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第1章
2 僕の名前は山中愛兎、ウサギって呼ばれることが多い
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僕の名前は山中愛兎 。みんなからは『ウサギ』と呼ばれることが多い。
二十五歳の独身。もちろん童貞。身長は177㎝。体重は60kg。とちょっと痩せ型――もやし体型だ。
髪はもこもこ、前髪は目が隠れるくらいまで伸びている。
この髪型もウサギの後ろ姿みたいで、ウサギと呼ばれる所以の一つでもある。
愛兎という名前は、もちろん両親が名付け親だ。両親は生粋のウサギ好き。
だから愛する兎で愛兎なのである。単純な理由だ。
両親はウサギサークルとかいうウサギを愛する者が集う大学のサークルで運命的な出会いをしたそうだ。
実家にはウサギモチーフの食器や家具がたくさんある。みんなも知っているであろうピータラビットのグッズだらけだ。春のパン祭りの景品ばかりだ。
極め付けには家の玄関にお好み焼き屋などでよく見る大きな狸の置物それのウサギバージョンが飾ってあるぐらいなのだから、両親は相当ウサギが好きなのである。否、愛しているのである。
家の前を通る学生たちは、ウサギの置物に向かって小銭を投げ入れていたりもする。僕はそれを拾い親に内緒でお小遣いにしたりもした。ウサギ様ありがとうございます。
けれど、息子にまでウサギと名付ける行き過ぎたウサギ愛も程々にしてほしいと思っていたりもする。
愛兎という名前はごく一般的な名前だが、『兎』という漢字が『ウサギ』だと気付いた小学生高学年時代は、おかげでクラスの人気者に成り上がったりもした。
しかし、中学校に進学してからは、動物の名前が自分の名前に入っているというだけあって虐めにあったこともある。忌まわしい過去だ。
虐めを受けてからは人間関係がうまくいかなくなり人と関わるのが怖くなったりもした。人間不信予備軍だ。
そこからはなるべく人と関わらないように人を避けながら生活を送っていた。
そんな日々が高校卒業まで続いた。
辛い経験をたくさんしたおかげで地元が嫌いになった。だから地元から逃げるように大学は都内に進学した。
人を避けながら生活していただけあって大学でも人間関係はうまくいかない。大学デビューならずだ。
でも友達を作ることができた。五人、いや、三人。違うな。二人だ。多分二人くらい作れたと思っている。
それは僕にとっては大きな一歩。いや、めちゃくちゃ頑張ったから千歩くらいだと思う。
人間不信――人間恐怖症を完全に克服できないまま僕は大学を卒業する。全くいい思い出はない。
もちろん恋愛なんてした事がない。恋人いない歴=年齢だ。
大学卒業後は大手飲食店に就職したのだが人間関係がうまくいかずすぐに退職。
その後はコンビニ、雑貨屋、本屋、花屋、ペットショップなどアルバイトを始めては辞めて始めては辞めてを繰り返していた。
そして今は『居酒屋ウサギタロウ』という居酒屋でアルバイトをしている。
◆◇◆◇◆◇◆◇
バイトが始まる時間だ。
仕事内容は至ってシンプル。接客と掃除だ。
お客さんが来店したらまず席へ案内する。そしてお客さんからオーダーを取り厨房へと伝達。料理が出来上がったら席へと運ぶ。お客様が帰ったら席を片付ける。
一般的な飲食店と変わらない仕事内容だ。
たまに酔っ払いやクレーム対応などをしなくてはならない時があるのがお酒を提供する居酒屋の嫌なところでもある。
迷惑な酔っ払いのウザ絡みは本当に厄介で本当に嫌だ。精神がもたない。
『お客様は神様』という言葉をこの世から消し去りたいと何度も本気で思ったことがある。
今すぐに思い出せる酷かった事は、店で取り扱っていない料理を注文する迷惑な酔っ払いだ。
「ありません」と言っても「あるだろ」と言ってくる。また「ありません。すいません」と謝っても「あるよな。出せよ。前はあっただろ」とありもしなかったことを言って言い返してくる。
これって脅迫罪になりませんか? それとも恐喝罪? どちらでもいいけど何か罪になりませんか?
