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第1章

9 とても汚い唸り声は、誰の声?

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 意識の覚醒と共に『金縛り』という文字が脳裏に浮かんだ。 

 体は全く動かない。声も出せない。目蓋のカーテンは開いたまま。
 ボロアパートの天井がよく見える。
 これは間違いなく金縛りだ。
 僕は金縛りにかかっている。

 また夢の可能性はあるが、この感覚は夢ではないと言い切れる。
 現実だからわかる。夢の時では感じることのできないリアルな感覚を感じている。
 だからこれは現実で間違いない。

 右足もいつもみたいに掴まれている感覚がある。
 その感覚は、これまたいつも通りゆっくりゆっくりと上がってくる。
 足首からふくらはぎ、膝、太もも、は無かったけど、腰、腹、胸へまで来て止まる。

 視界の端に映る布団は大きく盛り上がっている。
 『金縛りちゃん』だ。
 夢にまで見た『金縛りちゃん』が布団の中にいるんだ。


 『金縛りちゃん』は布団から顔をひょっこりと出し姿を現した。

 艶やかなストレートの黒髪。
 こぼれ落ちそうなほど大粒でキラキラと輝いたブラックダイヤのような瞳。
 ぷるぷると柔らかそうな透き通った桃色の唇。
 小さくて可愛らしい耳。
 筋の通った美人鼻。
 雪のように純白でシワ一つない肌。
 白いワンピースから溢れそうなほどに実ったたわわ。

 その全てに僕は釘付けになった。
 金縛りにかかっていなくても動けなかったと思う。
 それくらい釘付けになっていた。

 夢で見たときとは違い頬は赤らめていない。
 瞳もとろんとしていない。

 いつも通りの『金縛りちゃん』という事だ。
 ということは、これからの展開もいつも通りのはず。

 予想通り『金縛りちゃん』は覆い被さってきた。このまま寝るつもりだ。

 そうはさせない。
 今日こそ何かしらのアクションをとってやる。

 まずは平常心を保て。

『キス……しよ……』

 落ち着くんだ。

『キス……しよ……』

 落ち着きさえすれば、体が動くようになるはずだ。

『キス……しよ……』

 くそー!
 ダメだ。
 さっき見た夢が頭から離れない!
 童貞の僕には刺激が強すぎる!

『キス……しよ……』

 忘れるんだ。
 忘れて集中するんだ。

『キス……しよ……』

 嫌だ。忘れたくない。
 一生忘れたくない。
 記憶喪失になってもこれだけは忘れたくない。

「…………フヌーフヌー…………フヌーフヌー」

 寝ちゃった。
 いつものことながら首にあたる『金縛りちゃん』の寝息がくすぐったい。
 今日も何もできなかったな。
 でもいいか。これはこれで幸せだし。

 幸せを噛みしめようとした瞬間、脳裏で自分の声がこだました。
 それでいいのか、とこだましたのだ。

 これでいいわけがない。
 まだだ。
 諦めるのにはまだ早い。

 今日こそは腕を自分の意思で動かしてやる。
 首にかかる寝息のせいで、平常心が保ててないけどやるしかない。
 というか今まで平常心を保てたことなんてあったか?
 こんなに可愛い『金縛りちゃん』が覆いかぶさっていて、平常心を保てたことなんてあったか?

 否だ。断じて否だ。

 平常心なんて保てるわけない。
 それでも僕はやる。やってやる。

 指先に集中する。そして、力を込める。
 前回、無意識だが動かす事ができた右手の指先だ。

 う、動いた!?
 指が動いた!

 いとも容易く指先を動かすことに成功した。
 それも自由自在に。
 手のひらを上げることはできないが、これは大きな進歩だ。

 何度も指先を動かそうとしたからか?
 きっとそうだ。
 だから指先だけ動かせるようになったんだ。

 とは言え、指だけ動かせても何もできねー!!
 まあ、せっかく動かせるようになったんだ。
 このまま右腕を動かせられるように指先から筋肉をほぐしていこう。

 手のひらで玉を転がすかのように指を動かし続ける。
 そんな僕の指の動きに気付いたのだろう。『金縛りちゃん』の寝息が止まった。
 そのまま上半身だけを起こしてキョロキョロと何かを探し始める。

