなってきた。


 それから何日も何日も眠れない日は続いた。もちろんたまに寝れる事がある。1時間という短い時間だけど。
 その時は寝言で知らない人の名前を唱えていない。いや、寝ているから唱えているかどうかはわからない。
 でも僕が唱えていた名前を僕自身覚えていない。

 少し気持ちが楽になった気がする。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇


 心も体も限界だ。いや、すでに心の限界は過ぎていたかもしれない。

「2時か……」

 不眠症で寝れなくなっていた僕だったが、今だけはなんだか寝れそうな気がする。
 でも目を閉じても寝れる気配がない。

 何か大事な事を忘れている気がしてそればかり考えてしまう。
 何を忘れているんだ? それすらも忘れている。全く思い出せない。

 ただこの日だけは違った。何日ぶりだろうか。いや、何ヶ月ぶりだろうか。
 しっかり意識が消えそうになった。これが睡眠の感覚だろう。久しぶりの睡魔。やっと来てくれた。

 僕の意識は暗い暗い闇の中へ吸い込まれていく。漆黒の闇だ。ドス黒い渦に意識が飲み込まれる。
 そのドス黒い渦に抗う事なく流れに身を任せる。
 その瞬間心と体がどこか別の場所にいったような感覚に襲われた。

 僕の意識は暗い暗い闇の中へ消えていった。
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