そんなめんどくさいやり取りが何度も何度も何度も続くのだ。何て理不尽なんだ。
また一つ思い出したぞ。用も無いのに何度も店員を呼ぶベルを鳴らすっ酔っ払いもいた。本当に迷惑だ。店にも僕にも迷惑すぎる。
その迷惑な酔っ払いは、最終的に「ふざけんな」と激昂し暴れていた。どうしてこんなに迷惑で面倒臭いのだろうか。
本当にタチが悪い。迷惑な酔っ払いは嫌いだ。大っ嫌いだ。
なので居酒屋のバイトを辞めようかなと考えているところだ。辞め癖が完全についてしまっていた。その自覚はある。
次のバイトを探そう。辞める前から考えてしまっている。
もう飲食店はやらない。絶対にだ。迷惑な酔っ払いには二度と関わりたくない。
次は動物園や水族館とかで癒されながら働きたいと思っている。
飼育員って大変だとかよく聞くけど動物は癒しだ。変な気を使わなくて済む。
両親のウサギ好きが影響しているのだろうなとも思ったりもしている。
そんなことを思考ながら、今日のバイトは無事に終わった。迷惑な酔っ払いが来なくて本当によかった。
バイトの帰り道、疲労が溜まりに溜まった肩を揉み解しながら、初めて金縛りにかかった時の事を思い出す。
金縛りの時に現れた女性の幽霊の――金縛りちゃんの顔が目に焼き付いてしまってどうしても忘れられない。
艶やかなストレートの黒髪。
こぼれ落ちそうなほど大粒のキラキラと輝いた綺麗な黒瞳。
ぷるぷると柔らかそうな透き通った桃色の唇。
薄暗い部屋を照らしてくれるような真っ白な肌。
本当に可愛かった。それに美人だった。天使だ。幽霊なんかじゃない。あの子は天使だ。
もう一度だけ、もう一度だけでいいから会いたい。
金縛りちゃんに会いたい。
どうしたら金縛りちゃんに会えるのだろうか?
帰り道そればかりを思考していたが、答えが見つかるわけがなかった。
この張り裂けそうな胸の鼓動は、もしかしたら恋なのかもしれない。
僕は金縛りちゃんに恋をしてしまったのかもしれない。
吊り橋効果というものだろうか。いや、きっとそうだ。
金縛りにかかったことで不安や恐怖を強く感じた。その時にあの子が……『金縛りちゃん』が現れたんだ。
恐怖のドキドキが恋愛のドキドキに変わったと考えるのが妥当だ。じゃなきゃ僕の性癖は歪んでいる。幽霊に恋をするなんて。
「くふふっ」
金縛りちゃんのことを考えていると思わずニヤケてしまった。自分自身声が漏れたのには驚いたが、幸いなことに周りには誰もいない。僕のニヤケ声を誰かに聞かれずに済んだのだった。
終始ニヤニヤしながら歩いていると、あっという間に家に到着する。
愛兎が住んでいるボロアパートは両親の知り合いの不動産屋さんが親切丁寧に選んでくれた物件だ。
家賃は五万円三千円で都内にしては安い方。格安物件だ。
大学入学とともに借りているので、もう七年近くは住んでいる計算になる。
この七年間、心霊現象の類は一度も起きたことはない。
もちろん事故物件でも無ければ幽霊が出たという噂もない。
けれど、あの日の……あの『金縛り』は一体何だったのだろうか。
ギュィイイイィ
家の扉を開けた。相変わらず不気味な音が鳴るがもう慣れた。
家に一歩足を踏み入れた瞬間、僕の心臓は鼓動を早めた。ドキドキ、ドキドキと煩い。
心拍数の上昇で息苦しさも感じ始めた。
もしかしたら、昨夜の……僕が一目惚れをした『金縛りちゃん』がいるかもしれない。金縛りにかかってなくても現れるかもしれない。なぜかそう思ってしまった。
そう思ってしまった瞬間から僕の足は吸い込まれるようにベットへと向かって行った。
「……布団の中に……」
いるかもしれない。金縛りちゃんがいるかもしれない。
