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道酉井の怪
しおりを挟む道酉井家の名を久方ぶりに耳にしたのは、ある夏の日だった。
幼少時、僕は渓地村という土地で、五歳まで過ごしていたのだが、その際に、道酉井眞鄕という同じ歳の子と、確かに遊んだ記憶がある。
奇妙な溝と模様がある巨石群のそばで、僕達は氷鬼をしたのだったか。その後すぐに、村を嫌っていた父が、都心に仕事を見つけ、僕を連れて渓地村からは離れた。母は既に亡く、父は母を『村が奪った』のだと度々述べていたように記憶している。
その後僕は、幼少時に過ごした村の事を忘却し、順調に大学まで進学した。自由な校風の私立大学、御坂大学は、留学生も多く、ゼミではフィールドワークに出る事も推奨されていた。特に姉妹校である、米国のミスカトニック大学からの留学生が多い。民族学科に進学した僕は、三年生となり、網茶時教授のゼミに入った。
「相良君は、卒業論文の題材は決まったのかね?」
ある日のゼミの終了後、網茶時教授に呼び止められて、僕は立ち止まった。もうすぐ、夏期休暇がある。僕もまた、フィールドワークに出向いて、その土地の文化や風習を論文に仕立てようかと漠然と考えていた。その旨を述べた時、網茶時教授が口にしたのだ。
「それならば、興味深い村落がある。渓地村という東北の外れの村なんだが」
「渓地村……」
この時、僕は幼少時に過ごした村の事を、想起したのである。
「そこに決めます」
「そうか。気をつけるようにね」
網茶時教授は微笑すると、教室から出て行った。縁もあるし、幼き日を思い出せば、幼馴染みと言える道酉井家の同級生にも会いたいと感じていた。
コーポ・アーカムという小さなアパートに帰宅した僕は、仏壇の前に立ち、手を合わせる。母の遺影と共に、今ではそこに父の位牌も並んでいる。僕の父は、ずっと『追われている』と口にしていて、ついに一昨年、自殺を図った。何が父を追い立てていたのかを、僕は知らない。父の残した遺品を整理していた時、一つだけ風変わりな銀色の鍵を見つけたから、僕はそれを形見として、財布に入れて持ち歩いている。
天涯孤独であるから、フィールドワークの旅にも気軽に出られる。僕の精神は、父とは異なり健康的であり、体も強い方だ。元々あまり筋肉がつく方では無く、身長もそう高くは無いが、ごく平均的な容貌をしていると自負している。
こうして僕は、夏期休暇が始まってすぐ、新幹線に乗って、目的である遠方の県へと向かった。そこからは鈍行を乗り継いで、最寄り駅まで向かい、バスに乗車した。客は僕一人きりだった。渓地村の隣村で降車し、そこからは徒歩で二時間ほどかけて、渓地村へと足を踏み入れた。現地には、民宿が一軒だけ存在していた。僻地としか評しがたい。
坂を上った小高い丘の上には、微かに記憶に残る道酉井家が見えた。田舎には不釣り合いの洋館であるから、印象に残っていたのだと思う。民宿は、川辺に存在した。急流のそばには、屏風状の岩が広がっている。
「よくいらっしゃいましたね」
民宿の扉を開けると、Tシャツ姿の主人が、白いタオルで汗を拭きながら、僕を出迎えてくれた。
「この村に、都会から人が来るなんて、何年ぶりだろうなぁ。ただ、お名前……相良柚稀さんですか。昔この村にも、相良という家があったんですよ。そこのお宅にも、丁度同年代のお子さんがいて、名前も同じで」
「本人です。覚えていて下さったんですか?」
「ああ、狭い村だからなぁ。そうかそうか。柚稀君か。家もまだ残っていると思うぞ。見に行くと良い。ゆっくりと、滞在して行くと良い」
民宿の主は、優しい顔で、僕に告げた。その反応に、少しだけ僕の体から緊張感が抜けた。僕は一週間程滞在する予定だ。宿泊費は、大学が出してくれる。私立大学の支援体制は万全であり、僕のような貧乏学生には有難い限りである。
その日は、あてがわれた二階の部屋に荷物を置き、大浴場で体を休めた。郷土料理だという鮎を用いた料理や山菜の天ぷら等を、夜は味わった。
本格的にフィールドワークを開始する事にしたのは、翌日からだ。
渓地村へと訪れて、二日目。
僕はまず、巨石群を見に行く事にした。懐かしい思い出を追憶しながら向かった先は、山の中の、少し開けた場所だった。木々の奥には、洞窟が見える。僕はその時、不意に父の言葉を思い出した。
『決して、あの洞窟に足を踏み入れてはならない』
すっかり忘れていた。そういえば、父は僕が、この近辺で遊ぶと、顔を歪めていたようにも思う。道酉井の眞鄕と遊んだ記憶の方が強く、すっかり失念していた。
「入ってはならないというのも、村の伝承か何かなのかな? だとすれば、題材になる」
一つ、風習に触れた気がした。巨石群の調査が終わったら、村人達にも話を聞く予定でいる。
「それにしても、大きいなぁ」
僕は、ストーンヘンジのように並んでいる巨石の一つに、掌を当てた。表面には模様のような溝がある。そこに刻まれているのは、丸い泡のようなものを吐き出している、触覚のある生き物のようにも見えたが、偶然なのかもしれない。ただ、巨石のそれぞれに刻まれている模様は、別々の形状に思えた。
「タコにも思えるけど……この山奥には海も無いし。それとも麒麟のように、伝承が伝わって描かれたのかな? そもそもいつからこの巨石は存在するんだろう?」
石は、紙とは異なり、あまり風化しない。伝承が残っていると良いのだが。どこか不気味な印象を今では抱かせる模様を一通り、携帯電話で撮影する。この日本にあって、この村は、なんと携帯の電波が入らないらしい。本当に、ド田舎だ。
洞窟の事も気になったが、そちらに関しては、村に、父の教えと同じ伝承が残っている可能性、村の禁忌の可能性を考慮し、この日は調査をしない事に決めた。代わりに、村の中を見て回る事にした。所々に、見覚えがある。道酉井家に続く坂の下には、小さな祠があって、それを見た時、僕は目を瞠った。
「巨石のタコに似てる」
どこかグロテスクな石像が、その内部にはあった。顎に手を添え、少し考えてから、僕はそれも写真に収めた。小さな村であるから、一周するのも簡単だった。畑仕事をしている村人達は、僕の姿を見ると、物珍しそうに動きを止めたものである。会釈をしておいた。老人が多く、白髪や禿頭の、顔に皺がある人々が、腰を曲げて作業をしていた。夕暮れになるまで散策をした僕は、その後民宿へと戻った。
「ああ、柚稀君。これ」
すると民宿の主人が、僕に一通の手紙を差し出した。
「これは?」
「今日、村を歩いたんだろう? 君の事が噂になっていてね。尤も、お客様が来るという話が出回った時から、この村はその噂で持ちきりだったんだが――興味深いし、力になれる事もあるかもしれないから、是非招きたいと、村の名士の道酉井の若様から招待があったんだ。栄誉な事だぞ。道酉井は、村長様だ。渓地村の歴史にも詳しい」
「お話を伺えるんですか? 本当に助かります」
僕は思わず笑顔を浮かべた。有難い申し出であるし、眞鄕にももしかしたら会えるかもしれない。フィールドワークにも道筋が見えてきたように思いながら、僕はその日も郷土料理を味わった。
夢を見たのは、その夜の事だった。蒸し暑さが、僕に幻影を見せたのかもしれない。夢現に、まず僕は、太鼓の調べと魔笛の音色のようなものを耳にした。しかしそれらはすぐに消失し、僕の瞼の裏には、巨石で構築された都市風景が広がった。なんだろう、この夢は。そう考えた時、最奥にある仰々しい門戸の前に、ローブを目深に被った一人の青年が立った。僕は、その青年を過去にも目にした事があるように思った。どうして忘れていたのだろう。彼は、男性の姿を象っているが、人には持ち得ない叡智そのものだ。直感的にそう理解した僕は、彼が案内人であり、窮極の門の守護者だと、『思い出した』。
