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information:07 家族の絆とその対価

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「パン、どういうことなんだ。ちゃんとお父さんとお母さんに説明しなさい」

 自作自演を自白した泣き面のパンに向けられた父親の言葉だ。
 自作自演に振り回された怒りよりも、どうしてこんなことをしたのか、という困惑の方が多い。むしろ困惑の色しかない。
 そんな両親の表情を見たパンは罪悪感に駆られたのだろう。己の気持ちが落ち着くのを待たずに口を開いた。

「私……お父さんに邪魔な子だって思われてるんじゃないかなって……そう思ってたの……」

「なッ! それはどういう……」

 ヴァンはさらに困惑の色を見せた。
 全力で愛を注いできたヴァンには全くと言っていいほど心当たりがないのだ。

「だっていつも仕事ばかりで、私との時間は全然取ってくれなかった。一回も仕事を休んでくれたことなんてなかったじゃない。学校の行事だって、誕生日だって、私が風邪を引いた時だって、今まで一回も私のために仕事を休んだことなんてなかった……だから今日の……殺害予告もきっと私のことなんて気にしないで仕事に行くと思ってたの……もしこれでお父さんが仕事に行ってたら、私はお父さんにとって邪魔な子なんだって私自身が認めることができたから……」

 涙とともに本音がポロポロとこぼれ落ちていく。
 娘の本音を親であるヴァンとオリヴィアは真剣に聞いていた。
 話に割って入らないのは、娘の本音を最後までちゃんと聞こうという意思である。
 真剣に聞いているからこそ瞳は潤んでいく。言葉を発したり、体を動かしたりして、潤んでいく瞳を誤魔化すことができないからだ。
 オリヴィアは話の途中から目元にハンカチを当てていた。

「ううん。でもね、もういいの。私のために頑張って働いてくれてるんだって……気付いたから……もっと早く気付きたかった……ううん。本当は気付いてた。気付いてたけど、私、気付いてないフリしてただけだったのかも……邪魔じゃないよって、大切だよって、直接言葉にして言って欲しかったから。私のために仕事を休んで欲しかったから……」

「パン……」

「間違っていたのは私の方。私はなんて馬鹿なことをしたんだろう。ごめんなさ――」

 ごめんなさい、と言おうとしたパンの声がヴァンの「すまなかった!!」という声に遮られる。

「私が、お父さんが全部悪い。怖かったんだ。不安だったんだ。家柄も財産も才能も何もない私がこんな素晴らしい場所にいつまでもいられるわけがないって……そう思って、いつもいつも不安だったんだ」

「お父さん……」

「私は不器用だ。いつか失敗をする。その時は私は見捨てられる。もしそうなったらきっと、パンにも見捨てられる。だから……何もない私が認めてもらえるように、必死に頑張って、努力して……全てを失ったとしても、大事な娘だけは絶対に手放さないように、離れないように、失わないように……だけど私がしてきた努力は一体……これじゃ意味がないじゃないか。今日この日が、積み重ねてきたこの日こそが、私が恐れていた“失敗”だったのかもしれない……」

 頭を抱えるヴァン。彼の瞳から大粒の涙が流れる。
 頭を抱えた体勢が悪かったのだろう。一滴の涙がテーブルに落ちてしまう。その瞬間、自分が泣いているのだとようやく気付く。
 気付いたからには涙を拭わなければならない。
 頭を抱えている手を離そうとした時、甘い香りが、懐かしい香りが鼻腔を刺激した。

「お父さん。ごめんなさい」

 先ほど遮られて言えなかった言葉。それをようやく言えたパン。
 彼女は身を乗り出して父親の目元にハンカチを当てていた。
 ヴァンが感じた懐かしい香りの正体は涙を拭ってくれているパンのハンカチだったのだ。

「お父さんは失敗なんてしてない。私が大学に通えてるのも、こうして元気でいられるのも、お父さんのおかげなんだよ。本当はわかってた。私が我儘わがままになってただけ……」

