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真紅のトマト担々麺

018:来るもの拒まず去るもの追わず、それが魔勇家

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「ま、参ったァァー!!!!」

 それが〝真紅のトマト担々麺〟を一口食べたオーグルから出た最初の言葉だった。
 予め決めていた『不味い』という言葉――勝利を手にする言葉ではなく、敗北をきっする『美味い』という言葉でもなく、自らが敗北を認めるだった。

「へ? ま、参った? え?」

 オーグルから発せられた降参の言葉が意外だったのか、勇者ユークリフォンスは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。

「そうだァ。参ったァって言ったんだッ。嘘なんか付けないほどに美味いッ! 美味すぎるんだよォ! コラァ!! 悪いかァ――!?」

 あまりの美味さに怒号を飛ばすオーグル。
 その口を塞ぐのは冷静な思考でも、目の前の勇者ユークリフォンスでもない。〝真紅のトマト担々麺〟だ。
 オーグルは怒号を飛ばした直後、〝真紅のトマト担々麺〟のスープを、麺を、具材を、どんどんと口へ運んでいく。
 閉店時間間際ではあるものの、そこまで急いで食べる必要はない。ましてや目の前の〝真紅のトマト担々麺〟はどこへも行かない。
 行くとしたら胃袋の中か、残飯処理されるかだ。後者の説はオーグルの食べっぷりからしてすでに無いものだと言えよう。

「こんな美味すぎる食べ物は初めてだァ。それにこんなに赤い料理も初めてだァ! 赤いのに辛く無いッ! どういうことなんだ一体ッ! なんなんだこの美味すぎる食べ物は――!!!」

 大絶賛のオーグルである。

「真っ赤なトマトをイメージして改良に改良を重ねたスープだからな。赤く染めるための粉末にもこだわってるぜ。鬼人族のお前なら赤を受け入れるだろうと……いや、受け入れるしか無いと思ってこの〝真紅のトマト担々麺〟を選んだ。まあ、味も自信あるから選んだんだけどな。予想以上の喜びでこっちは大満足だよ」
「鬼人族の習性を――赤いものを好むということを知っていたとはなァ。それでいてこの美味さかッ! もやし小僧のわりには大したもんじゃねーかッ!」
「そりゃどうも」

 勇者ユークリフォンスは軽く会釈えしゃく会釈をして返した。
 オーグルはその会釈を紅色の瞳に映すことなく、目の前の〝真紅のトマト担々麺〟を無我夢中に喰らう。


 ――ズッ、ズズズーズーッ!!!


「胡麻味噌の塩味がトマトの酸味を上手い具合に抑制してやがるッ! 素晴らしいじゃねーかァ!」
「うんうん。そうなんだよ。酸味を活かしつつ、それでいて完全に味を殺さないように調整したんだよ」

 味の相互作用において酸味と塩味は抑制効果をもたらす。
 抑制効果とは――二種類以上の違った味が混ぜ合わさった時に、一つまたは両方の味が弱まる現象のことだ。
 弱まるという言葉にマイナス要素を感じるが、抑制効果においてはそうでは無い。
 味が弱まることによってまろやかさが現れたり、無意識に嫌う味の部分を和らげたり、食べやすくなったり、美味しく感じさせたり、などなど様々な効果がマイナス要素から生まれるのだ。
 それを今まさに鬼人は己の味覚を持ってして体感しているのである。


 ――ズーッ、ズズーッ!!!


「この芳醇で濃厚な味噌のその先にあるスープの旨味成分ッ! これにもこだわりを感じるぞッ! まるで旨味界の最強と最強が手を組んだかのようなッ! そんな味だッ!」
「そこまでわかるのか!? その通りだ! 豚のゲンコツで出汁をとってるんだが、その豚にも様々な種類を使ってる。豚と言っても家畜から魔獣まで様々だろ? そこから厳選に厳選を重ねて見つけ出した組み合わせなんだ! 一応企業秘密だからどの豚を使っているかは言えないがな」

 同じ系統の味を持つものを二つ以上合わせた時に、その味がより一層強調される現象のことを相乗効果と言う。
 この相乗効果で代表されるのが出汁だ。
 勇者ユークリフォンスが作っているスープ出汁のように様々な豚のゲンコツを組み合わせることによって、より一層旨味が増して美味しい出汁となるのである。
 他にも野菜を加えて脂っぽさや臭みを抑えたりするのだが、スープの出汁における相乗効果だけを考慮するとこれが全てであり真理なのである。


 ――ズルズルッ、ズーッ、ズズズルッ!!!


「このごろごろとしている豚挽肉とトマトの果肉も野菜も麺もまた格別だなッ! 違った食感が口の中で踊ってやがるッ! 一口噛めば個々が主張するのに、二口目からはそれぞれの良さが混ざり合い手を取り合ってダンスをしてるではないかッ!」
「そうなんだよ、そうなんだよ。違った食感だからこそ味わえる感覚があって、それが合わさった時にはまた違った感覚を生む。だから豚挽肉とトマトの大きさはバラバラなんだ。豚挽肉よりも柔らかいトマトは少し大きめで切ってある。そうじゃなきゃこの食感が味わえないんだよ」

 味の五大要素の他にも口腔内の皮膚感覚、つまり食感までも計算された一杯なのである。

 食感は触覚が関わる物理的な味とも言われている。
 五感である味覚と触覚と嗅覚を同時に味わえて幸福感を得られるのは、唯一食事だけだと言えよう。それも美味しい料理に限る。


 ――ズズーッ、ごくごくッ!!!