「銀の鍵を持っているようだな。いいや、きちんと持っていたというべきか」
彼の声は清涼だった。僕は首元の鍵を、静かに握りしめる。そうだ、この鍵は――父の形見では無い。僕が、過去に、確かに貰った品だ。僕のものだったのだ、ずっと。都心に越したあの日、銀の鍵を見て血相を変えた父が僕から奪ったのでは無かったか。だが、果たして僕は、どこでこの鍵を手に入れたのだろう。それが思い出せない。
「窮極の門に、行くか?」
「うん」
反射的に僕は答えていた。それは、僕にとっては唯一の選択肢に思えた。曖昧模糊としはじめた思考の中で、僕ははっきりと頷いていた。体が勝手に動いたような気がした。すると、夢の開始時に聞いたような狂おしい音が再び響き始めた。音の出所を探して視線を彷徨わせると、門戸のそばに、六角形の台座が見て取れ、そこに輝く球体がある事が分かった。
「待っている。本物の、門にて」
その声が響き終わる手前、僕は悍ましい異形のものを見た気がした。だが、次の瞬間には、僕は目を開けていて、全身にびっしりと汗を掻いていた。
「ああ、夢、か……」
最後に見た衝撃的な、自然界の摂理を外れたような異形の衝撃は、瞬きをするとすぐに霞んで消えた。朝の白い日差しが、窓から差し込んでいる。
「あれ? そもそも、どんな夢だったっけ?」
僕は必死で思い出そうとしたが、上手くはいかず、ただ激しい動悸に襲われていた。その為、あまり朝食が喉を通らず、理性では甘い卵焼きが美味しいと分かるのに、味がしないように感じた。
道酉井家に招かれているのは、午前十時である。僕は浴衣からシャツに着替えて、時間を待った。緑茶を飲んでいる内に、夢の事は、すっかりと忘れた。
九時半になった所で、僕は民宿を出た。そして坂道を上りながら、腕を組んで小さく唸った。夢見は悪かったのだが、何故なのかスッキリとしている。不思議と、自分が帰るべき場所へと戻ってきたというような、そんな気持ちに襲われていた。これまで村の事など忘却していたのだから、非常に不思議な感覚だ。
道酉井家の前に立ち、僕は洋館を見上げる。古めかしいが、歴史を感じさせる上品な気配が漂っていた。古風な呼び鈴に手をかけて暫く待つと、和服姿の老人が一人顔を出した。
「相良柚稀様ですか?」
「はい。お招き頂き有難うございます」
「いえ。折角のお客様ですからねぇ。いいや、おかえりなさいませと言うべきか。当家の若旦那様がお待ちです。覚えておられるか。眞鄕様というのですが」
「あ、覚えてます。小さい頃、山で一緒に遊んで――」
「外で遊ぶ? はて。そうでしたでしょうか」
「え?」
「若様は、『血が濃い』ゆえに、あまり外にはお出にならないのですが」
「でも、確かに……」
「私の記憶だと、柚稀様が、何度か遊びにおいでになったような」
「へ? そうでしたっけ?」
僕の記憶が曖昧なのかもしれない。まぁ、幼少時の事である。実際に眞鄕と話せば、もう少し思い出すかもしれない。そう考えつつ、血が濃いというのはどういう意味だろうかとも思案した。
「どうぞお入り下さい」
「あ、お邪魔します」
こうして通された僕は、中の造りに幾ばくか驚いた。外観からは想像もつかなかったが、畳の部屋もある。襖を開けて通された部屋を見て、改装したのだろうかと考えた。通された一室には、掛け軸があって、そこには触覚の生えた怪異が描かれていた。黒い卓には金箔で模様が施されていて、そちらにはやはりタコのような模様がある。土着の神なのかもしれないと、この頃には考えるようになっていた。僕を案内してくれた禿頭の老人がお茶を二つ運んできて、退出してからすぐ、奥の襖が開いた。そして和装の青年が入ってきた。
「あ」
直感的に眞鄕だと理解した。萌葱色の和装に、紺色の着物を羽織っている眞鄕は、鴉の濡れ羽色の髪を揺らし、瞳を僕へと動かした。髪と同色の切れ長の眼をしていて、長身だ。僕よりもずっと背が高い。鼻筋が通っていて、端正な顔立ちをしている。幼き日に遊んでいた頃の面影もある。
「眞鄕?」
「柚稀か。久しいな」
僕の言葉に、座りながら眞鄕が微笑した。両頬を持ち上げた眞鄕は、卓の上に両手を組んで置くと、柔和な顔で僕を見る。微かな違和感を覚えた。小さい頃、眞鄕はあまり笑わなかったような気がするからだろう。眞鄕も少し変わったのかもしれない。
「ずっと会いたかったんだ。お前を忘れた事は、一度も無い」
「そんなに? ごめん、僕は最近まで、村の事を忘れていたんだ」
「それは――鍵を手放していたからだろうな」
「え? 鍵?」
「こちらの話だ。それで? 何を契機に、この村に戻ってきたんだ?」
余裕ある表情で笑っている眞鄕の声に、僕は用件を思い出した。そこでフィールドワークについて伝えると、眞鄕が頷いた。そして座布団の横に始めから置いてあった黒い箱の蓋を開ける。
「村に伝わっている古い写本だ。この渓地村での信仰の根源は、この写本の中に集約されている」
「死霊秘法? あ。ゼミにいる、ミスカトニック大学からの留学生の発表で聞いた事があるけど、え? この村にも、写本があるの? 確かウェイトリーさんって言うんだけど」
「ああ。秘匿されていた写本が存在するんだ。それにしても、ウェイトリーか。この道酉井家の数代前の当主の妻も、ウェイトリー家の血筋でな。縁あって非常に古い時代に、内密に書き移したものを持参したらしい」
「そうなんだ……?」
「道酉井の家が確立したのも、その頃だと聞いている。当時はまだ、日本は江戸だったが、『狭間』を超えて、逃れてきたらしい。ウェイトリーの一族は、魔女裁判から逃れる事に必死だったようだな」
「ふぅん? 狭間?」
「時間・空間の法則を超越した人智を超える神、とある『現象』そのものを、この村では信仰している。道酉井の家には、その血が宿ると村では評判だ。外なる神の血を引くウェイトリーの末裔が、道酉井家でもあるからだ」
語りながら、眞鄕が喉で笑った。どこか楽しげな表情に思えて、僕は頷きながら、卓上のネクロノミコンの写本を見る。許可を得て頁を捲ると、難解な当て字で、何やら呪文めいた文言や、儀式風景らしき挿絵や、その手順が書かれていると分かった。これはじっくり読むには、時間がかかりそうだ。
「外なる神というのは、米国からの渡来人の表現?」
「いいや」
「なんていう神様なの?」
「ヨグ=ソトース。昔、名乗っただろう?」
「え? どういう意味?」
「昨夜、柚稀は答えたじゃないか。門をくぐると」
「へ?」
その言葉に、僕は夢の中の光景が頭を過ったように思った。そして、問答を想起した。あの時、ローブを纏った青年の発した声音。僕にはその声が、眼前の眞鄕と重なったように思えた。
「俺は、現在も過去も未来も超越している。俺の末裔にして、俺自身でもあるこの体において、俺はずっと、待っていた。銀の鍵を持つに相応しい者を。あの日、ウェイトリーの家で、ラヴィニアを娶った時、そしてお前の母を喰らった時以来の欲望を抱いた。欲しいんだ、お前が」
そう言うと、どこか残忍な色を瞳に宿して、眞鄕が口角を持ち上げた。何を言われているのか理解出来ないと確かに感じるのに、心の奥底では、それが当然の事であるようにも感じていた。思考が霞み始める。その時、僕の体を、猛烈な眠気が絡め取った。
「ん……」
次に気づいた時、僕は昨日写真を撮影した、巨石群の中央に立っていた。これは、夢なのだろうか。記憶が途絶していて、僕は動揺した。昨夜見た夢と同じような、奇っ怪な音楽が周囲に溢れている。狼狽えながら周囲を見渡すと、巨石に走る溝が、虹色に輝いている事が理解出来た。幻視と幻聴、そう理性では判断出来たが、何かが僕に襲い来る気分に陥っている。どこか遠くから、犬の鳴き声が聞こえてくるようにも思った。