「……ん~?」

 『金縛りちゃん』は不思議そうな表情で僕の右手を見ている。
 動いている僕の指に違和感を感じてキョロキョロしていたんだ。

 くそ。もっとじっくりと見たいのに。
 目が全然動かせない。視界の端でしか『金縛りちゃん』の不思議そうにしている表情が見えないだなんて。
 こんなに可愛い表情他にないぞ。いや、『金縛りちゃん』ならどんな表情でも可愛いか。

「……動けるのかな?」

 大粒の黒瞳で僕の瞳を真っ直ぐに見ながら聞いてきた。
 ああ、そうだ。動かせる。
 自分の意思で動かせるようになったんだぞ。
 まあ、指だけだけどね。

 せっかく『金縛りちゃん』の銀鈴の声を聞けたっていうのに、会話ができないのは本当に辛い。
 どうせなら指じゃなくて口が動けば良かったのにな…………って、僕の口動いてないか?
 魚みたいにぱくぱく動いてるぞ。金魚くらい小さい動きだけど。でも動いてる。

 そうか。そうだったんだ。
 指先にだけ集中してて全然気付かなかった。
 集中さえすればどこでも動かせるぞ。
 きっと金縛りに対するがついたんだ。

 『金縛りちゃん』は僕の口元をじっと見てる。
 小さな金魚のようにぱくぱくと動く僕の口に気付いたんだ。

 は!? ま、まさかこれは正夢!?
 さっき見た『金縛りちゃん』とキキキ、キスを、キッスをした夢が現実に!?
 なんか夢で見たシチュエーションと一緒だぞ。

 確かこのあとは、『金縛りちゃん』が僕に体を倒して、透き通った桃色の唇が重なるんだ。
 色々と端折はしょってるけど、そんな感じの夢だった。

 や、やっぱりだ。
 『金縛りちゃん』が僕に向かって倒れてくる。
 顔がどんどん近付く!
 大粒の瞳が、筋の通った鼻が、ぷるぷるの唇が、近付いてくる!

 も、もう夢なんかじゃないぞ!
 ファーストキスを、ファーストキスを『金縛りちゃん』と!
 ぼ、僕の唇が奪われちゃう~!!

 って?
 え?
 あ、あれ?

 『金縛りちゃん』が止まったぞ。
 僕の唇の前で……。
 な、なんだ? どうしたんだ?
 そんなに唇を見てどうしたんだよ。

 え?
 え??

 今度は顔を背けたぞ。
 な、なんで?
 いや、顔を背けたんじゃない。
 耳を近付けてる。

 小さくて可愛らしい耳だ。

 って耳に見惚れてる場合じゃない。
 なんで耳?
 キスじゃないの?

 しばらくの間、僕の視界に『金縛りちゃん』の小さくて可愛らしい耳が映る。
 ずっと見ていても飽きない耳だ。
 まさか、耳を見せつけて僕を誘惑している?
 そんなことをしなくても僕はもう『金縛りちゃん』にメロメロですよ。
 でもせっかくの『金縛りちゃん』の行為だ。受け止めてあげて意識が飛ぶまでじっくりと見続けよう。

 意志を固めた瞬間『金縛りちゃん』が動き出した。
 耳が離れていく。でも顔は近いままだ。
 そして透き通った桃色の唇がぷるぷると動き出した。


「……何か言いたいのかな?」


 銀鈴の声に僕の鼓膜はまた震えた。
 その声があまりにも耳心地が良くて眠ってしまいそうになったが耐える。

 そうか、僕の口元に耳を近付けていたのって、何かを喋ろうとしている僕の声を聞こうとしてくれていたからなんだ。
 なんて優しい子なんだ。そして気遣いもできている。
 性格までも完璧とかやばすぎる。
 『金縛りちゃん』って全ての男性の理想が詰まった完璧な存在なんじゃね?


「……ちょっと聞こえないかな。もう少し大きな声でお願いっ」


 ああ、幸せだ。
 こんなにたくさん会話してる。
 僕は、ぱくぱく唇を動かしているだけだけど。


 小首を傾げながら一生懸命考えてくれてる。
 手に顎も乗せちゃってるよ。
 考えてる姿も可愛い。天使だ。

「……ん~。わからないかなっ」

 か、可愛ぇええ。
 笑顔だ。天使の笑顔だ。
 というか、今日の『金縛りちゃん』めちゃくちゃ喋るじゃん。
 それに僕の意識も全然飛ばない。いや、何度か飛びそうになったけど、長時間耐えてる。

