もし、運命の番になれたのなら。

天井つむぎ

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第八章 エンカウント

大嫌いなのは。

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 捻り痛む足で遠い場所へ逃げながらさっきのことが蘇る。
『返せよ……。ぼくの彼方を返しやがれ。お前なんかちょっと容姿が優れただけの浮気相手だ! 彼方のことをなんにも知らない癖に、乗っ取るなっ』
(体中が痛く、嫉妬の炎に焼かれそうだった。でも、嘘を吐いているようには疑えない。……なんで)
 彼方が口を挟めないほどの強者。心の底から吐き出される嘆きや恨み。睨む瞳は充血しており、悲痛な叫びは鼓膜を破裂させるくらいの威力があった。
 水樹は彼方のことを知っているようで知らない。
 現代でも他人の領域にどこまで踏んでいいものかと問題になる。親しき関係であったとしても踏み込み過ぎないのが礼儀だろう。
 友人関係は二ヶ月、恋人関係は約五ヶ月……計七ヶ月彼方と仲良く過ごした。笑恋が泣き叫んだ内容は彼方の過去が深く関わっていそうだった。
 人の過去は簡単に扱えるものじゃない。笑い話なら大歓迎だが、自分も過去に色々とあった身。思い出したくもない辛さを伴うこともあれば、忘れていた苦しみを抱えることも考えられる。幸せに浮かれて全く意識しなかったわけでもなかった。
 足首がガクガクと痙攣する頃には、肺はぎゅうぎゅうに締まり息も上がりっぱなしだった。
(ここ……裁縫室の近くか……)
 ということは。視線の先にはあまり意味をなさない禁止テープが貼り付けられた扉がある。ふらつく足取りで重い扉を開き、酸素を求めた。染みる秋風が吹き荒れ、汚れたスカートの丈を短くさせる。酸素どころか呼吸がしづらい。上向きになれば鼻の奥から喉に痛みがゆっくり落ち、はあ、と白い息を吐く。
「呼び出しておいてなんだ……って、彼方じゃないのか」
 体が飛び跳ねる。胸の辺りを鷲掴み、暴走する心臓をとにかく治めようとした。鼓膜を邪魔する風に逆らって青い髪が視界を広げてくれると、柵に腰をかけた男と目が合う。光の匙加減で赤にもオレンジ色にも見える瞳だ。
「久しぶりだな。彼方はどうした」
 男が一言発する度、耳鳴りと吐き気がした。水樹はもう片方の手を口に当てる。幸いにもフェロモンの匂いは強風で紛れた。
「……知らない」
「へえ。喧嘩別れか?」
 あたがかも知っているような聞き方に水樹は首を振ることもできなかった。どちらにせよ肯定することに変わりはない。
「所詮はその程度だった、というわけか。血が繋がった兄弟同士、変なとこは似るんだな」
 興味を失くしたのか、男は柵に預けていた背を水樹に向ける。
 風が横に流れ、青色の長髪が顔をマスクみたいに覆う。同じく男の橙色のショートカットが気持ち良さそうに乱れる。うざったいこの長髪を切ってしまいたい、と思いながら髪を耳にかけた。
 口と鼻を塞いだ手を退け一歩ずつ男に近づく。大声を出さなくていい距離まで詰めたが、怒られはしなかった。
「……奏斗と彼方は兄弟なの?」
 男はこっちを見ない。グラウンドで繰り広げられる祭りを眺め、ハッと笑い飛ばす。
「随分と初歩的な質問だな。ああ、そうだ。オレと彼方は一日違いで産まれた二卵性双生児。似ないとこも多々あるが、あいつもアルファだ」
 アルファ。カーストの上層部に位置する、神様が愛した優れた人々。オメガと特別な絆を築ける、切っても切り外せない存在。
 風で鼓膜がやられ、髪の毛が耳に詰まったのだろう。もしくは強風で言葉が流れたのかもしれない。彼方と心を結んだあの日、涙ながらに告白されたことが水樹の知る真実だ。
 背中に第三の目あるのか、奏斗は面白く大袈裟に笑う。
「んなもんも、かよ。ははっ、……あー。じゃあ、あのことも伝えていないわけか」
「あのこと……って?」
 熟考する前に口が動く。曇り空の上は晴れだというが、厚みが増した雲からはゴロゴロと腹の底に響く音を奏でた。
「記憶喪失」
 並べられた四文字に水樹は息をするのも忘れる。世界がそのままひっくり返りそうな勢いだ。
 再び柵に背を預けた奏斗は、そんな水樹を観察しながら淡々と話す。
「お前が不登校になった同時期、彼方は記憶を失っている。日常生活は問題ないが、かなり特殊な忘れ方をしているせいで周囲との思い出は丸々、家族のは……約三年程度抜け落ちた」
 視線を逸らす奏斗に水樹の体は強ばった。ここぞという時に笑いなしは冗談が過ぎる。馬鹿みたく大笑いされたら希望が持てるのに。奏斗は実に冷静な口調で、沈みかけた夕焼けを瞳に映す。
 嘘っぱちだ。時間を経て浮上した感情を音に乗せられない。この感情を吐いたら最後、自分がどうなるかわからない。心臓が動いているのがおかしなくらいだ。
