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【三】SIDE:操
しおりを挟む「さーんちゃ、さんちゃ、ちゃちゃちゃ、さーんちゃ!」
テレビからCMが流れてくる。
僕の家は蕎麦の他に、ラーメン店やうどん店なども展開していて、その内の一つの宣伝だ。全国展開しているので、各地に色々なチェーン店を出している。ただ蕎麦専門店は、まだこの県内にしかなくて、来季から本格的に都会にもオープンさせようという話になっている。僕は、その場合、今度はそちらの店舗全体の取締役になるので、絶対にCMをこの非常にダサいリズムの曲から変更してやろうと誓っている。
非常に寝起きが悪い僕は、折角の休日だというのに、爆音でテレビを見始めて、僕の寝室まで音が届くようにしている弟の葵を思い、キレ散らかしそうになった。だが、ぐっとこらえて、壁が薄いのが悪いんだと内心でぼやきながら、階下に降りる。
「音量下げてよ」
「えー? これから戦隊ヒーロー物が始まるから無理!」
「……それ、面白いの?」
「つまらないけど、次のコラボ商品は、コレのコースターだからさ!」
大学四年生ながらに、既に葵は回転寿司店の取締役を任せられている。葵は高一で渡米し、あちらで経営を学んで戻ってきて、現在は地元の大学に編入している形だ。僕の一歳年下で、商才もあると僕は思う。僕よりも、次の三茶グループ全体の代表取締役社長に適任だと思うのだけれど、葵は『絶対嫌。俺参謀タイプだから、そういうのは操兄ちゃんに任せる』として譲らない。
「操兄ちゃんは、今日の予定は?」
「うーん。僕も研究のために、敵情視察でもしようかとは思ってるよ」
「あ、はい。つまり、そういう名目で、十朱先輩に会いに行く、と」
「ダメ?」
「別に? 本当好きだよね、操兄ちゃんは、十朱先輩の事」
「大好きだけど?」
「清々しくて格好良いと思う! あ、始まった! ヒーローヒーロー!」
葵がテレビに視線を向けたので、僕は欠伸をしてから洗面所へと向かった。
そして顔を洗った後、自室へと戻って、身支度を整える。
僕は週休二日なのだが、月芝亭は週末が一番の稼ぎ時であるから、開店しているはずだ。
そう考えながら、僕は私服姿で、宮生駅前へと向かった。
現在、丁度開店時刻。
暖簾も出ている。それを確認してから、僕は月芝亭の扉に手をかけた。
「いらっしゃいま――なんだ、操か。何か用か?」
レジの所にいた十朱が顔をあげた。そして僕を見ると、首を傾げた。
「蕎麦を食べに来ましたー!」
「自分の店に行け」
僕の言葉に、十朱が目を据わらせる。
「敵情視察って言うの?」
「……」
沈黙した十朱は、明らかに忌々しそうな表情に変わった。
「十朱くんは、腕には自信があるんでしょう? いつもうちの安い蕎麦を馬鹿にしてる所あるし」
「蕎麦に貴賤は無い。馬鹿になんかしていない」
「兎に角、今日の僕は、『お客様』だよ。接客態度は、バツだね! 月芝亭は」
「っ、どうぞ。お席に案内します」
笑顔の僕に対し、引きつった顔で笑い返してきた十朱は、それから奥の窓際の席へと僕を案内した。靴を脱いで畳に上がった僕は、メニューを見る。そこへ十朱が、お茶の入った湯飲みを運んできた。
「十朱くんは、何がおススメ?」
「人気があるのは天ぷら蕎麦だ」
「あったかいの? それともざるそば?」
「両方、季節によるが同じくらいだな」
「十朱くんは、どっちが好き?」
「俺はざるそばが好きだ」
「ふぅん。じゃ、天ぷら蕎麦にしよ。冷たい方で」
「ああ」
「このお店では、お客様にはフランクな言葉使いをするの?」
「――帰ってもいいんだぞ?」
「冗談だよ。冗談! 大人しく待ってます!」
こうして無事に注文を終えてから、僕は厨房の奥に消えた十朱くんを見ていた。天ぷらも十朱くんが用意するようだが……確かに客はいないものの、揚げ物の最中に誰かが入ってきたらどうするのだろうかと、不在らしき月芝家のおばさんの姿を視線で探しながら僕は考えていた。
同時に、一応、敵情視察名目であるので、どのくらいで料理が届くかをチェックするべく、僕は時計で時刻を確認する。専用のタイマー付きの時計を持参したので、それをひっそりと卓の下に置いて、計測開始だ。冷たいお茶はほうじ茶で、こちらは美味しい。蕎麦湯は自由におかわりが可能な様子だ。客数が少ないというのはあるが、店舗内の席自体も、そう多くは無い。奥や二階に宴会場があるというのは、年越し予約の話から知識として知ってはいたが、普段は使用されていない様子だ。そうでなければ、十朱が一人で回すのは、絶対的に無理である。というか、現状であっても、やはりもう一人は人手が欲しいはずだが……他のお客様が来るまで、おばさんは出てこないのかな?