呆然としていると、クッと喉で笑う気配がした。振り返れば、それまで気配すら感じなかったが、そこには眞鄕が立っていた。昨夜の夢と同じでローブを纏っていたが、今はフードが取れていて、端正な顔がよく見える。
「これは、夢だ。今、お前は眠りに落ちている。窮極の門を具現化させる為に、必要な事だ。だが、これは同時に、現実でもある」
「どういう事?」
「ついてこい。知りたければ、な。もうお前は後戻り出来ない」
甘美な声音に誘われるようにして、僕は洞窟へと向かい歩き始めた眞鄕の後に従った。上手く思考が出来ない。ただこれは、幼少時から約束されていた事のようにも思えた。次第に周囲には、薔薇の香りが漂い始めた。洞窟に入ると、小さな沼があったが、着物が濡れるのにも構わず、眞鄕はそこを進んでいく。深くは無い。僕もぼんやりとしたまま、その水に膝より少し下まで浸かりながら歩いた。すると中央に小さな岩があって、窪みが表面に見えた。
「少し浸かっていろ」
「うん……」
僕は窪みに手をかけ、しゃがんだ。そうするべきだと、僕は知っていたのだ。そうだ。僕は幼少時にも、眞鄕に連れられて、ここへと訪れた事がある。しかしあの日は、父が僕を揺り起こしたのだ。あるいはこの池から、連れ出したのだったか。僕達が引っ越したのは、それからすぐの事だったはずだ。僕は薔薇の香りに全身を包まれながら、漠然と思い出していた。
「もう、良いか。来い」
眞鄕が僕を見下ろしながら、静かに手を差し伸べた。力の入らなくなった腕を、僕が伸ばすと、手首を取られた。そして腰に腕を回され、支えられながら先へと進んだ。
洞窟の奥には、巨石が見えた。アーチ型をしている組み合わせられた巨大な岩だ。
「儀式のやり方は、小さい頃、何度も教えただろう? 夢の中で。先程の巨石と同じ場所で」
「うん。そうか、僕達は遊んでいたんじゃなかったんだね」
「俺の真の肉体は、人を象る事は出来れど、触れば泡沫のように消えてしまうからな。本性は、偽れない。よって、道酉井の家からは、外には出ない。陽光を俺は好まないからな」
つらつらと語った後、眞鄕が僕の肩に触れた。
こうして僕は、記憶していた儀式を開始した。いざ始めてしまえば、鮮明に手順を記憶していると気づいていた。手を動かし、足を動かし、視線を動かし、口を動かし、時には全身の動きを止めて、僕は必死に儀式をこなした後、首元に下げていた銀の鍵を握りしめた。後はこの鍵を、適切に動かすだけだと、僕は悟っていた。最後に呪文を詠唱する。そうだ。僕はネクロノミコンを読むまでもなく、知っていたのではないか。眞鄕に教えられたのだから、幼き日のあの頃に。
「進め」
眞鄕が僕の背中に触れた。促されて僕は、窮極の門をくぐった。
その瞬間、ハッとして、僕は双眸を開いた。見れば周囲は、道酉井家の一室に戻っていた。正面には、和装の眞鄕が座っている。眞鄕は、獰猛に瞳を輝かせながら、唇に弧をはり付けていた。
「よく来たな」
「僕……帰ってきたの?」
「いいや。ここが、永遠だ。ヨグ=ソトースという現象の内側だ。もうお前は、俺のものだ」
「僕はどうなるの?」
「そうだな。俺の子を孕んでもらおうか。銀の鍵を持ち得たお前にならば、それが可能だ」
「孕む? 僕は、男だよ?」
「神の子は、人間の摂理とは異なる宿り方をする。俺のこの体もまた、そのようにして宿った。道酉井の次の後継者を、俺は欲している。副神として、そろそろこの地を離れたいとも思っているしな。ああ、網茶時教授に手紙を送って良かった。お前を寄越せと」
「……っ、え?」
事態も話も理解出来ないでいると、眞鄕が立ち上がった。そして僕の隣に座すと、僕の両手を取った。そしてじっと僕を見る。まるで獣のような眼をしている。舌舐めずりをした眞鄕は、そのまま僕の手を引くと、抱きしめた。厚い胸板の感覚と、力強い腕に、僕は硬直する。本能的な危機感を覚えた。ダメだ、これは、ダメだ。
「ン、ふ」
しかし次の瞬間には、唇を貪られていた。唾液を流し込まれた時、ドクンと僕の体の奥深くが脈動した。ねっとりと舌を絡め取られると、それだけで体が熱を帯びる。歯列をなぞられ、舌を吸われると、ゾクゾクと背筋に快楽が走った。僕の体は、おかしい。
「ぁ……」
僕は弛緩した体で、眞鄕の腕の中に倒れ込んだ。僕の唇の端からは、唾液が零れているのが分かる。虚ろな瞳で眞鄕を見れば、意地の悪い笑顔が浮かんでいた。眞鄕は、僕のシャツを引き裂くように開けた。そして畳の上に押し倒した。
眞鄕の容貌が変わり始めたのは、その時の事だった。夜色だった瞳が、まずは深紅に染まった。元々長身ではあったが、彼の体がより大きくなったように見える。和服の合わせ目を緩めた眞鄕の手の甲には、確かに眼球が接着していた。それは鎖骨の下、露わになった胴体も同様で、無数の巨大な眼球がついている。下腹部にはおどろおどろしい、赤黒い肉茎と、足であったはずのもの――蠢く触手のようなものが見える。それらは手とも同化していき、気づけばそこには、異形としかいえない存在がいた。その表面に、ただ眞鄕の顔が埋め込まれるようについている。
「あ……あ、あ……」
恐怖から、僕は喉を震わせた。蠢く足が、僕のボトムスの中へと入ってきて、下着ごと破り捨てた。ぬめる触手が、僕の両方の太股を絡め取り、大きく持ち上げる。赤黒く光るぬめった肉茎が、先端からドロリと透明な雫を零している。
「いや、ぁ……あ、あ、あ、ア――!!」
眞鄕だった存在の肉茎が、容赦なく僕の菊門から挿ってきた。押し広げられる感覚に恐怖したが、痛みは無い。先端から零れている液体が触れる度に、僕の体は弛緩し、同時に壮絶な快楽の灼熱に炙られるように変化した。体が作り替えられていくような錯覚に陥る。兎に角太く長い剛直が、一気に僕の最奥までをも貫いた。容赦なく結腸を押し上げるようにされた時、僕は悲鳴を上げた。
「あ、あ、あああああ!! ダメ、嫌だ。あ、誰か、助けて、助けて、ぇ……ひ、ァ」
ボロボロと泣いて、藻掻いた僕の手を、触手が絡め取り、畳に押しつける。のし掛かってきた眞鄕だった存在の体に押しつぶされるようにされた。肌には眼球の他に吸盤のようなものがついているようで、それらが僕の肌に張り付いてくる。人間の手によく似た形をした触手の一つの先端が、指先のように僕の乳首をギュっと摘まんだ。二本の手のようなものの指先で乳首を捏ね回されていると、そこからも僕の全身に絶望的な快楽が走り始めた。
「うあ、ぁ、嘘、嘘、待って、ぇ……いやぁァ」
細い触手は、僕の鈴口から尿道へと入り込んでくる。そして前から僕の前立腺を暴いた。瞬間、全身を水が打ったような、静かな快楽が走った。体が凍り付いてしまい、息が出来ない。純然たる快楽のみを、僕の体が拾っていく。
「あ、あ、ああ!! ン――っ、ッ、ひぁ! あ……ああ、ア」
恐ろしいのに、気持ちが良い。感情と身体感覚の乖離に、僕は怯えた。異形――ヨグ=ソトースの顕現したものに体を暴かれている僕は、全身を震わせ涙を流す。頬に温水の筋が出来ていく。すぐに射精したくなり、僕は太股を震わせた。内股に力を込める。しかし僕の尿道を細い触手が犯していて、それらが栓をしているから、出せない。けれど前立腺をグリと前から刺激される度に、出ている感覚になる。
「あ、いやああああ!」
その時、体の最奥をググっと押し上げられて、僕は叫んだ。瞬間、全身が痙攣した。体の奥深くに走った快楽は、射精した感覚を僕にもたらした。足の指先を丸めて、僕は快楽の奔流に耐える。ドライオルガズムを強制的に経験させられた僕の内部は収縮し、巨大な肉茎を締め上げている。
「いいな」
眞鄕であった存在の唇が動いた。顔だけは本当に端正だ。
「あ、あ、あ。待って、待って、まだ、ぁ、アアア!」