 こうやって何度も声を聞くと幽霊じゃないみたいだ。
 人間と全く変わらない。普通の、いや、超絶美少女の人間だよ。

 何回か声を聞いた事があったから話はできると思ったけど普通に喋っている……。幽霊じゃなくて普通の女の子のように……。

「……うぅうううぅう」

 な、なんだ!?
 突然の唸り声?
 こ、怖い!
 他にも幽霊が?
 この間は僕の右腕を黒い影の幽霊だって勘違いしたけど、やっぱり他にも幽霊がいるんだ。
 絶対今回のは勘違いじゃなんかじゃない。

「……んぅうううぅうぅ」

 また聞こえた。
 怖すぎる。
 絶対『金縛りちゃん』の声じゃない。こんなに汚い唸り声出すはずがない。
 それに僕の声でもない!
 やっぱり他にも幽霊が!

「……んぅうぅぅ」

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

「……ぅぅぅう」

 い、いや待て。待てよ。
 この汚い唸り声……。
 ぼ、僕の声じゃないか!?

「……ぅうううぅぅ」

 や、やっぱり僕の声だ。
 この汚い唸り声は僕の声だ!
 って、汚いって余計だ!
 でもなんで……そうか……そうだった。耐性か。
 耐性がついて喉の筋肉も少し動くようになったんだ。

「んっ?」

 唸り声のせいで『金縛りちゃん』は困り顔だ。
 困った表情も可愛いとか反則だろ。
 どんだけ可愛いんだ。
 可愛いの具現化だこれ。
 可愛いは『金縛りちゃん』のためにある言葉だったんだ。

 って、見惚れてる場合じゃない。
 このままだと気持ち悪がられて嫌われちゃう。
 全く。どっちが幽霊だよ。
 唸ってる僕の方が幽霊みたいだ。
 いや、ゾンビか。
 そんなのどっちでもいい。


「……わたしは」


 え?
 なんだろう。突然喋り出したぞ。


「わたしの名前は……」


 名前?
 突然の自己紹介!?


「カナ。カナだよ」


 ……カナ。カナ。
 な、なんて可愛い名前なんだ。
 というか僕の唸り声ナイス!
 『金縛りちゃん』の名前を聞き出すことに成功したぞ。
 思いもよらぬ報酬だ!

 そうか。カナか。
 『金縛り』の『カナ』。
 うんうん。いい名前だ。すごく良い名前だ。
 まるで『カナ』という名前は、『金縛りちゃん』のためにあるみたいに。そう思うくらいピッタリの名前だ。

 ああ、可愛い。
 カナ。カナ。カナ。カナ。カナ。カナ。
 ああ、本当に可愛い。

 カナ。カナ。カナ。カナ。カナ。カナ。カナ。カ、ナ。カ……ぁ……。

「…………フヌーフヌー…………フヌーフヌー」




 ◆◇◆◇◆◇◆◇




 ピピピピッピピピピッ

 目覚まし時計の鳴る音に驚いて飛び起きた。
 いつの間に眠っていたのだろうかと記憶を探りながら、目覚まし時計を止める。

 『金縛りちゃん』を……いや、『カナ』の名前を何度も頭の中で言って……それでカナの寝息が聞こえて……。
 そうだ。僕はカナの銀鈴の寝息に誘われて寝てしまったんだ。

「カナ……」

 頭の中で何度も呼んでいた名前を初めて口にする。
 名前を知ることができた喜びを噛み締めながら名前を口にした。

 今日もカナに会えるように頑張ろう。
 いつしか僕の生きがいは『金縛りちゃん』こと『カナ』に会うこと。それだけになっていた。

 そして、喜びのあまり阿波踊りのような自作ダンスをベットの上で踊っていた。
 これは喜びの舞だ。

 喜びの舞を踊っていると胸の鼓動が激しくなる。
 胸が張り裂けそうなほど苦しい。
 ドキドキ。ドキドキとうるさい。

 踊りに疲れて激しくなっているんじゃない。

 これは恋だ。この胸の苦しさは恋だ。
 だってこの胸の苦しみが心地良いんだもん。

 恋なんて無縁だと、一生しないんだと思っていた。
 でも僕は今、恋をしている。『金縛りちゃん』に……カナに恋をしている。
 相手が幽霊でも恋は恋だ。

 人それぞれの恋があるって誰かが言ってた。
 だから僕のこの恋も本物の恋だ。

 ああ、恋ってなんて素晴らしいんだ。
 なんて素晴らしいんだ。
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