そんな期待が心拍数をさらに上昇させていく。
しかし布団の中には誰もいなかった。当然だろう。もし誰かがいたら不法侵入だ。間違いなく捕まる。それ以前に僕の命が危ない。
「……はぁ」
バイトに行く前と何一つ変わらない光景が広がる部屋でため息が溢れる。
「……いるわけないよな」
ため息とともに吐いた言葉は僕をいつも通りの平凡な生活へ連れ戻す。
いつの間にか通常通りに戻っていた心拍数を確認した後、夜食の準備に取り掛かった。
準備といっても僕は自炊をしたことがない。
いや、それは少しだけ語弊がある。大学に通っていた時は最初の一ヶ月くらいだけは自炊をしていた。
でもコンビニの良さを知ってしまい自炊がバカバカしくなり辞めたのだ。学業だけで精一杯だ。
そして今もバイトで疲労困憊している。こんな状態で自炊なんてできるわけがない。
だから夜食はいつもコンビニ弁当だ。
って、コンビニ寄ってないじゃんか。忘れてた。
金縛りちゃんのことを考え過ぎていた結果、自分の夜食を買い忘れてしまったのだ。
でも大丈夫。こんなこともあろうかと非常食が台所にある。そう、非常食とはカップ麺だ。
コンビニに行くことすら億劫に感じてしまう日のために、そう、今日のためにカップ麺は常備してあるのだ。
電気ポットに水道水を入れて沸騰するのを待つ。沸騰したらカップ麺にお湯を注いで三分待つだけ。なんて楽なんだ。
今日の夜食は『赤いウサギ』というカップ麺だ。
ウサギと書かれた商品名に惹かれて買ったカップ麺だ。そういう買い方をしてしまうことが多々ある。
この名前のせいで虐められたりした事もあった。でも正直なところ、自分の名前は嫌いじゃない。むしろ好きかもしれない。
ウサギの商品などを見かけたら気になるし、両親に写真を送ったりもする。
ウサギ好きの両親の遺伝子が濃く受け継がれているのだと自分でも感じている。感じざるを得ない。
スマホでアニメを視聴しながら『赤いウサギ』を食べ終える。
視聴しているアニメにもウサギのキャラクターがマスコットとして登場している。我ながらどんだけウサギが好きなんだよ。
アニメも一話分見終えたら次は風呂だ。
風呂の次は寝るだけ。ベットにダイブしてスマホをいじいじ。そして寝落ち。
これが僕のバイト終わりのルーティーンだ。
布団に入りスマホをいじいじするが、画面に映っていることとは全く別のことを思考していた。
睡魔が襲ってきたのではない。金縛りちゃんのことを考えてしまっているのだ。
また『金縛りちゃん』に会いたいな。
金縛りちゃんが現れた布団の中を覗き込むが、誰もいない。いるはずがない。
どうしたら会えるんだろう。こういう時はググるか。
金縛りちゃんのことを考えれば考えるほど、検索履歴が無情にも増えていく。
金縛りちゃんのことを考えすぎて脳は興奮状態。
スマホを閉じてもすぐに開いてしまう。そんなスマホ依存症の初期症状も現れ始める。
流石に目が痛くなった。スマホの画面の光を近距離で浴び過ぎたせいだ。
目蓋のカーテンを閉めるが、これは睡眠を取るためなんかではない。休憩だ。再びスマホで金縛りについてググるための休憩だ。
この休憩時間も僕は無駄にはしない。
脳内で金縛りについて思考を続ける。己の知識をフル活用して金縛りにかかる方法を、金縛りちゃんに会う方法を思考するのだった。
もはやこれは『スマホ依存症』というよりも『金縛り依存症』と言ったほうが正しい。
否、語弊がある。
『金縛り依存症』ではなく『金縛りちゃん依存症』だ。
それの初期症状だ。
二十五歳の独身。もちろん童貞。身長は177㎝。体重は60kg。とちょっと痩せ型――もやし体型だ。