果てたばかりの僕の内部で、激しく肉茎が動き始める。尿道の内部の触手も抜き差しされ、乳首を嬲る指のような器官もギュっと力を強く込めた。肉茎には無数の瘤がついているようで、その中の一つが、僕の前立腺を同時に押し上げる。満杯になってしまった僕の中、絡め取られている全身、その全てから、快楽が染みこんでくる。
「いや、いやあああ!」
気が狂いそうなほどの快楽に全身を支配されながら、僕は再び、射精できないままで、内部だけで絶頂に導かれた。その瞬間、内部に白液が注がれた気配がした。
「存分に孕め」
「ダメ、ダメ、それは怖い、嫌だ、アアア、助けて」
「助けなどない。矮小な人間には過ぎたる幸福だろうに」
「いやあああ」
「気持ち良いだろう?」
「そんな、あ、そんな、ぁ……あ、あ、ダメ、またイく……ひ!!」
膨張したまま萎える事の無い硬い肉茎が、グチャリヌチャリと卑猥な音を響かせながら、僕の中でゆっくりと動き始める。随分とスムーズに動くようになり、僕の感じる場所ばかりを責め立てる。
「あ、あ、あ」
その時、前と中から同時に前立腺を強く押され、僕はボロボロと泣いた。頭が真っ白に染まる。再び異形の精液が、僕の中を汚したのが分かった。大量の白液のせいで、僕の腹部が膨らみ始める。グリと最奥を突かれる内、僕は完全に快楽に飲まれた。そうして何度も、僕はこの日子種を注がれた。
目が覚めると、僕は和室の布団の上に寝ていた。じっとりと体が汗ばんでいる。僕は淡い色彩の和服を着付けられていて、木の天井を見上げていた。体が鉛のように重い。全身が軋むように痛んでいて、緩慢に手を持ち上げれば、そこには赤い痕があった。触手に絡め取られた場所だ。
「気づいたか?」
眞鄕の声がしたから視線を向ければ、正面の書き物机の前に正座をしていた眞鄕が、僕に振り返った所だった。上半身を起こしながら、僕はぼんやりと視線を向けた。
「感じるか? 胎動を」
「!」
その言葉に、僕は青褪めた。慌てて腹部に手を当てると、ドクンと何かが動いた気配がした。
「年明けには、子が生まれるだろう」
「……」
「その頃には、道酉井の家がこの渓地村に出来た祭事がある。それに併せて、生まれる子だ。俺には分かる、双子のようだな」
「そんな、嘘だ……嫌だ……嫌だ……僕は」
「異形の子を産むのは嫌か?」
「嫌に決まってる」
「では、俺の子を産むのは嫌か? あんなにも愛し合ったというのに」
それを聞いて、僕は目を見開いた。交わりの記憶、情事の残滓が、確かに僕の肌には生々しく残っている。触手で体を持ち上げられて、眞鄕の顔と口づけをした瞬間には、僕は恍惚としていただろう。
思わず羞恥に駆られたが、すぐに悍ましい眞鄕の姿を想起し、僕は両腕で体を抱いた。
「帰る」
「――すぐにお前は戻ってくる。もう、俺を刻みつけたからな」
その日僕は、和服を着たまま民宿に戻り、その場で着替えて、すぐに宿を出る事にした。一刻も早く、この渓地村という土地から逃げなければと、僕は焦燥感を抱いていた。
結局、フィールドワークは中途半端に終わった。僕は憂鬱な気分で残りの夏期休暇を過ごした。その日々の内、夜毎僕は、眞鄕――いいや、眞鄕であった存在、ヨグ=ソトースという現象と交わる夢を見た。違う。夢ではないのかもしれない。都心に戻っても、僕は眞鄕に囚われていた。眞鄕は、ヨグ=ソトースの化身は、僕を追いかけてきたのだと思う。
僕は漸く理解した。父が何を恐れ、何に怯え、何に追われていたのかを。銀の鍵を保持していた父は、狂った音色、魔笛や太鼓のもたらす幻聴に追いかけられ、日々、ヨグ=ソトースという、どこにでも在る存在に恐怖していたに違いない。
眞鄕は、僕の母を喰ったとも話していた。僕達家族は、銀の鍵を手にした結果、目をつけられたのだろう。何故、自分が銀の鍵を保持しているのかは、僕は思い出す事が出来ない。
そう考えていたある日、父の日記について思い出した。改めて読み返してみれば、南極へと調査に出かけた事のある曾祖父が持ち帰ったのだと記載されていた。そこにはただ『鍵』としか記されていなかったが、僕は曾祖父から銀の鍵を小さな頃に与えられたような記憶を朧気に思い出した。曾祖父と祖父は、僕が四歳の歳に、亡くなったはずだ。二人共、突然の心不全だったと聞いている。父方の曾祖父と祖父だ。母方は、母が亡くなった時には、既に祖父も祖母も亡くなっていた。父方の祖母も没している。
ドクン、と。
腹部の中で何かが蠢く感覚がしたのは、夏期休暇が終わる直前、スーパーに買い物に出かけた時だった。炎天下の道を歩きながら、僕は腹部に手を当て、目を見開いた。はっきりとその時、僕の脳裏には、眞鄕だった存在と同一の種類の、異形としか評しがたい存在が宿っている光景が過った。冷や汗が、こめかみから垂れていく。立ち尽くした僕は、軽く首を振った。僕は男だ。妊娠などするはずは――……。
そもそも、渓地村での一件は、夢だったのではないかとさえ考えている。都心に戻ると、とても現実の出来事だったとは思えないのだ。けれど確かに僕は、今も、追いかけられている。何かが四六時中、僕を監視しているのが理解出来る。見られているのだ。
夏期休暇が終わった後、僕は履修届を書いて提出してから、大学図書館へと向かった。卒業論文の題材を決めなければならない。フィールドワークは諦めて、文献研究に切り替えようかと考えていた。そこでルルイエ異本という稀覯書が、ミスカトニック大学から貸し出されていると知った。テーマに良いかもしれないと見に行けば、特に人集りも無かった。僕は白い手袋をはめて中を見て、そして息を呑んだ。
「……」
そこには、僕が渓地村で行った儀式に類似した事柄が記されていた。ヨグ=ソトースを喚び出す儀式なのだという。僕が行ったのは、窮極の門をくぐる為の儀式であるが……と、考えつつ、僕は唾液を飲みこんだ。場所は、ある丘の巨石群にて行われたらしいが、それと類似したものも渓地村には存在する。
「……もしも。眞鄕がいなくなってしまっても、これがあれば、いつでも……」
僕は無意識にそう呟いてから、慌てて頭を振った。何故僕は、眞鄕に会いたいと思っているのだろうか。いつか大宇宙の彼方に、眞鄕で在るものが去ってしまう可能性に怯えているのだろうか。二度と会う事は無いはずなのに。確かに、夢の中では今も毎夜、暴かれているが。
「夢……」
銀の鍵でくぐった窮極の門の先、虹色の光が輝く、巨石のアーチの向こう側に、夢の中で僕はいつも立っている。最近の僕は、大学生であるはずの自分と、門の先で眞鄕に貫かれている己の、どちらが現実なのか分からなくなる事も多い。
その後僕は、ルルイエ異本から内容を抜粋された薄い冊子が配布されていた為、それを貰い受けて、アパートへと戻った。浴槽にお湯をためて、静かに浸かりながら、細く長く吐息した。本日も、夢を見るだろうか? 気づけば僕は、念入りに体を洗っていた。そしてじっと自分の体を見る。腹部には、膨らみは無い。だが、全身に、触手につけられたような痕がある。渓地村から帰宅してから、一度も消えない。いいや、毎夜付けられているからなのか? まだ残暑は厳しいが、既に秋であるから、メンズストールを身につけても不自然ではない事が幸いだ。僕の鎖骨のそばには、昨夜夢の中で、眞鄕の顔に付けられたキスマークが散らばっている。
「今日は早いんだな」
その日も、お風呂から上がって、ベッドに横になってすぐに、夢に飲み込まれた。巨大な体躯の異形、表面に無数の眼球がついていて、蠢く触手のような手足を持つ存在は、中央より少し上に、眞鄕の顔をはり付けている。その顔が、穏やかな声を紡ぎ、笑っている。
「俺が欲しかったか?」
「うん」
