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第1章

4 迷惑な酔っ払いは、ストレス製造機です

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 突然、意識が覚醒した。
 意識の覚醒とともに胸が高鳴る。
 自分が仕掛けた罠にまんまと獲物がかかり、その獲物を捕獲しにいく。そんな気持ちに似ている。

 絶対に、絶対に金縛りだ。
 金縛りにかかったんだ!

 振り返れば金縛りにかかるために様々なことをした。
 居酒屋のバイトを必死に頑張ったり、ポップコーン屋に一時間も並んだり、カップルやJK軍団に蔑んだ目で見られたり。
 あれだけ嫌なことがあったんだ。あれだけ心も体も疲労したんだ。精神的ストレスを大いに感じたんだ。

 金縛りにかかっているはずだ。
 これで『金縛りちゃん』に会える。

 艶やかなストレートの黒髪。
 こぼれ落ちそうなほど大粒のキラキラと輝いた綺麗な黒瞳。
 ぷるぷると柔らかそうな透き通った桃色の唇。
 薄暗い部屋を照らしてくれるような真っ白な肌。

 思い出すだけで胸が締め付けられる。

 超絶美少女の『金縛りちゃん』が、この中に……僕の布団の中にいるんだ。

 興奮で息が荒げる。下品に荒げる息は、本当に自分の息なのかと疑ってしまうほどだ。
 荒げる息と早くなる鼓動がビートを刻む。
 味わったことのない高揚感はなんとも心地良いものだった。

 早く会いたいよ。金縛りちゃん。
 出てきて。出てきて。出てきて。

 しかし、一向に『金縛りちゃん』は姿を現さない。

 違和感。そう。これは違和感だ。
 何かが違う。初めて金縛りにかかったと何かが違う。

 足を掴まれているような感覚は……?
 ――ない。

 瞳はどうだ? 動くか? 動かせるか?
 ――動く。


 金縛りの一番の特徴でもある『体の自由が効かない』という感覚は……?
 ――ない。

 って? え? あれ? おかしいぞ?
 指が動く。腕も、足も、頭も、寝返りだって打てる。目蓋も閉じられる。

 何でだ? 
 僕は金縛りにk――

 かかっていないのか、と脳内で疑問の声が再生する直前、膀胱が悲鳴を上げた。

 尿意だ。
 僕は尿意で意識が覚醒したのだと、遅れて気付く。

 手遅れにならずに済んだが、変に体を動かしてしまったせいで起き上がるのに一苦労。
 起き上がる瞬間に漏れかけた。多分、ちょっとだけ漏れた。

 ワンルームのボロアパートに住んでいるおかげでトイレまでの距離は近い。
 途中で漏らすことなく膀胱を救うことに成功する。

 救いを求めるのは僕の心だけになる。

「ぁぅ……金縛りちゃん……さ、さむっ……」

 十一月の深夜、それもボロアパートだ。よく冷える。

 くそ。くそ。なんでだ。
 なんで金縛りにかからなかったんだ。

 金縛りにかかるためにあれだけ頑張ったのに。
 好きなものを好きなだけ食べて不摂生だったのに。
 昼はラーメン。夜食にポップコーン。栄養バランスなど一切考えてない不摂生な食事だ。
 ポップコーンのお供にコーラを大量に飲んだのも暴露しよう。

 ま、待てよ。
 もしかして、原因ってそれ?

 水分と塩分の取り過ぎ。自業自得だった。

 情けない。なんて情けないんだ僕は。
 不摂生な食事は『金縛り』にかかりやすくなる。けれど『夜間頻尿』を起こしてしまうリスクもあった。
 むしろリスクを引き起こす確率の方が高いではないか。
 こんな落とし穴があったなんて。なんで気が付かなかったんだろう。
 失敗した。一日を無駄にした。


 今日はもう金縛りにかかるチャンスは無いと悟った。
 このまま大人しく布団に潜り込んで眠りにつくしかない。

 沈んだ気持ちのまま布団の温もりに包まれた。

 どうせ寝るなら夢が見たい。
 ――金縛りちゃんに会う夢を。

 金縛りにかかるチャンスはなくても、夢の中で『金縛りちゃん』に会うチャンスはある。
 珍しくポジティブ思考なのは、それだけ『金縛りちゃん』を思う気持ちが強いからだ。




 ◆◇◆◇◆◇◆◇




 ピピピピッピピピピッ

 目覚まし時計の鳴る音だ。

 覚醒したばかりの頭で思ったことは、『今日こそは金縛りにかかるぞ』だった。
 朝から気合が入っている。
 そいえば、眠る前もポジティブ思考だった。
 悪くない。ポジティブから始まる朝も悪くないものだ。

 ポジティブ思考が消失する前に脳内で作戦会議が始まる。

 水分と塩分の取り過ぎによる『夜間頻尿』。
 これを改善しないとダメだな。
 金縛りにかかる前に尿意で起きてしまう。

 それに金縛りにかかったとしても、尿意を催したら最悪だ。
 生理現象とはいえ最悪だ。これだけは絶対に避けたい。
 『金縛りちゃん』にお漏らしなんて見せられるわけがない。
 まあ、『金縛りちゃん』に限ってのことじゃないけど。