髪はもこもこ、前髪は目が隠れるくらいまで伸びている。
この髪型もウサギの後ろ姿みたいで、ウサギと呼ばれる所以の一つでもある。
愛兎という名前は、もちろん両親が名付け親だ。両親は生粋のウサギ好き。
だから愛する兎で愛兎なのである。単純な理由だ。
両親はウサギサークルとかいうウサギを愛する者が集う大学のサークルで運命的な出会いをしたそうだ。
実家にはウサギモチーフの食器や家具がたくさんある。みんなも知っているであろうピータラビットのグッズだらけだ。春のパン祭りの景品ばかりだ。
極め付けには家の玄関にお好み焼き屋などでよく見る大きな狸の置物それのウサギバージョンが飾ってあるぐらいなのだから、両親は相当ウサギが好きなのである。否、愛しているのである。
家の前を通る学生たちは、ウサギの置物に向かって小銭を投げ入れていたりもする。僕はそれを拾い親に内緒でお小遣いにしたりもした。ウサギ様ありがとうございます。
けれど、息子にまでウサギと名付ける行き過ぎたウサギ愛も程々にしてほしいと思っていたりもする。
愛兎という名前はごく一般的な名前だが、『兎』という漢字が『ウサギ』だと気付いた小学生高学年時代は、おかげでクラスの人気者に成り上がったりもした。
しかし、中学校に進学してからは、動物の名前が自分の名前に入っているというだけあって虐めにあったこともある。忌まわしい過去だ。
虐めを受けてからは人間関係がうまくいかなくなり人と関わるのが怖くなったりもした。人間不信予備軍だ。
そこからはなるべく人と関わらないように人を避けながら生活を送っていた。
そんな日々が高校卒業まで続いた。
辛い経験をたくさんしたおかげで地元が嫌いになった。だから地元から逃げるように大学は都内に進学した。
人を避けながら生活していただけあって大学でも人間関係はうまくいかない。大学デビューならずだ。
でも友達を作ることができた。五人、いや、三人。違うな。二人だ。多分二人くらい作れたと思っている。
それは僕にとっては大きな一歩。いや、めちゃくちゃ頑張ったから千歩くらいだと思う。
人間不信――人間恐怖症を完全に克服できないまま僕は大学を卒業する。全くいい思い出はない。
もちろん恋愛なんてした事がない。恋人いない歴=年齢だ。
大学卒業後は大手飲食店に就職したのだが人間関係がうまくいかずすぐに退職。
その後はコンビニ、雑貨屋、本屋、花屋、ペットショップなどアルバイトを始めては辞めて始めては辞めてを繰り返していた。
そして今は『居酒屋ウサギタロウ』という居酒屋でアルバイトをしている。
◆◇◆◇◆◇◆◇
バイトが始まる時間だ。
仕事内容は至ってシンプル。接客と掃除だ。
お客さんが来店したらまず席へ案内する。そしてお客さんからオーダーを取り厨房へと伝達。料理が出来上がったら席へと運ぶ。お客様が帰ったら席を片付ける。
一般的な飲食店と変わらない仕事内容だ。
たまに酔っ払いやクレーム対応などをしなくてはならない時があるのがお酒を提供する居酒屋の嫌なところでもある。
迷惑な酔っ払いのウザ絡みは本当に厄介で本当に嫌だ。精神がもたない。
『お客様は神様』という言葉をこの世から消し去りたいと何度も本気で思ったことがある。
今すぐに思い出せる酷かった事は、店で取り扱っていない料理を注文する迷惑な酔っ払いだ。
「ありません」と言っても「あるだろ」と言ってくる。また「ありません。すいません」と謝っても「あるよな。出せよ。前はあっただろ」とありもしなかったことを言って言い返してくる。
これって脅迫罪になりませんか? それとも恐喝罪? どちらでもいいけど何か罪になりませんか?