最近の僕は、夢だと割り切り――素直になっている。恐怖が消えたわけではない。ただ、与えられる壮絶な快楽の虜と化した体は、実際に眞鄕の体を欲しているのだ。
「あまり注ぎすぎると、子の血が濃くなるんだが」
「欲しい……眞鄕、早く」
僕は、どうせ夢なのだからと、欲望を伝える。すると触手が、僕の頬を撫でた。腕らしき部分がぬめっていて、先端には、眞鄕の手が、接着している。その指先で、次に顎を持ち上げられた。
「もっと俺に堕ちてこい」
既に僕は、眞鄕の腕の中に、囚われているのだと、夢の中ではいつも理解している。
僕の服の内側に、眞鄕の体がうねるようにして忍び込んでくる。優しく服を脱がされ、すぐに眞鄕の肉茎が、僕の中へと入ってきた。触手で高く持ち上げられた僕の体を、下から巨大な赤黒い肉茎が突き上げる。
「あ、あ、深い……っ、ひぁ」
「それが好きなんだろう?」
「ぁ、ァ……んン、ふ、ぁ……っ、う」
根元まで挿入され、僕は眞鄕の体にしがみついて震えた。巨大な眼球つきの胸板が、僕を抱きしめている。触手が僕の背をギュッと抱き寄せているのだ。眞鄕はその状態で、何度も僕に唇で触れる。唾液を流し込まれる度に、僕の体は熱を帯びていく。
僕の理性はすぐに焼き切れ、思わず声を上げた。
「あ、あああ、もっと動いて。突いて、ぇ、あ、ア」
「堪え性が無いな」
眞鄕の顔が、唇で僕の胸の突起に吸い付いた。そしてチロチロと舌先で僕の乳首を弄ぶ。それがもどかしくて、僕は腰を揺らした。
「あ、ハ……っ、あ」
「随分と淫乱になったな。愛おしい。俺のもので感じる柚稀が」
「ん、あ、気持ち良い、気持ち良いよ、ぉ、ぅ、うあ、あ」
「淫らだな。それにしても凄艶だな、お前は。汚しがいがある」
「あああああ!」
その時、眞鄕である存在が、激しく突き上げ始めた。容赦なく最奥を責め立てられて、僕は今日も、中だけで果て、彼の白液を内側で受け止める。結合箇所からは、ドロリとそれが垂れていった。
目を覚ませば、僕は服を着ていて、朝が訪れていた。本日から、通常授業だ。三年次前期までにあらかたの単位は取得していたので、僕の時間割は比較的緩やかだ。卒業論文を
練る時間は豊富だ。
「ヨグ=ソトース」
僕は冊子を読みながら、呟いた。シュリュズベリィ博士の論文を、その後取り寄せ、僕はルルイエ異本の文献研究をしようかと考えるようになった。実際に興味があるのは、間違いなく眞鄕なのだと、この頃には自覚させられつつあった。
毎夜の情交は酷く激しく、体をどんどん絆されていく。そして僕は、それが嫌では無いと、もう気づかされていた。眞鄕は、僕に優しい。外見が悍ましいだけで、眞鄕は、眞鄕なのだ。僕は、眞鄕に愛されていると――どこかで考え始めていた。
次に腹部で何かが蠢いたのは、ハロウィンの夜の事だった。逢魔ヶ刻に道を歩いていた僕は、思わずその場で蹲った。ドクンと何かが体内で動いたその瞬間、僕の全身が、カッと熱くなった。驚愕して僕は息を呑んだ。僕の陰茎が、急に持ち上がったからだ。
「ぁ……」
じわりじわりと、僕の体の奥で蠢く何かが、僕の前立腺を掠めた。眞鄕に教えられた感じる場所を、蠢く何かが細くぬめるもので刺激したのだ。
「嘘……あ、ああ……」
震えながら僕は立ち上がった。一刻も早く、帰らなければ。必死でそう考えてアパートに戻り、僕は玄関でしゃがみ込んだ。体内に宿った存在が、僕の体の内側で快楽を煽ってくる。やはり僕の中には、既に在るのだろう。眞鄕との、愛の証が。
「や、やぁ……眞鄕、眞鄕、助けて」
僕は快楽が怖くなって、無我夢中でベッドに向かった。夢に入れば、眞鄕が助けてくれるはずだと信じていた。ギュッと目を閉じ、僕は布団を握りしめた。
「来たか。随分と今日は、色っぽい顔をしているな」
「熱いの。体が熱い。助けて」
「さすがは俺の血を引くだけあって、そして同時に俺でも在るから、お前の体が美味しいのだろうな。気にせず浸れば良い。今後は、二十四時間、お前をヨグ=ソトースが味わうという事だ」
「ッ」
「倖せだろう?」
眞鄕はそう言うと、珍しく人の形のままで、僕を抱きしめた。僕は額を彼の胸板に押しつけて、ガクガクと震えながら涙を浮かべた。その間も、体内で蠢く存在が、僕の体を熱くする。
虹色に輝く白い壁の部屋に、この日僕達はいた。眞鄕は、模様が刻まれた壁を一瞥し、そうして口角を持ち上げる。
「子の成長を確認するか。壁に手を付け」
「あ……」
「もう我慢が出来ないんじゃないのか?」
言われた通りに、僕は服を脱いで、不思議な溝のある壁に手を突いた。そして臀部を突き出し、眞鄕の陰茎を受け入れる。人型であっても、眞鄕の怒張は、太く硬く長い。前立腺を擦りあげるように貫かれ、僕は震えた。その時、眞鄕の一際太い先端が、僕の内部で蠢くものを、ぐっと最奥に押しつけた。
「ああ! あ、あ!」
僕の喉が震える。結腸に振動が伝わってくる。
「あああ! おかしくなっちゃう。いやぁ、あ、気持ち良いよ、ぁ、ああ!」
涙でドロドロになった顔で、僕は声を上げた。あんまりにも快楽が強くて、僕はすぐに、気絶した。目を開けると、今度は異形の姿になった眞鄕に、後ろから抱きしめるようにして貫かれていた。僕の四肢を触手が拘束している。直に触れている肌には、吸盤のような感触と、時折巨大な眼球が瞬きをする感覚が伝わってくる。眞鄕は、その瞳で、僕を前後左右上下の全てから見ている気がした。
夢から覚めた頃には、僕は寝台の上でぐったりとしていた。体内では、相変わらず宿った何か――子が、蠢いている。僕は確かに、孕んでいる。孕ませられたのだ。
以後の日々は、壮絶な快楽に塗れていた。新年になるまでの間、終始の僕の内側に宿った存在は、僕の前立腺を刺激し、結腸を責め、蠢き続けたのである。夢の中では眞鄕の肉茎と触手にも全身を嬲られ、僕はもう訳が分からなくなっていた。大学には、いつから行かなくなったのか、もう思い出せない。僕は一日の大半を、ベッドに蹲って過ごしていた。
「柚稀。帰ってこい、渓地村へ。祭事の日取り、子が生まれる星の配置の日が、近づいている」
最近の僕は、目を開けていても、眞鄕の声が聞き取れるようになった。朦朧とした意識で、僕は確かに頷いたのだったと思う。
気づくと僕は、鈍行列車に乗っていた。熱に侵された体を叱咤してバスに乗り、その後は徒歩で渓地村へと向かったのだろうが、その間の記憶は朧気だ。村に着いた日は新月で、一月のその日、渓地村には雪が降り積もっていた。銀色の雪原を進み、僕は道酉井家を目指した。扉の前に立った時、自然と扉が開き、正面に立っている本物の眞鄕を見た。
その瞬間、僕は尋常では無い安堵に襲われ、気づけば泣いていた。
「眞鄕……」
「来たな。ここが帰る場所だと、やっと理解したか。この、門の先に存在する、本物の村へ。渓地の村もまた、銀の鍵を用いてこそ、真に足を踏み入れられる窮極の門の先のまほろばなんだ。理解したか?」
「……うん」
「ここは、渓地村であって、渓地村ではない。しかし、夢ではない。ここが、現実だ。今後永劫、柚稀はこの地でヨグ=ソトースの血を繋げていけ」
そう言って眞鄕が、僕を抱きしめた。僕はその和服の胸元を握りしめながら、小さく頷く。
「眞鄕の子供という事だよね? それなら――」
「ん? 俺は、全てで在り唯一だ。あるいはそれは、俺とお前の子でもある。既に俺はお前の中にも宿っている」
「……?」
「子に抱かれ喰われるお前を見るのも楽しみだ」
残忍な顔で、眞鄕が嘲笑するように吹き出した。僕はこの時は、その言葉の意味を理解出来なかった。そうして眞鄕に連れられて、僕は洋館の中へと入った。促されたのは、地下室で、そこの床には、魔法陣のような模様が走っていた。その中央に、寝台が一つある。
「脱いで、横になれ」
「……」
「今宵は、祭事を執り行う。同時に、俺の子を産む喜びを味わうと良い」