 とりあえずラーメンとかのスープの飲み過ぎには注意しよう。
 スープを最後まで飲んでしまう派の僕が我慢できるかどうか……。
 いや、できる。『金縛りちゃん』のためならなんだって我慢できる。我慢してやる。


 それなら今日はジャンクフードの王様を――ハンバーガーを食べよう。
 スープがないしほどよく不摂生な食事を取れるはずだ。
 バイトが始まる時間までアニメを観ながらだらだらと過ごそう 

 ウサギの背中のようなもこもこの乱れた髪を乱暴に整いながら、一番近くにあるハンバーガーショップに向かう。
 その道中でもやはり考えることは『金縛りちゃん』に関することだ。

 バイトが始まるまではストレスを溜めるような行動を取りたいけど、そもそもストレスを溜めるってどうやればいいんだ?
 溜めたいと思っても溜めれるようなもんじゃないぞ。

 昨日溜めたストレスポイントは偶然溜まったと言っても過言じゃない。
 ポップコーン屋に並んでた『性欲丸出しオスザル』と『女子高校生四人組』がいたから精神的ストレスを溜められたんだ。
 もしも礼儀正しい人たちが――常識人が並んでいたらストレスを溜められただろうか?
 否だ。断じて否だ。
 一時間並んだ際に得た精神的ストレスと身体的疲労があったとしても、ポップコーンを購入した達成感でそれが減少してしまうに違いない。

 居酒屋のバイトだってそうだ。
 迷惑な酔っ払いが来店してくれなければ身体的疲労だけで終わってしまう。
 バイトが終われば達成感で重くのしかかっていた精神的ストレスが少しだけ軽くなるに違いない。

 やはり心身共に極限まで疲れていなければ、疲労困憊ひろうこんぱいしていなければ、金縛りにかかることができない。
 つまり、『金縛りちゃん』に会うことができないのだ。

 人間関係。これがストレスを溜めるのに一番効率がいい。
 『迷惑な酔っ払い』然り『性欲丸出しのオスザル』然り『小馬鹿にしてくる女子高校生』然り。ストレスポイントは非常に高い。

 迷惑な酔っ払い、今日は来てくれるといいな。
 過去の自分では考えられない発言が脳内で再生された。
 過去の自分に聞かせたら、『頭がおかしくなった』と勘違いされるだろう。
 いや、勘違いではない。
 僕の頭はおかしくなった。
 実在するかどうかわからない幽霊のことで――『金縛りちゃん』のことでいっぱいなのだから。

 そんな事を思考しているうちに、ハンバーガーショップに到着した。




 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 バイトの時間もあっという間。
 アニメを観ながらハンバーガーを食べていたのも、もう過去だ。


 チリンチリンチリーン。

 店の扉が開いた音だ。
 この音が鳴るのは『誰かが店に入った時』と『誰かが店を出た時』の二択。
 その『誰か』とは『客』や僕たち『従業員』そして『配達員』など様々。
 しかし、この時間帯で店の扉を開けるのはほぼ100%『客』だ。
 だから僕は扉の方を振り向き決まったセリフを言う。


「いらっ――」
「いらっしゃいませー!!!!!!!!」

 僕の声をかき消すほどの大声で客が来店した。
 自らが来店したのにもかかわらず自らに『いらっしゃいませ』と、しかも大声で叫ぶ人種は一つしかない。
 迷惑な酔っ払いだ。迷惑な酔っ払いがついにのだ。


 きたきたきたきたきた!
 嬉しさのあまりウサギのように飛び跳ねそうになったが、奥歯を強く噛んで、拳を強く握りしめて何とか堪えた。
 この時、脳内で『ストレス製造機』という言葉が自分の声でこだました。
 我ながら冴えているネーミングセンスだと自画自賛してしまう。

「いつもの五つ!!!」

 席に案内する前だぞ。しかも『いつもの』ってなんだよ。五人いるってのは分かったけど。

 僕は反論も反抗もすることなく、あたふたとしながら、ついでに困り顔をしながら『ストレス製造機』もとい『迷惑な酔っ払い』を席へと案内した。
 これが『迷惑な酔っ払い』に対する接客術だ。こちらから不快感を与えないための接客術なのだ。



 ピロピロピロピロ


 『迷惑な酔っ払い』を席に案内してから五分くらいが経過しただろう。
 そろそろ追加のオーダーがあってもおかしくない、と思っていた時に店員を呼ぶ『呼び出しベル』が鳴ったのだ。
 呼び出しベルを鳴らした席の番号を確認する。そこには『迷惑な酔っ払い』が座っている席の番号が表示されていた。