「おっ。正義のヒーローさんが登場するにはまた遅い時間だな」
 奏斗は待ち合わせた人物を見つけるなり「よっこいせ」と柵から離れて通り過ぎる。後ろから足音がしても振り返ることができなかった。
「遅せぇよ。暇潰しするにも退屈な時間だったわ」
「……兄、貴。まさか、水樹に……」
 鳴り止まない雷音、吹き続ける風。
「そこまでオレが言う必要あるか? あっ、そうそう伝言な。フランス行きは手配済みだから大丈夫だってよ」
 丸聞こえの情報に心が枯れ果て、天から降る雨さえ心地良く感じる。涙に比べてしっとりしていた。一人の足音が遠ざかり、水樹は雨のシャワーを浴びながらその場で佇む。
「……み、……遊佐……君」
 一瞬の躊躇いは水樹の心をズタズタにさせた。心の樹は根こそぎ枯れ、髪が重い。
「遊佐……君。ごめん」
「……それはどれに対しての?」
 水樹の質問に彼方は答えない。雷鳴が激しくなり、地面を打ちつける雨もひどくなって、グラウンドが騒々しい。
(……うる、さいな)
 咄嗟に表れた感情を喉の奥に流し込み、水溜りを蹴った彼方がこっちまでやってくる。
「きちんと説明させてほしい。お願いだ」
 懸命な頼みごとでも、今は心底どうでもいい。
(これ以上、なにを聞けと言うんだ)
 散々、嫌というくらいに聞かされた彼方の過去や隠しごと。本人が秘密にしたかったことを周りは理解しており、一ミリも知らない水樹はさぞ滑稽に忌々しく映るのであろう。
 耳から入る弁明は筒抜けで、聞いたことは全て水が流れる足元へ落っこちる。
(なに喋ってんだろ。日本語? 海外の言葉?)
 番になれない事実を知った時、人生で初めて運命に逆らおうとした。運命の番が現れても絶対に彼方から離れず、噛ませない覚悟が生まれたからだ。
 まだ噛めないと言われた時、遊びは火傷をすると知った。それほど大事にしてくれるのだと後々実感し、捨てられる恐怖はかなり軽減された。
 好きだと告白された時、産まれてくれてありがとうと囁かれた時、水樹は神に感謝した。番じゃなくてもこの人が運命の人だと信じた。
「アルファからベータに揺れ動いてしまって、遊佐君と運命の番になれない可能性も──」
「……どうして」
 ひらひら。青い鱗が二枚剥がれた。抑えていたものが取れ、じわじわと涙が浮かぶ。
「どうして黙っていたんだ。どうして……好きな人の全部を、他人から聞かされなきゃいけないんだ……!」
 誰であろうと。彼方の口から真実が全て聞きたかった。どんなに苦しい境遇に立たされようが、乗り越える覚悟も、添い遂げる愛も生まれたはずだ。
「水樹……」
 滲む呼び声に水樹は髪を振り払う。キラキラ光るものが全て散った。
「俺はっ、彼方と生きて行けたら幸せだったんだ。けど、俺のせいで大好きな人の足を引っ張ったり、総崩れになったらダメだから、自立した樹になろうと努力して……」
 歌詞が感情や状況とリンクすれば思い出す。イヤーカフを身に着け、ぬいぐるみを抱けば嫌でも恋しくなる。夜だろうが朝だろうが浮かぶのは彼方だ。どんなに逃げようと現実である限り無理だった。恋心は骨まで染みついていたのだから。一時でも忘れられたらどんなに楽だったか。
「俺は……ずっと、彼方が好きで好きで堪らなかったのに!! なんでっ……本当のこと喋ってくれなかったんだよ。俺じゃ受け止め切れない……から?」
 髪が濃い青に変わる。頬や耳にぴたりとくっつき、雷が近くに落ちた。
「水樹ごめ……」
 彼方の左足と手が前に。水樹は長い手で避けて後退りする。
「もう、関わらないでよ。振り回さない……で、よ。勝手にどこにでも行ってよ!! お前なんかもう、もう……大嫌いだっ!!」
「水樹……!!」 

 ずっと、ずっと夢見ていた。
 誰かに愛され、一緒に生きる夢を。
 オメガで欠点ばかりの自分でも、誰かを愛する夢を。
 夢と銘打っているが、そんな簡単なことも水樹は上手くできない。いつも選択を間違え、ゲームオーバー。ノーマルエンドにすら到達したことがない。
 夢は叶わない。寝た時に見る都合のいいゆめの内容はやっぱり、非現実だ。

 奇異な視線や叫び声が刺さろうが構わなかった。水樹はブーツを脱ぐと驚異的なスピードで校内を駆け、静止の呼び声がかかろうとも学校からともかく逃げた。
(彼方なんて。彼方も……。彼方だけじゃなくて)
 肺が破けそうなくらい走り、まだ電気は点かない電柱を横切ると茶色い水を大浴びした。睫毛に水滴がつく。
「俺自身も、大っ嫌いだ……」

 その後、水樹の体調不良は二週間続き、一方で彼方は文化祭以降登校しなかったという。


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