「ぷふァー!! もやし小僧ッ――!」

 最後の一滴まで飲み干したオーグルが乱暴に口元を拭ってから叫んだ。

「――いや、店主ッ!」

 もやし小僧から店主へと呼称が変わった。
 変わった理由など聞かずともわかる。
 その食べっぷりだけで理由などは不要だ。

「俺様の負けだァ。完膚なきまでになッ」

 敗北を認めたオーグルだったが、その表情は敗北を喫した者の表情ではなかった。
 どこか清々しく、それでいて満足している。そんな表情だ。

「この料理屋は潰すわけにはいかないッ。むしろ魔王様にも食べてもらいッ! そんなふうに一口目から思ってしまったッ! 魔王様が復活を遂げた暁には、大幹部である俺様から魔王様に交渉しようじゃないかッ! この料理屋は俺様たち魔王軍に必要な料理屋だってなァ!!」
「あ、う、うん。そ、それはどうも……」

 勇者ユークリフォンスは言えなかった。
 その魔王様が厨房からこちらを覗いているのだということを。

「先ほどの態度すまなかったッ。許してくれッ」

 今度は素直に謝罪するオーグル。
 〝真紅のトマト担々麺〟に何か入れたのではと疑ってしまうほどの豹変ひょうへんぶりだ。
 否、何も入れていないわけではない。〝真紅のトマト担々麺〟には豹変してしまうほどのものが入っている。

 ――それは真心だ。

 真心を込めた料理は人の心を変えてしまう。
 否、変えてしまうのでは無い。偽りや飾りのないを表に出させるのだ。
 だから『不味い』という嘘の一言が出なかった。
 だから『美味い』という真実の言葉が出た。
 ただそれだけのことなのだ。

 素直に敗北を認めて謝罪するオーグルを見た勇者ユークリフォンスは、過去にも似たようなことがあったのを思い出していた。

(そう言えばこいつ、戦場でも敵味方関係なく、良いものは良い、悪いものは悪いと正直に言ってたっけな。敵ながらその姿勢だけは認めていたのを思い出したよ。あの時と一緒。俺の聖剣を受けて散っていったあの時と一緒だ。こいつは――オーグルは武の心ってやつを持ってる真の強者だ)
「何を不思議そうな顔しているんだッ。美味いものに美味いと言っただけだろッ。勝利を喜べよ、店主ッ」
「ああ、店の存続を守れて良かったよ」

 オーグルに指摘されたことによって、ようやく自分の表情筋が固まっていたことに勇者ユークリフォンスは気付いた。

「それでだ店主ッ。俺様のわがままを聞いてくれェ」
「ん? まだ何かあんのかよ。なんだ? 言ってみろ」
「ああ……閉店時間が過ぎてるってのは百も承知だァ。だが……もう一杯だけ、あと一杯だけ、同じものが食いたいッ。作ってはくれないかッ? 今、すぐにッ!」
「あー、そう言うことか。いいぞ。来るもの拒まず去るもの追わず、それが魔勇家まゆうやだ! 担々麺を食いたいやつを閉店時間が理由で追い出すわけにはいかないからな。ちょっと待ってろ! まーちゃん、スープを温めてくれ! 追加オーダー! 〝真紅のトマト担々麺〟だ!!」

 勇者ユークリフォンスは、厨房からこちらの様子を伺っている魔王マカロンに向かって指示を出した。

「了解なのじゃ!」

 厨房から可愛らしい返事が勇者ユークリフォンスの鼓膜を振動させた。
 勇者ユークリフォンスの指示に従った魔王マカロンは、弱火だったスープの火を強火に変えた。それと同時に麺を茹でるためのゆで麺機の火も強火に変えた。

 オーグルは厨房に向かっていく勇者ユークリフォンスの背中を紅色の瞳で追いかけた。

(店主の姿、どこかで見たことあるようなッ……勇者のガキかァ? いや、そんなわけないかッ。それに女店主の喋り方もどこかで聞いたことがあるようなァ……まあ気のせいだろうッ。さっき食べたタンタンメンってやつが美味過ぎて記憶がおかしくなったに違いないッ! そんなことよりも早く食べたいッ! この時間が待ち遠しいッ! まだかァ? まだなのかッ!? 俺様のタンタンメンってやつはァ! 〝真紅のトマト担々麺〟ってやつはまだなのかァ!?)

 オーグルはデザートを待つ子供のように『楽しみ』という感情だけが、その表情と仕草に現れていた。

 こうして担々麺専門店『魔勇家まゆうや』は、また新たに客の胃袋を鷲掴みにし、常連客を――魔王軍大幹部の鬼人の大男オーグルを獲得したのであった。
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