 いつもなら僕の心は前に進まない。足は席へと向かっていくのに心だけはどうしても後退していた。
 しかし、今は違う。心も体も前進しているではないか。

「お待たせしました。ご注文をどうぞ」

「これ! 大至急持って来い!」

 そう言って見せてきたのは、カランコロンと氷だけが転がるジョッキグラスだった。

 これって何を飲んだんだよ。ちゃんと言えよ。
 なんて野暮なことは聞かない。
 注文履歴を見れば何を頼んだのかは把握できる。

『生ビール』
『ハイボール』

 ドリンクはこのニ種類の注文があった。
 ジョッキグラスに氷が入っているところを見ると『迷惑な酔っ払い』が『これ』と言って注文したものは『ハイボール』で間違いがない。

「ハイボールですね。以上でよろs」
「早く持ってこいよ。何してんだよ! 大至急って言っただろ。使えねーな! クズがァ!」

 そんなに口が動くのだったら『ハイボール』の一言くらい言えるだろ。
 心の中だけの愚痴が止まらない。うっかり愚痴が口から溢れてしまわないように「かしこまりました」と脳内で一度再生してから口に出した。
 そしてだいぶ慣れてしまった営業スマイルを無理やり出す。

 オーダーを取る前までは前進していた心はもう遥か彼方へと後退していた。
 もう二度とこの『迷惑な酔っ払い』に対して前進することはないだろう。

 行きたくない。行きたいくない。行きたくない。行きたいくない。行きたくない。行きたいくない。行きたくない。行きたいくない。行きたくない。行きたいくない。行きたくない。行きたいくない。

 ハイボールを作りながら脳内では拒絶の言葉がこだまする。
 しかし、これは仕事だ。行くしかない。
 『金縛り』にかかるためにも、『金縛りちゃん』のためにも行くしかない。
 耐えるしかない。
 今までだって乗り越えてきた。同じように乗り越えるしかない。

「お待たせいたしました。ハイボールです」

 拒絶する心を殺して笑顔でハイボールを持っていった。
 人間って本当にすごいと思う。
 心と全く違う表情を出せるんだから。

「ちげーよ。バカ。レモンサワーだろうが! バカかお前は! クズがァ!」

 は?
 レモンサワー?
 注文履歴にはないぞ。
 『これ』って言って見せたジョッキグラスには確かに氷は入ってた。レモンサワーにも氷を使う。
 でもそのジョッキグラスはレモンサワーのやつじゃない。
 ハイボールのやつだ。注文履歴にもしっかり『ハイボール』の文字が刻まれてる。
 それにレモンサワーは特別な銀色のグラスでハイボールのジョッキグラスとは形状が全く違う。
 それとレモンサワーを今日は一度も作ってないぞ。

 鬼の形相で怒鳴る迷惑な酔っ払いに僕の脳はパニックを起こす。
 指先は小刻みに震え始めてしまう。止まらない。止められない。

「レモンサワーって言っただろが! ちゃんと聞いてたのかよ! 本当に使えねーな! クズがァ!」

 子ウサギのように震える僕に対して『迷惑な酔っ払い』は、テーブルを乱暴に叩いて追い討ちをかける。
 これって恐喝罪になりませんか?
 めちゃくちゃ怖いんですけど。

 それとここで断言したい。
 『レモンサワー』という言葉を僕は聞いてない。
 そして当然のことながら『迷惑な酔っ払い』の口から一度も発せられてない。

 ここで抵抗しないのが僕だ。
 いや、正確に言うと。できるわけがない。
 あとあと面倒臭いことになるとかそう言うことじゃない。怖くて抵抗なんてできないんだ。
 これ以上ストレスを溜める必要はない。精神崩壊してしまいそうだ。
 ここは理不尽だが、丁寧に謝罪をして穏便に事を済ませよう。

「大変申し訳ございませんでした。すぐにレモンサワーを持ってきます」

「大・至・急・な!」

 怒号の如くハッキリと言われた。
 これが『迷惑な酔っ払い』だ。
 世界の中心が自分自身なのだと思っているのだろう。理不尽すぎる考え方だな。

 酔っ払っているからと言ってここまでのことをする人間は、素面だったとしても大した人間ではないと僕は思う。
 上司にはペコペコと頭を下げて靴も舐めるだろう。その反面自分よりも弱い人間を見つければ牙を向ける。
 偏見かもしれないが僕にはそんな風に見えてしまう。

 いつもならここで『辞めたい』と心が訴えてくるだろう。
 しかし、不思議とその感情は顔を見せてこない。
 バイトを辞めたいという感情よりも、『金縛りちゃん』に会いたいという気持ちが強いという証拠だ。

 精神的ストレス溜めるという目的は果たされた。
 あとはいつものように心を無にして、閉店時間までバイトに挑むだけ。




 ◆◇◆◇◆◇◆◇




 無事にバイトが終わり家に帰ってきた。
 今は布団の中。なぜかいつも以上に落ち着く。
 おそらくここが『金縛りちゃん』に会った貴重な場所だからだろう。
 そうじゃなきゃこんなに落ち着くものではない。

 精神的ストレスも身体的疲労もだいぶ蓄積されている。
 お風呂も入りたくないほどに。夜食を口に入れたくないほどに。
 ただただ今は眠りたい。爆睡をかましたい。

 この疲労なら金縛りにかかってもおかしくない。

 僕の意識は暗くて深い闇の中へと消えていった。
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