僕はその言葉に、逆らえなかった。抗えないという思考が、僕の内側に渦巻いていた。言われた通りに、僕は服を脱ぎ、寝台に座った。すると眞鄕が歩み寄ってきて、僕の体を押し倒し、両膝の下に棒を通した。それから天井から下がる滑車を一瞥し、鎖の長さを操作して、僕の足を開脚した状態にした。この時には既に、体内の疼きから、僕の陰茎は張り詰めていて、先走りの液が零れていた。
「産め」
「あ」
眞鄕の声が響いた瞬間、ドクンと僕の腹部が動き、そして僕の内側から、眞鄕の本体によく似た何かが出てきた。最初に触手が出てきて、それが出て行く感覚と、菊門を押し広げられる感覚に、僕は震えた。
「あ、ああ、ぁ……ァ」
出てきた異形が、僕の陰茎を即座に絡み取った。根元を拘束され、僕は唇を噛む。眞鄕は深紅の瞳に変わり、『子』に愛撫されている僕を、じっと見据えていた。
「あ、ヤ……見ないで……う、ぁ」
僕の声に、眞鄕は何も言わずに嗤っている。僕は泣きながら頭を振った。
「嫌だ、僕は眞鄕が良い……あ、あ」
陰茎に、生まれた子が絡みついてくる。そして尿道を見つけると、細くぬめる触手で暴き始めた。イヤイヤと首を振った僕は、自由になる手で、ギュッとシーツを掴む。
「ああああ!」
ついに前立腺を前から暴かれて、僕は絶叫した。眞鄕に慣らされきっている体には、酷な快楽だった。
「綺麗だな。しかしもう飽きた」
「!」
「興味が失せた。今後は、そちらの俺で楽しめ。俺であり、俺とお前の血を引く子であり、そして――人間だ」
「ん――!!」
その時、僕の内側から、もう一人の子が産まれた。人間の姿をしていると理解したのは、赤子の泣き声が聞こえたからだった。眞鄕はその子を抱き上げると、僕を見て愉悦を含んだ表情を浮かべた。
「表の渓地に、この子は貰い受ける。人の血が濃い方が、何かと使い勝手が良いんだ。お前はこちらの門の先の渓地で、永遠に楽しんで、喰われていれば良い」
「あ、あ……いや、眞鄕、あ」
「では、な。もう案内は済んだ。以後は特に顔を合わせる事は無いだろう」
そのまま眞鄕は、地下室を出て行った。残された僕は、産まれた異形に、ずっと体を弄ばれたのだった。
いつ自分が意識を手放したのかは分からない。
今、僕が理解出来るのは、快楽だけだ。残酷な快感を与える異形は、日増しに大きくなっていく。どれほどの時間が経過したのか、今がいつなのか、あるいは現在など無く、ここは過去であり未来であるのか、時間感覚が消失していく。そうだ、この場所には、前にのみ進む時間など無いのかもしれない。
巨大になった異形は、人語を解した。次第に、僕と会話をするように変わった。
「僕は、ハスターでもある。そしてクトゥルフの半兄弟でもある。けれどヨグ=ソトースそのものにも近い。本来僕は、ジュブ=ニグラスの夫となるものだけれど、柚稀父さんの体が欲しい。僕は、宇宙そのものであるヨグ=ソトースでもあるから、人を好むのかな」
そう言いながら、凶悪な肉茎と触手を、同時に僕の中へと子が挿入した。何度も放たれているため、僕の菊門からはドロドロと白液が零れている。口から唾液を零し、涙を浮かべながら、僕は快楽に浸る。眞鄕で無ければダメだと思っていたはずなのだが、眞鄕でも在る子は、眞鄕によく似た顔を触腕がついた胴体にはり付けて、今日も酷薄な笑みを浮かべている。もう、これで良いのでは無いのか。
――銀の鍵で開けた窮極の門の先に在ったもの。
それは紛う事無き、快楽だ。
その内に、僕は体内で再び何かが蠢くのを感じた。それに気づいた時、僕は久方ぶりに理性を取り戻した。
「あ……」
子の触手に全身を絡め取られたままで、僕は胎動を感じていた。
「あ、あ、嘘だ。まさか」
「僕達の子が出来たみたいだね。それもまたハスターであり、僕だ」
「いやあああ、待って、あ、あ、ああ!!」
僕の乳首を触手で嬲りながら、陰茎の根元を拘束している子が、ぬめる別の触手を僕の耳の中へと差し込んでくる。泣きながら僕は恐怖した。体の内側からも、絶望的な快楽が這い上がってくる。
「ダメ、ダメ、もう出来な、い、ゃ、あああああ!」
この日から、僕は残酷なほどの快楽に晒される事となった。
――それは、僕にとっての二度目の出産、三人目の子が産まれるまでの間、続いた。
「柚稀父さん?」
三人目の子は、全身に眼球が接着していたが、体型は人と変わらなかった。ただし成長速度は速く、食事も必要としない様子だった。僕と第一子が交わっているのを見ながら、床に座り、すぐに言葉も覚えた。
「どうかした?」
我ながら恍惚とした顔をしているだろうと感じながら、僕は第一子に貫かれつつ、唾液を零しながら第三子に聞く。既に快楽は僕の一部であり、常に無い方が不思議な状態になりつつあった。
「僕もまたヨグ=ソトースだから、僕の眼球を通して、眞鄕父さんが見てるよ。伝言を頼まれたんだ。『滑稽だな』って」
「……そう」
「ねぇ柚稀父さん、彼方のものに娶られた気分は、どんな感じ?」
「君がいて、この子もいて、そしてここにはいないけれど眞鄕も、そしてもう一人の子もいて、そうだな――天涯孤独だった僕に、やっと出来た家族だから……今では、愛おしいよ」
「子が異形でも?」
第三子の眼球が、瞬きをしている。その瞳を通して、眞鄕は聞いているのだろう。
「僕はもう、この快楽無しではいられないから」
「ふぅん。じゃあ、解放してあげるよ」
「え?」
「眞鄕父さんは、体が熱くて辛くなる柚稀父さんを見たいらしいから」
その言葉と同時に、銀の鍵が落ちてきた。それを掌で受け止めた時、僕は渓地村の入り口に立っている自分を理解した。星が煌めく夜空には、上弦の月が輝いている。周囲を見回した僕は、灯りの無い村を見て、愕然とした。
ここは――表、だ。
そう確信し、僕は眞鄕に会えるのでは無いかと期待して、丘の上の洋館を目指した。
「!」
しかしそこには、燃え落ちた様子の家の残骸があるだけで、人気は無い。狼狽えながら村を見下ろしてみると、最後に見た時にはポツリポツリと存在していた民家の全てが、空き家のようになっていた。
「え……?」
僕は自分の両手を見る。それから顔に触れた。僕は、何一つ変わっていない。しかし村の様相は、様変わりしていた。あの民宿は、まだあるのだろうか? すっかり体からは熱が引いていたから、必死で思い出せる限りの記憶を辿り、僕は民宿を目指した。
すると薄汚れた看板が見えた。扉に手をかけると、鍵が開いていた。
「ん? お客様かい?」
見ればそこには、随分と老けたが面影のある、民宿の主人がいた。
「あれ? 柚稀君かい? いやいや、若々しいねぇ。今の人は違うんだなぁ。もう柚稀君が来てから二十年になるのにな」
「二十年……」
本当にそれほどの時が経過しているとすれば、現在の僕は四十一歳のはずだ。
「そういえば、柚稀君の子供が来ていったよ」
「え?」
「銀の鍵を探していると話していたけど、何の事だろうな」
「居場所は分かりますか?」
「ああ、受付の名簿に書いてあるはずだ」
それを聞き、僕は煩い鼓動の音を耳にしながら、住所をメモして貰った。その紙片を大切に持ち、僕はこの日、民宿に泊めて貰った。なんでも、村では本日の昼に、道酉井家で火災があったそうで、大騒ぎだったらしい。だが大騒ぎといっても、僕が最初に足を踏み入れた頃に生きていた老人達の多くは既に没していたから、本当に少数の村人しかいないらしかった。
浴室を借りて鏡を見たが、僕の姿は、二十一歳だった時から、何一つ変わっていなかった。時の経過が信じられないままで、僕はカレンダーを見せてもらい、今が平成ではなく令和である事を確認した。テレビ番組の内容も、随分と変化していた。嘗てと変わらないのは、夕食だけである。僕は山菜の天ぷらを頂きながら、他の料理を運んできた民宿の主人に尋ねた。