「いいや。パンは我儘なんかじゃない。お利口な娘だよ。反抗期だって一度もなかったじゃないか。でもそれだけ我慢してたってことにもなるのか……」

「我慢はお父さんもでしょ?」

「お父さんは我慢なんてしてないよ。家族のために努力した。我慢と努力は違うんだ」

「それじゃ私も……私もお父さんみたいに努力したってことか」

 泣き面だったパンの表情に笑顔が戻った。
 もしも親子二人の間にテーブルがなければ抱きついていたに違いない。そう思えるほどの空気が流れている。
 その空気を直に浴びているオリヴィアは前が見えなくなるほど涙を流していた。他人事ではないのだ。彼女はヴァンの妻であり、パンの母親なのだから。

「それにお父さんはもうみんなに認められてるよ。認められてるからここにいるんだよ。私が産まれてきたんだよ」

「……パン」

「だからもう頑張らないでいいよ。誰もお父さんを見捨てたりしないから。私も絶対にお父さんを見捨てない」

「頑張らないでいいよ、か……」

 娘からの温かい言葉を受けたヴァンは考え込む。そしてすぐに答えが出る。

「私は頑張り続けるよ」

 それは『同じ過ちを犯す』と言っているのと何ら変わらない発言だった。
 その発言にパンは衝撃を受けた。今までのやりとりが水の泡となったからだ。

「何で……何で、まだ頑張ろうとするの? もういいんだって。お父さんは家族のために頑張ったんだって。今日のことはちゃんと謝るし反省するから。だからもう頑張らなくていいんだよ。仕事も家族のことも気楽にやっていこうよ。失敗したって誰も咎めないし見捨てたりなんてしないから……」

 パンは言葉を発するたびに心が苦しくなっていくのを感じていた。
 自分と父親の間にはテーブル以外にも大きな壁があるのだと、そう感じたのだ。
 しかしそれは大きな勘違いだった。

「私は頑張り続けるよ。娘との時間を今まで以上に過ごせるようにね。約束だ」

 二人の間にテーブルという物理的な障害があったとしても、心の壁のような目に見えない障害はどこにも存在していない。
 ヴァンは努力家だ。努力すると決めたのならとことん努力する。そうやって仕事の地位も家族も築き上げてきたのだ。
 家柄の違いという壁も、貧困層であった過去も、全て壊し、乗り越えてきたのだ。
 そんな男が世界で一番大切な娘に約束をしたのだ。彼の約束ほど信頼できるものはないだろう。
 それを一番に理解している娘であるパンだ。

「……お父さん」

 涙で霞んだ視界の中、先ほどまで無かった“何か”が顔の近くまで来ているのが見えていた。
 涙を乱暴に拭い、焦点があってからようやくその“何か”を理解する。

「約束だ」

 それは努力の証――ボロボロになっているヴァンの手だ。
 皮膚が何度も再生されていて厚くなっている。大手電機メーカーで苦労をしてきた証拠だ。
 切り傷がいくつもある。幼い頃のパンが皿を割るたびに付いた愛の勲章だ。

 そんな手が小指だけ立って差し伸べられているのだ。決まっている。これは指切りだ。

「約束」

 パンも小指を出す。そしてヴァンの小指に引っ掛けた。

 小指だけでは相手の温度は伝わってこない。
 極端に熱かったり冷たかったりしたら伝わるだろうが、ここは室温調整がしっかりとされたダイニングルームだ。そんな温度は伝わってこない。
 けれどパンには父親の温もりが伝わっていた。
 幼い頃に何度も何度も感じていた優しい温もり、世界で一番安心する温もりだ。

 これ以上、今回の件で語り合うことはないだろう。語り足りないのならば部外者がいないところでじっくりと語ればいい。
 だからその部外者である情報屋はこれ以上ここにいる必要はない。
 頃合いだと感じたネーヴェルが口を開こうとするが、この場にいる全員の視線が一斉に集まる出来事がこの瞬間に起きる。