ちなみに天ぷら蕎麦は、三千八百円。うちの店のかけ蕎麦より、ゼロが一個多い……。
その後、三十分ほどして、幸いほかの客が来ない状態で、僕の注文した品が届けられた。正確には、三十五分と八秒だ。僕は輝く天ぷらと蕎麦を見て、最初魅了されたが、理性が『少なっ!』と訴えたので、そちらを迷わず口にした。
「少ないね。あのさ、絶対これじゃあ足りないから、また三十分くらいかかるなら、悪いんだけどこっちの鴨そばも良い?」
「……ああ」
「いただきまーす」
僕は手を合わせた。
渋々といった表情で、十朱は店の奥に消えた。
さて――噂の味の方は、と、僕はまず蕎麦を味わう事にした。
「美味っ……え? これ、蕎麦? 真面目に? 真面目に、これ、これ、蕎麦なの?」
食べた瞬間、僕は震えた。
自虐するわけではないが、僕の平楽屋が提供している品が蕎麦を名乗って良いとすると、こちらは『神の蕎麦』とか、何らかの称号がついても良いだろう。目を丸くし、冷や汗をかきつつ、実は初めて十朱の料理したこの店の品を食べている僕は、続いて天ぷらを口に運ぶ。
ちなみに過去、中学時代には、一緒に林間学校の班が同じだったから、カレーを作ったことがあるが、あの時は普通の味だった。
さて、天ぷらであるが、こちらも、ちょっと尋常ではなく美味である。平楽屋の五十円のいか天が天ぷらを名乗る事を許されるとするならば、こちらも『幻の天ぷら』を名乗っても良いかもしれない。天ぷらのみでも、多分一流の料亭で即戦力になれると考えられる。
家の関係で美味しいものを食べた事が多い僕ですらそう確信した。
その上、『神の蕎麦』と『幻の天ぷら』が、このお店では交わる……交わってしまっている、最高に、美味しすぎる。食べるのが勿体ないと思わせられるほどだった。
「鴨そばだ」
「十朱くん」
「なんだ?」
「美味しい」
「そうか。有難う。世辞でも嬉しいぞ」
気づけばすぐに三十分が経過していたようで、僕は十朱が温かい鴨そばを卓にのせた時、思わずそう口走っていた。だが、十朱はあっさりしている。僕は思わず強い眼光を向けて、大きく首を横に振った。
「お世辞じゃない。本当に、これは美味しい」
「――っ、有難う」
僕が真剣な顔で言うと、十朱が目を丸くしてから、小さく息を呑んだ。
艶やかな黒髪と同色の、十朱の睫毛が揺れるのを見た僕は、続いて鴨そばを見る。
「あのさ、十朱くんは、天才なの? そうだったの?」
「おだてるな」
「本音だよ。これは、確かに分かる。敷居が高いのも分かる。ちょっと美味しすぎる。価格とかの問題じゃなかった。うん、美味しい」
「……操、なんだ急に。そんな……」
「僕の認識が間違ってた。月芝亭は、控え目に言って最高だと思うよ」
そう語り、全力で想いを僕が告げると、唖然とした様子だった十朱が、ふいに少しだけ顔を背けた。その頬が朱い。それに気づいて、僕はドキリとしてしまった。蕎麦から意識が少しだけ戻る。照れている十朱が可愛く見えて困った。本当に美人である。元々、そんな十朱の鑑賞の目的の視察だったはずなのに、僕は完全に蕎麦の虜にもなっていた。
我を忘れる程に美味だったのが悪いとしか言えない。
だが、赤面している麗人はやはり美しく、僕は十朱にも見惚れた。ただ思う。二人きりの空間で、こんな風に照れられたら、押し倒したくなってしまう。十朱は客観的に見て細身とはいえ平均的な体躯の成人男性だが、じっくり観察すると隙が多い気もする。
「――十朱くんって、さ。恋人とかいるの?」
「は? なんだ急に」
つい僕が尋ねると、十朱が視線を僕に戻した。
僕はそこに詰め寄る。
「いるの? いないの?」
「いない」
「そう。じゃあ気を付けて。僕、バイだから」
「え?」
十朱は不思議そうに、きょとんとした顔をした。時に見せるこの純粋な表情も、ちょっとギャップ的に危険だ。男前の無垢な一面……愛らしすぎる。
「バイって分かる? 十朱くんそういう方面、モテるのに疎そうな感じがするから言うけど、僕はね、愛したら性別を関係なしに抱けちゃうから、気をつけてね」
「なっ、本気で言ってるのか?」
僕の説明を聞くと、何度か瞬きをした後――ボッと顔から火が出るかのような勢いで、十朱が赤面した。煽られている気分になる。
「うん」
「気をつけろって……バイだとしても、好みがあるだろう?」
「だから――鈍いな。十朱くんが好みだって話。僕に押し倒されて突っ込まれて、啼かされたくなかったら、あんまり無防備にしないように」
「からかうな」
その後また、プイッと十朱が顔を背けた。しかし耳まで真っ赤なのを、僕は見逃さなかった。もしかしてこれ、脈、あったりするんだろうか?