そんなめんどくさいやり取りが何度も何度も何度も続くのだ。何て理不尽なんだ。
また一つ思い出したぞ。用も無いのに何度も店員を呼ぶベルを鳴らすっ酔っ払いもいた。本当に迷惑だ。店にも僕にも迷惑すぎる。
その迷惑な酔っ払いは、最終的に「ふざけんな」と激昂し暴れていた。どうしてこんなに迷惑で面倒臭いのだろうか。
本当にタチが悪い。迷惑な酔っ払いは嫌いだ。大っ嫌いだ。
なので居酒屋のバイトを辞めようかなと考えているところだ。辞め癖が完全についてしまっていた。その自覚はある。
次のバイトを探そう。辞める前から考えてしまっている。
もう飲食店はやらない。絶対にだ。迷惑な酔っ払いには二度と関わりたくない。
次は動物園や水族館とかで癒されながら働きたいと思っている。
飼育員って大変だとかよく聞くけど動物は癒しだ。変な気を使わなくて済む。
両親のウサギ好きが影響しているのだろうなとも思ったりもしている。
そんなことを思考ながら、今日のバイトは無事に終わった。迷惑な酔っ払いが来なくて本当によかった。
バイトの帰り道、疲労が溜まりに溜まった肩を揉み解しながら、初めて金縛りにかかった時の事を思い出す。
金縛りの時に現れた女性の幽霊の――金縛りちゃんの顔が目に焼き付いてしまってどうしても忘れられない。
艶やかなストレートの黒髪。
こぼれ落ちそうなほど大粒のキラキラと輝いた綺麗な黒瞳。
ぷるぷると柔らかそうな透き通った桃色の唇。
薄暗い部屋を照らしてくれるような真っ白な肌。
本当に可愛かった。それに美人だった。天使だ。幽霊なんかじゃない。あの子は天使だ。
もう一度だけ、もう一度だけでいいから会いたい。
金縛りちゃんに会いたい。
どうしたら金縛りちゃんに会えるのだろうか?
帰り道そればかりを思考していたが、答えが見つかるわけがなかった。
この張り裂けそうな胸の鼓動は、もしかしたら恋なのかもしれない。
僕は金縛りちゃんに恋をしてしまったのかもしれない。
吊り橋効果というものだろうか。いや、きっとそうだ。
金縛りにかかったことで不安や恐怖を強く感じた。その時にあの子が……『金縛りちゃん』が現れたんだ。
恐怖のドキドキが恋愛のドキドキに変わったと考えるのが妥当だ。じゃなきゃ僕の性癖は歪んでいる。幽霊に恋をするなんて。
「くふふっ」
金縛りちゃんのことを考えていると思わずニヤケてしまった。自分自身声が漏れたのには驚いたが、幸いなことに周りには誰もいない。僕のニヤケ声を誰かに聞かれずに済んだのだった。
終始ニヤニヤしながら歩いていると、あっという間に家に到着する。
愛兎が住んでいるボロアパートは両親の知り合いの不動産屋さんが親切丁寧に選んでくれた物件だ。
家賃は五万円三千円で都内にしては安い方。格安物件だ。
大学入学とともに借りているので、もう七年近くは住んでいる計算になる。
この七年間、心霊現象の類は一度も起きたことはない。
もちろん事故物件でも無ければ幽霊が出たという噂もない。
けれど、あの日の……あの『金縛り』は一体何だったのだろうか。
ギュィイイイィ
家の扉を開けた。相変わらず不気味な音が鳴るがもう慣れた。
家に一歩足を踏み入れた瞬間、僕の心臓は鼓動を早めた。ドキドキ、ドキドキと煩い。
心拍数の上昇で息苦しさも感じ始めた。
もしかしたら、昨夜の……僕が一目惚れをした『金縛りちゃん』がいるかもしれない。金縛りにかかってなくても現れるかもしれない。なぜかそう思ってしまった。
そう思ってしまった瞬間から僕の足は吸い込まれるようにベットへと向かって行った。
「……布団の中に……」
いるかもしれない。金縛りちゃんがいるかもしれない。