「ぬわぁぁぁぁああああああああんっ!!!」

 メイドも含めて全員の視線が一点に集まった。
 そう。感銘を受けて泣き叫ぶセリシールの元に。

「ぐすんっ! ぐすっ……あぅあぅ……がぁんどうじまじだぁぁあ。ずばらじいぃおやごうぁい~!!!」

 感動しました。素晴らしい親子愛、と言っている。
 号泣していたオリヴィア以上に号泣しているのだ。ムードは台無し。
 けれど――

「ぷふっ」
「うははっ」

 パンとヴァンが同時に吹き出した。
 そしてその笑いは号泣していたオリヴィアに感染。表情を顔に出さないメイドにまで感染させた。
 怒りや悲しみ、感動など様々な感情で忙しかったダイニングルームに最高の笑顔が広がった。
 親子の感動のムードは台無しだが、これはこれで良い終わり方である。

「これで一見落着だね」

「ンッンッ」

 ネーヴェルが口を開き、それに応えるかのようにクロロが声を漏らす。
 その後、ネーヴェルはゆっくりと立ち上がり、大号泣するポンコツ助手の元へと歩み寄る。

「シールくん。いつまで泣いているんだ」

「もうずごじぃ、もうずごじだげぇ」

 汚いガラガラ声で懇願するセリシール。本当にもう少し待ったほうが良さそうである。

「待ってください。ネーヴェルさん」

 と、セリシールに呆れているネーヴェルに向かってヴァンが声をかけた。
 声をかけた理由は一つだろう。

「ありがとうございます。ネーヴェルさんたち情報屋のおかげで家族の絆が壊れずに済みました」

「もっと家族の仲が深まりました。ありがとうございます!!!」

 ヴァンに続いてパンも感謝の言葉を告げた。
 敬語を使いしっかりと頭を垂れている。心の底から感謝していなければできないであろう完璧なお辞儀だ。

「それで、対価の方をお支払いたいのですが……」

「ああ、そうだった。まだ受け取ってなかったね」

「もちろん最初に言った通り、お金はいくらでも払います。お金なんかよりも家族の絆のほうが大事ですからね」

「うん。わかってるよ。キミは大手電機メーカーの部長。それにここはホランドで一番大きな豪邸だ」

 大金を要求するかのような口ぶりを見せたネーヴェル。そんなネーヴェルを――情報屋の社長を見過ごせないのが助手だ。

「ちょっと! ネーヴェルさん! ヴァンさんたちがお金持ちだからって、お金をふんだくろうとか考えてませんか? 見積もりをしなかったことをいいことにして! それだけは絶対にダメですよ! 超絶有能な助手である私が許しませんよ!」

「シールくん。キミの情緒はどうなってるんだよ」

 先ほどまで大号泣していたとは思えないほどの堂々とした振る舞いだ。
 流石のネーヴェルもセリシールの情緒の変わりようには戸惑いを隠せずにいた。

「ちゃんと提示した情報分の対価を頂きましょうね。って、提示した情報のほとんどがヴァンさんたちが知ってて当たり前の情報じゃないですかー!!」

 そう。セリシールが言った通り、今回の情報の取引においてネーヴェルは、クロワッサン一家なら知っている情報を言葉にしただけ。
 自作自演を自白したパンの心を動かしたと言えばそれまでだが、ネーヴェルはほとんど何もしていない。
 何もしていないなら、それだけ対価も少ない。大金をいただくわけにはいかないのある。

「わかってるよ。それじゃ……」

 三秒ほど思考したネーヴェルは幼女らしい小さな指をに向かって指した。

「コレがいいかな」

 ネーヴェルの指の先にある物は、先ほどまでネーヴェルがコーヒーを飲んでいたコーヒーカップだ。

「さすが情報屋ですね」

 と、感心するのはヴァンだ。
 どういうことなのかと、ネーヴェルとセリシールは耳を傾けヴァンの言葉を待った。

「このコーヒーカップはイングリスで有名な職人が作った世界に百もない真作の代物です。当時は10万ベカくらいの価格でしたが、今ならオークションにかければ500万ベカ、あるいは600万ベカは軽くするでしょう」

「ろろろろろろ、600万ベカですか!?」

 ヴァンの言葉に思わず小刻みに震えてしまったセリシール。
 彼女の瞳の端にはネーヴェルと全く同じデザインのコーヒーカップが映っている。
 当然だ。先ほどまでココアが入っていたマグカップもといコーヒーカップなのだから。