「あの、眞鄕はどうなったんですか?」
「ああ、道酉井家の?」
「はい」
「随分と前に、都会の大学院に行くと言って、村を出られたよ」
「そ、そうですか……あの、彼の住所はご存じですか?」
「いいや、それは知らんなぁ」
そんなやりとりをした後、その日は休んだ。
すると――夢を見た。
そこには、久方ぶりに見る眞鄕の姿があった。人間の形をしている。
「眞鄕!」
「人型の方の子は、吾郷と名付けたぞ。お前に会いたがっている。この子も、銀の鍵を持つ資格を有している。良ければ、授けると良い。今年で二十歳になる。さぞ、良い子を孕むだろう」
「え」
「俺も久しぶりに、案内人の仕事をするか」
そう言ってから、眞鄕が哄笑した。僕は嫌な汗を掻いた。その時、僕の身の内に巣喰っていたのは、明確な嫉妬だ。
「嫌だよ。眞鄕、僕だけを見て」
「ああ、いつも見ていたぞ。子供達の瞳を通してな」
「抱いて」
「――そうだな。久しぶりに、お前を喰うのも悪くは無いか。しかし、もう少し焦がれてみろ」
残酷なその声を聞いた次の瞬間、僕は目覚めた。全身が熱を帯びていて、僕は陰茎が勃ち上がっている事を理解した。ああ、僕の体は、もう快楽無しではいられないというのに。
翌日僕は、相良吾郷を名乗っているという、子の元へと向かう事にした。そこに、眞鄕もいるのではないかという期待があった。吾郷の住所は、都心から少し離れた場所にあるマンションだった。連絡先が分からないので、突然訪ねる形となった。乗り継ぎも、駅の構造が変化していた為、僕は苦労した。タイムスリップした心地で、僕は吾郷のマンションの前に立ち、インターホンを押す。
『はい』
「あ、あの……相良柚稀と申します」
『父さんか?』
「そうだと思う……良かったら、開けてもらえないかな?」
僕がそう告げると、すぐに扉が開いた。そこには身長が百九十センチはあろうかという体格の良い青年が立っていた。顔立ちは、眞鄕によく似ている。
「入ってくれ。色々と聞きたい事があるんだ」
促されて靴を脱ぎ、僕は室内へと入った。よく整頓されている清潔なリビングで、僕はソファに座る。するとコーヒーカップを二つ手に、吾郷がやってきた。見てすぐに理解した。間違いなく、僕の子だ。僕と、眞鄕の。
「俺の育ての親から、本当の父は、柚稀さんだと聞いたんだ」
「育ての親……」
「道酉井眞鄕と言う」
「……」
眞鄕もまた実父である事を、僕は告げるべきなのか悩んだ。
「銀の鍵の事も聞いた。俺は今、御坂大学で民俗学を専攻していて、中でも窮極の門の先を探りたいと考えているんだ。柚稀さんはその先に消えてしまったのだと、眞鄕義父さんは言っていたんだ。随分と見目が若いが、失礼だが、不老となったのか? 外なる神の力に触れて」
僕には明瞭な解答が無い。しかし僕の体が老化していないのは、事実だ。それとも今後、こちらの、人間としての世界においては、僕の時間の流れも、前に進むように直るのだろうか? 僕の考えとしては、不老になったのではなく、現在も過去も未来も無かった時空の狭間にいたから、僕の成長が止まっていただけのような気がしていた。
「眞鄕は、今どこにいるの?」
「義父さんを知っているのか?」
「うん……長い付き合いだよ」
「今はアーカムに行っている。それと、もう一つ聞いても良いか?」
「何?」
「何故俺を捨てたんだ?」
吾郷の瞳が鋭く変わった。僕は反射的に首を振る。
「捨ててはいないよ。僕からすれば、奪われた」
「誰に?」
「最古なるものに」
「それは、ヨグ=ソトースの事だろう?」
「そうだね」
「会ったのか? 俺も会いたいんだ。夢に見るんだ。俺を常に見ている存在だ」
それを聞き、僕は待たしても嫉妬心を持ちながらも、してあげられる事を考えて、テーブルの上に、銀の鍵を置いた。
「これが鍵だよ。きっと、今後は追いかけられる」
「願ったり叶ったりだ」
「ヨグ=ソトースは全てであるから、既に近くにいるかもしれないけどね」
そんなやりとりをしてから、僕はマンションを後にした。金銭は、僕が纏っていた和服の袖に入っていた財布から、民宿代も電車代も支払った。
「僕と同じ専攻、か……」
帰り道を歩きながら、僕はポツリと呟いた。ああ、僕の嘗て暮らしていたアパートはどうなっているのだろう? 一応見に行く事に決めた。すると、表札も相良となっていて、鍵が開いていた。
「帰ってきたな」
「! 眞鄕」
そこにあった姿を見て、僕は目を見開いた。人型をしている眞鄕は、僕が再会を果たした二十一歳のあの日のように、どこか柔和に笑っていた。
「アーカムに行ってるって聞いたけど……」
「このアパートの名前だろうが」
「あ……」
「維持しておいたんだ。今では、俺は、一人になりたい時に、ここへ来ている。勝手にすまないな」
クスクスと笑った眞鄕を見て、僕は涙ぐんだ。変わっていないように見える。優しく思える。僕に愛情を注いでくれていた時の眞鄕のようだ。
「眞鄕……会いたかった」
「知ってる」
「僕は眞鄕が、好きなんだ。子供達に囲まれていても、何も考えられない時でも、眞鄕の事を忘れた事は無かったよ」
「そうか。その割に、ハスターの体に悦んでいたようだったが」
「それは――」
「冗談だ。来い」
眞鄕が、僕に向かって両腕を伸ばした。スーツ姿の眞鄕を見るのは新鮮だ。眞鄕にも老けた様子は無い。僕は素直にその腕の中に収まった。するとその腕が、すぐに触手に変わった。ギュウギュウと体を締め付けられる。その感触すらも懐かしくて、僕はポロポロと涙を零した。
「そんなに俺が好きか?」
「うん」
「では、また俺の子を孕むか? 人間であり、外なる神であり、ハスターであり、そして俺でもある子供達を」
「眞鄕がそれを望むなら、僕は構わないよ」
「可愛い事を言うんだな」
「だから僕だけにして。お願い。吾郷じゃなく、僕を選んで」
僕が縋り付くと、眞鄕が吹き出した。
「そうか。そうだな。確かに、別段吾郷に子を孕ませたいわけではない。ただ、案内はするつもりだ。それが俺の仕事だからな」
「うん、うん。僕だけの眞鄕でいて」
「その人間の名にも、随分と慣れた」
それから眞鄕の顔が、僕の唇に触れた。異形の中に浮かぶ眞鄕の顔が、じっと僕を見つめ、そうして唇が降ってきたのだ。僕はその温度を受け入れる。
「この俺が、人に執着するのは、珍しい事だ」
「嬉しい」
「しかし果たして、俺に追いかけられて、お前は耐えられるのか?」
「僕はいつでも、眞鄕と共にいたいから、大丈夫」
僕の言葉に、眞鄕が喉で笑った。
「今後は、またここで暮らすと良い。道酉井家の蓄えで、今後も維持しておく」
「有難う」
「今日は帰る。では、追いかけさせてもらう」
触手から僕を解放した眞鄕は、人型に戻ると、ネクタイを片手で直してから、帰って行った。この日から、僕の世界は、一見すれば元に戻った。
――けれど。
常に僕は視線を感じている。何者かが、僕を見ているのだ。しかしその正体が眞鄕だと思えば幸せで、僕はいつも胸が満たされている。だが、眞鄕は現実でも僕に会いに来る事は無く、夢にも出てきてはくれなかった。僕の内側では、狂おしいほどの快楽が齎す灼熱が渦を巻いている。
眞鄕に会いたくて、僕は何度か、吾郷のマンションを訪ねた。だが、吾郷は、いつも眞鄕の不在を僕に告げるだけだった。ただそんな時であっても、僕は背後から常に視線を感じていたから、眞鄕の存在は感じ取る事が出来ていた。
それでも体が辛い。
僕は何度もベッドで、一人自慰に耽り、陰茎と後孔を己の指で弄った。そんな時ですらも、僕は視線を感じていた。視線を感じるだけで、肌が熱くなるようだった。
もっと眞鄕に見られたい。そんな欲望が、肌の内側を占め尽くしていた。
ああ、眞鄕に会うには、どうすれば良い?