そんな期待が心拍数をさらに上昇させていく。
しかし布団の中には誰もいなかった。当然だろう。もし誰かがいたら不法侵入だ。間違いなく捕まる。それ以前に僕の命が危ない。
「……はぁ」
バイトに行く前と何一つ変わらない光景が広がる部屋でため息が溢れる。
「……いるわけないよな」
ため息とともに吐いた言葉は僕をいつも通りの平凡な生活へ連れ戻す。
いつの間にか通常通りに戻っていた心拍数を確認した後、夜食の準備に取り掛かった。
準備といっても僕は自炊をしたことがない。
いや、それは少しだけ語弊がある。大学に通っていた時は最初の一ヶ月くらいだけは自炊をしていた。
でもコンビニの良さを知ってしまい自炊がバカバカしくなり辞めたのだ。学業だけで精一杯だ。
そして今もバイトで疲労困憊している。こんな状態で自炊なんてできるわけがない。
だから夜食はいつもコンビニ弁当だ。
って、コンビニ寄ってないじゃんか。忘れてた。
金縛りちゃんのことを考え過ぎていた結果、自分の夜食を買い忘れてしまったのだ。
でも大丈夫。こんなこともあろうかと非常食が台所にある。そう、非常食とはカップ麺だ。
コンビニに行くことすら億劫に感じてしまう日のために、そう、今日のためにカップ麺は常備してあるのだ。
電気ポットに水道水を入れて沸騰するのを待つ。沸騰したらカップ麺にお湯を注いで三分待つだけ。なんて楽なんだ。
今日の夜食は『赤いウサギ』というカップ麺だ。
ウサギと書かれた商品名に惹かれて買ったカップ麺だ。そういう買い方をしてしまうことが多々ある。
この名前のせいで虐められたりした事もあった。でも正直なところ、自分の名前は嫌いじゃない。むしろ好きかもしれない。
ウサギの商品などを見かけたら気になるし、両親に写真を送ったりもする。
ウサギ好きの両親の遺伝子が濃く受け継がれているのだと自分でも感じている。感じざるを得ない。
スマホでアニメを視聴しながら『赤いウサギ』を食べ終える。
視聴しているアニメにもウサギのキャラクターがマスコットとして登場している。我ながらどんだけウサギが好きなんだよ。
アニメも一話分見終えたら次は風呂だ。
風呂の次は寝るだけ。ベットにダイブしてスマホをいじいじ。そして寝落ち。
これが僕のバイト終わりのルーティーンだ。
布団に入りスマホをいじいじするが、画面に映っていることとは全く別のことを思考していた。
睡魔が襲ってきたのではない。金縛りちゃんのことを考えてしまっているのだ。
また『金縛りちゃん』に会いたいな。
金縛りちゃんが現れた布団の中を覗き込むが、誰もいない。いるはずがない。
どうしたら会えるんだろう。こういう時はググるか。
金縛りちゃんのことを考えれば考えるほど、検索履歴が無情にも増えていく。
金縛りちゃんのことを考えすぎて脳は興奮状態。
スマホを閉じてもすぐに開いてしまう。そんなスマホ依存症の初期症状も現れ始める。
流石に目が痛くなった。スマホの画面の光を近距離で浴び過ぎたせいだ。
目蓋のカーテンを閉めるが、これは睡眠を取るためなんかではない。休憩だ。再びスマホで金縛りについてググるための休憩だ。
この休憩時間も僕は無駄にはしない。
脳内で金縛りについて思考を続ける。己の知識をフル活用して金縛りにかかる方法を、金縛りちゃんに会う方法を思考するのだった。
もはやこれは『スマホ依存症』というよりも『金縛り依存症』と言ったほうが正しい。
否、語弊がある。
『金縛り依存症』ではなく『金縛りちゃん依存症』だ。
それの初期症状だ。
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