「ガタガタガタガタガタガタガタガタ……」

 破らないように両手で必死に持つが、持てば持つほど体が小刻みに震えてしまい危なっかしい。

「キミの情緒は本当にどうなってるんだ」

「だだだだだって、ろろろろろろ、600万ベカででですよ、ガタガタガタガタガタガタガタガタ……」

「ボクが欲しいのはコーヒーカップじゃない。その中身だよ」

 呆れた表情のままネーヴェルは言った。

「今回の対価は、コーヒーカップの中身。つまりブラックマウンテンの豆を少しだけ頂きたいということ。それと超絶有能な助手には葉野菜など栄養があるものを。ボクたちのマスコットには甘いココアパウダーがいいかな」

 ネーヴェルが提示した対価は、予想を遥かに超えるほど質素なものだった。
 大金の請求もしくは600万ベカのコーヒーカップを求めるであろうと思っていたセリシールはもちろんのこと、一応は身構えていたクロワッサン一家も驚きの表情である。

「そ、そんなものでいいのですか? こちらは家族の絆という大事なものに気付かせてくれたというのに」

「そうだよ。私が言うのもあれだけどさ、コーヒーカップでもお金でも何でもいいんだよ」

 納得してない様子のクロワッサン一家だが、ネーヴェルの意志は固く決して要求を変えたりしない。

「ボクはウサギ好きからはお金を受け取らない主義だからね。気にしないでくれ。それにこれは正当な対価だとボクは思うよ。もしも取引の時に、『両親の習慣を利用して防犯カメラが設置されていない寝室で殺害予告を仕込んだ』とか『エメラルド家に迷惑をかけないように予め決まっていた不在の日を狙っていた』とか、『戸籍上ではミドルネームにEが、すなわちエメラルドが入ってる』とかね。そう言った情報を提示していたらもっと対価を求めていたさ。今回の対価はこれでいいんだよ」

「ミドルネームまで調べていたんですね……」

 ネーヴェルが言う通り戸籍上でのクロワッサン一家のミドルネームにはEが、すなわちエメラルドが入っているのである。
 なのでヴァン・クロワッサンの戸籍上での本名はヴァン・E・クロワッサン。ヴァン・エメラルド・クロワッサンになるのである。
 エメラルド家に嫁いでいないが、婚約するにあたってミドルネームを頂いたのだ。
 これはヴァン本人たっての願いでもある。尊敬する家柄の名前をあやからない理由などどこにもないからだ。
 しかし何度も述べているようにヴァンには家柄のコンプレックスがある。
 努力を重ねてエメラルド家に認めてもらえるまで、ミドルネームを自分から口にしないようにしていたのだ。
 いつかこのミドルネームを自身を持って言える日が来るまで。

「さすがネーヴェルさんです。わかりました。ではすぐにメイドに用意させます」

 一応は納得してくれたようである。
 そんなヴァンの言葉を聞いたメイドたちは動き出す。ネーヴェルが要求した物を持ってくるためだ。
 そんな中、一人だけ鼻息を荒くしている人物がいた。

「ちょっとちょっとちょっとー! なんで私が葉野菜なんですか! それにクロロちゃんにココアを飲ませちゃダメですよー!」

 鼻息を荒くして言っているのはセリシールだ。情緒不安定にも程がある。と言うよりも情緒がお祭り騒ぎだ。

「シールくん。キミは何を言ってるんだ? ココアはキミが飲むんだよ」

「へ?」

 情けない声がセリシールの口からこぼれ落ちる。

が葉野菜だ」

「えぇえぇぇー!? ちょっと待ってくださいよー! どうしてクロロちゃんが私を差し置いて超絶有能な助手なんですかー!」

「簡単な話だよ。この豪邸に入ってから一度もボクの傍から離れなかったからね」

「…………ぐぅ」

 ギリギリぐうの音が出るセリシール。
 この後、ダイニングルームが再び笑顔に包まれたのであった。
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