僕はそればかりを考えるようになった。そこで――学生時代の記憶を思い出した。
「喚び出す儀式……」
そうだ。眞鄕は、ヨグ=ソトースなのだ。ならば、喚び出したならば。そう理解した日の内には、僕は渓地村へと向かう旅に出ていた。アパートには、呪文と儀式内容が記述された古びた冊子がそのまま残っていたから、鞄にそっと入れたのだ。
渓地村に到着したのは翌日の昼の事だった。真っ直ぐに、巨石群へと足を運ぶ。するといつか耳にした太鼓と魔笛の音色が聞こえてくる気がした。相変わらず視線を感じる。
僕は冊子を再読してから、巨石群の外に鞄を置き、儀式を開始した。夜空を二度見あげてから、脳裏に暗記した呪文を思い浮かべ、間違いの無いように、正確に唱えていく。長い時間、僕は儀式を執り行っていた。季節は春、藤の花が遠目に見えた。
圧倒的な存在感を感じたのは、最後の呪文を終えた時の事だった。目を見開いた僕を、強い風が吹き付け、宙に巨大な体躯のヨグ=ソトースが、眞鄕が浮かんでいるのが見えた。
――成功した。歓喜した僕は、手を伸ばす。
すると蠢く触手が、僕の腕に絡みついた。そのまま、僕は、眞鄕の顔がついた異形に、飲み込まれた。自分の体が浸食されていくのが分かる。体の内側に、蜷局を巻くように、全宇宙の知識とでも表現するしか無い情報が流れ込んできて、初めは何が起きたのか分からなかった。僕の外郭は崩れ去っていき、僕の人間としての体は、ヨグ=ソトースに同化し始めていた。そのまま、僕は飲み込まれたようだった。だが、スッと全身から、快楽由来の熱が引いた。久方ぶりに冷静になった思考で、僕は眼前に広がる無を見る。
これが、僕の人としての終わりである。だが、永劫、僕はヨグ=ソトースと在れる事となった。
◆◇◆
「こんな田舎で、バラバラ死体が見つかるとはな」
「いや、指と右足が落ちていただけだろ? まだ生きてるかもしれないぞ?」
「脳漿も飛び散ってたらしいから、絶望的だろ」
「ああ、啜られていたみたいだっていう噂。あれ、事実なのか?」
銀の鍵を手に、俺が渓地村を訪れた時、通りがかった二人の村人が、そんな話をしていた。俺は銀の鍵を用いる事が可能な条件の土地を探していて、御坂大学に古くからいる網茶時教授に、密かにこの村の事を聞いたのである。
最近、柚稀と言う名の、俺の実父は頻繁に俺のマンションを訪ねてきていたのだが、いざ渓地村について聞こうと、アパートを訪ねたら、無人だった。それが三日ほど前の事だ。
俺は、ここの所、追いかけられているような気持ちになる事がある。嘗ては見られていると思うだけだったのだが、最近は、夢の中で何かが追いかけてくる気がしているのだ。しかし、目を開けると、いつもその夢の事は忘れてしまう。
網茶時教授が教えてくれたのは、山の中にあるという巨石群についてだった。簡単な地図を書いて貰ったので、俺は民宿に荷物を置いてから、そこへ向かう事にした。木々の向こうに見える洞窟を一瞥し、巨石群の中央へと向かうと――立ち入り禁止の紐が張り巡らされていて、何人かの警察官がいた。
「……」
これでは、儀式が出来ない。だが、なんの収穫も得られないというのも癪なので、俺は洞窟へと振り返った。そちらから、強く見られている気配がしたからだ。これまで俺は、俺を見ている存在の姿を目視した事はない。一目で良いから、見たかった。
俺は自然と洞窟へと足を運んだ。すると小さな池があって、その向こうにはアーチを描くような巨石があった。
「な」
そこに広がっていた光景に、俺は息を呑んだ。眼球が全身につき、触手と触覚がある異形が、そこで巨体を動かしていた。表面には二つの人間の顔があり、一つは俺の育ての親である眞鄕義父さんによく似ていて、もう一つは、実父である柚稀さんによく似ていた。
そのそばには、全身に眼球がついている、身長が二メートルはあろうかという青年がしゃがんでいて、更に傍らには、触腕を蠢かせている異形がいる。こちらについている顔も、どことなく眞鄕義父さんや――俺に似ている。俺は眞鄕義父さんに瓜二つだと言われてきたから、当初は実子なのでは無いのかと考えていたほどだ。
――なんだ、これは?
「漸く家族が揃ったな。よく来たな、吾郷」
太鼓と魔笛の音が響いてきた中で、眞鄕義父さんの声がした。すると柚稀さんによく似た顔が涙を零しながら笑顔を浮かべた。
「気持ち良い。ああ、気持ち良い。それに、孤独も癒えて、幸せだよ」
俺は愕然としながら、確かに聞き覚えのある声だと理解していた。
「吾郷? 僕の事が分かる? 双子の弟なんだよ? 僕達は、双子なんだ」
「柚稀父さんから生まれた一番下の弟だよ、僕は」
異形のもの達が、笑顔で俺を出迎えた。俺は戦慄しながら、両腕で体を抱く。
そうしながらも、俺は理解した。
彼らは、全てで在り、唯一である存在なのだと。
「窮極の門に、行くか?」
その時、声がした。それは、一体どの顔が放った声だったのだろう。
俺は銀の鍵を握りしめたまま後退り、民宿まで逃げ帰った。
「どうしたんです? そんな慌てて」
皺くちゃの顔をした老主人が、俺を見て首を捻った。ここに宿泊するのは、二度目の事である。俺は顔面蒼白のままで首を振り、無言で自分の部屋に戻った。己が悍ましい存在の家族である事が信じられなかった。いいや、あの言葉は、事実なのか?
その夜……窓の外から、太鼓と魔笛の音色が聞こえてきた。遠くからは、犬の鳴き声も聞こえた気がした。ああ。追いかけてくる。
俺は、窮極の門の先に待ち受ける出来事に、既に触れているのだろう。
そこにあるのは、柚稀さんに待ち受けていたような、超越なのでは無いだろうか。
ヨグ=ソトースという現象を、俺は追い求めていたわけだが、今では逃げなければならないと明確に理解している。
トントンと音がしたのはその時の事だった。何気なく窓を見て、俺は目を見開いた。全身から血の気が失せていく。それまで闇夜を移していたはずの硝子。その――窓、に。
◆◇◆
「困ったもんだよ。宿代を払わずに、消えちまうんだからな」
【完】
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