「十朱くんは、男は無理?」
「――普通の多くの人間は、同性愛者じゃない」
「他の多くに興味は無いし、そういう客観論じゃなくて、十朱くんの話が聞きたい」
「さっさと食べろ。蕎麦が伸びる! 俺は洗い物をしてくる」
そう言うと、十朱が真っ赤のままで、逃れるように立ち去ってしまった。逃げられてしまったが、確かに鴨そばも美味しそうなので、僕はそちらに取り掛かる事に決めた。
こちらもやはり最高に美味で、僕は眩暈がしそうになったほどである。
完食した後、僕は十朱が姿を全然現さないので、本日は諦める事にした。あんまりいきなり追い詰めても良くないだろう。そう考えて、会計に向かう。
「ご馳走様でした」
「ああ。ええと、会計は――」
すると何処か不慣れな様子で、十朱がレジを打ち始めた。それを見て、僕は首を捻る。
「天ぷら蕎麦が三千八百円、鴨そばが二千二百円、そこに消費税のはずだけど……あれ、おばさんは? 今日はいないの?」
「――ああ」
頷いた十朱はそれ以上何も言わなかったので、僕は食事代をトレーに置く。領収書を貰うのが常だが、十朱が不慣れな様子だったので、不憫に思ってやめておいた。
「じゃあ、またね」
「……その、良かったら、また来てくれ」
「うん。また食べにくるよ。じゃーね」
こうして僕は、店を後にした。充実した土曜日の昼下がりだった。
そう思いながら帰宅すると、葵がリビングのソファに座っていて、僕へと振り返った。
「おかえり、操兄ちゃん。どうだった?」
「すっごく美人だった」
「いや、味」
「――神々しかったよ、うん。あれはさ、蕎麦という名の、何か別の存在だよ」
「ふぅん。そういえば、月芝亭のご夫妻は今、どちらも入院中みたいだけど、他に従業員とかいるの?」
「え? 入院? 何それ?」
「あー、知らなかったんだぁ。じゃないかなぁって思って、僕ほらブラコン気味だから、十朱先輩の事、操兄ちゃんのためにサラっと調べておいたんだけど、そうしたらねぇ、うん。僕も今日知った。っていうか、みんな知らないはず」
よく出来た僕の弟は、そう言うと、教えてくれた。
「十朱先輩のお父様は、今、腰のヘルニアの術後入院中で、お城の近くの医療センターに入院してる。二週間前くらいからみたいだね。もうすぐ退院できるらしいよ」
「ヘルニア……」
「大変なのは、お母様みたいだね。ステージIIIAの肺がんみたい。幸い、転移はしてないみたいだけど」
「え」
「医療センターのさらに上の、系列の大学病院に入院中だって」
「な……月芝のおばさんが?」
「うん、そう。十朱先輩も大変だろうね、一人で不安もあるだろうし」
「そんな事、一言も……」
「あんまり広めないようにしてるんじゃないかなぁ。客商売だしね」
「……頼られなかった自分に対して、今僕はイラってしちゃったよ……しかも僕、『元気?』だのと、何も考えずに聞いちゃった。あー、クソ」
先程までの明るい気分から、僕の気持ちが急下降していく。
それからポケットに手を入れて、そしてふと気づいた。卓の下に、タイマーを置いてきてしまった。これは――戻るのに丁度良い口実であるし、話を聞く好機でもある。
「葵、忘れ物をしたから、取りに行ってくる」
「うん。十朱先輩にもよろしくね」
弟に見送られながら、僕は踵を返した。
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