67 / 71
―― 第四章 ――
【067】ぬくまる手
しおりを挟む
本日は約束通り、澪を連れて偲が外へと出た。
一緒に来た時生は、澪が駆けていくのを慌てて追いかける。そして澪が立ち止まって、悪戯っぽく笑ったのを見て安堵し、何気なく傍らのゴミ箱を見た。既視感から顔を上げて周囲を見渡し、そこがいつか、凍えて蹲り秋夜を明かした場所だと気がついた。
立ち止まった時生は、その先の角を見る。
「時生?」
不思議そうな声を出して、澪が歩みよってきて、時生の手を握った。慌てて微笑を返す。すると澪は、首を傾げてから小さく頷き、再び澪が歩き出す。そして澪が角を曲がる内、時生はやはりこの路地だったとはっきりと思い出した。
思わず瞬きをしてから左右に視線を走らせる。
すると追いついてきた偲が、隣に並んだ。
「大丈夫か?」
いつかと同じ、そうだ――出会った時と全く同じ、心配そうな偲の声が響いたものだから、心臓を手で触れられたかのような感覚になり、時生はビクリと肩を跳ねさせる。
「は、はい」
「どうかしたのか? 驚いたような顔をしているが」
偲はそう言うと、隣で時生に向き直り、少し屈んで時生の顔を覗きこむ。
「あ、その……――その、ここで偲様に、最初に声をかけて頂いたように思ったんです。熱で朦朧としていたので、自信があるわけではないのですが」
時生が苦笑交じりにそう言うと、姿勢を正した偲が、周囲に視線を向けた。
それから目を細めて笑うと、何度か頷いた。
「ああ、確かにこの場所だった。忘れていた。もうずっと時生は、昔から家にいた気になっていたが……そうだったな。ここで俺が声をかけたんだ。あの日、熱を出していたんだったな」
「本当にありがとうございます。偲様がいなかったら、今頃僕は……何も出来ないままでした」
「いいや。確かに病には対処はいるが、きっと時生は、俺がいなくても立ち上がっていたさ。俺が知る時生はとても強い。秋からのたった少しの間で、俺はそれを知ったぞ? 違うか?」
優しい偲の声に、時生が照れくさくなって頬に朱を差すと、握っていた手を離して、澪が時生の体に抱きつく。
「違わないぞ! おれも知ってるもん!」
「そうだな。澪も俺も知っているのだから、時生は自信を持つといい、もっとな」
偲の声と澪の温度に、嬉しくなって、それを噛みしめるような顔で時生は俯く。
あの日、ずっと下を向いて歩いていたのは、ただ未来が視えない失望からだったが、今は違う。幸せが愛おしくて、胸が溢れて、潤みそうになる瞳を見られたくなかったからだ。
「あ! 凧だ!」
その時、澪が時生から腕を放して、走り出した。
慌てて時生が目を開くと、不意に偲が、時生の手を握る。
「追いかけなければ。元気がいいのは良いことなんだが」
そう言って偲が歩き出す。
手を引かれた時生は、最初は目を丸くしていたが、手を握り直し、笑顔で頷く。
「そうですね。澪様が行ってしまう前に。今、偲様が僕の手を引いてくれて――いいえ、あの日からずっと道を、未来を示し導いてくれているように、僕も今度は自分で道を築いて、それが澪様の道標になるように、もう少しの間、先を走りたいと思っているんです」
時生の声に、偲が両頬を持ち上げる。
「もう時生は俺よりも先にいる部分が多く、とうに道の築き方を知っているとは思うが――ならば、競争するとしようか」
「え?」
「澪の、いいや子供達の、そしてこの帝都、ひいては国の未来の導き手となるよう、自分達で幸福を掴むレースだ。レースというのだろう? 競争のことを。澪と読んだカタカナ語辞典に記されていた」
「っ」
「澪と時生が優しさの一番を目指すというのならば、俺達は――幸せな未来を切り開く導き手になる勝負をしよう。そして、必ずまずは真っ先に、自分達自身で幸せになってみせよう。俺達にならば、それが出来る」
偲はそう言うと、ギュッと時生の手を握り返しながら、前を見た。
「こら、澪! 先に行ってはダメだと言っているだろう!」
それを一瞥し、時生は頷きながら、早足になった偲に追いつく。
「この前の書き初めの時の、僕と澪様のお話、聞いていらしたんですね?」
「ああ。だが、今回は扉を開けずに、静かにしていた」
「む、寧ろ入ってきて下さったら――」
「いや、な? 澪と時生があまりにも親しいものだから、妬けてしまってなぁ」
クスクスといつかのように笑ってから、偲がさらに速度を早める。いつもは時生に歩く速度をあわせてくれる事が多い偲だが、時生はそれをよしとせず、自分もまた足に力を込め、横に並ぶ。並んでいたいという想いが、確かにそこにあったからだ。もう、動けず抱き留められるだけの己ではない。
「澪様! 待って下さい!」
声を上げて、時生は偲とともに澪を追いかける。
どこまでも、二人の影は、歩道に伸びている。本日はよい日射しだ。
大正四十六年、一月。
時生の手は、もうかじかんではおらず、とても温かかった。
一緒に来た時生は、澪が駆けていくのを慌てて追いかける。そして澪が立ち止まって、悪戯っぽく笑ったのを見て安堵し、何気なく傍らのゴミ箱を見た。既視感から顔を上げて周囲を見渡し、そこがいつか、凍えて蹲り秋夜を明かした場所だと気がついた。
立ち止まった時生は、その先の角を見る。
「時生?」
不思議そうな声を出して、澪が歩みよってきて、時生の手を握った。慌てて微笑を返す。すると澪は、首を傾げてから小さく頷き、再び澪が歩き出す。そして澪が角を曲がる内、時生はやはりこの路地だったとはっきりと思い出した。
思わず瞬きをしてから左右に視線を走らせる。
すると追いついてきた偲が、隣に並んだ。
「大丈夫か?」
いつかと同じ、そうだ――出会った時と全く同じ、心配そうな偲の声が響いたものだから、心臓を手で触れられたかのような感覚になり、時生はビクリと肩を跳ねさせる。
「は、はい」
「どうかしたのか? 驚いたような顔をしているが」
偲はそう言うと、隣で時生に向き直り、少し屈んで時生の顔を覗きこむ。
「あ、その……――その、ここで偲様に、最初に声をかけて頂いたように思ったんです。熱で朦朧としていたので、自信があるわけではないのですが」
時生が苦笑交じりにそう言うと、姿勢を正した偲が、周囲に視線を向けた。
それから目を細めて笑うと、何度か頷いた。
「ああ、確かにこの場所だった。忘れていた。もうずっと時生は、昔から家にいた気になっていたが……そうだったな。ここで俺が声をかけたんだ。あの日、熱を出していたんだったな」
「本当にありがとうございます。偲様がいなかったら、今頃僕は……何も出来ないままでした」
「いいや。確かに病には対処はいるが、きっと時生は、俺がいなくても立ち上がっていたさ。俺が知る時生はとても強い。秋からのたった少しの間で、俺はそれを知ったぞ? 違うか?」
優しい偲の声に、時生が照れくさくなって頬に朱を差すと、握っていた手を離して、澪が時生の体に抱きつく。
「違わないぞ! おれも知ってるもん!」
「そうだな。澪も俺も知っているのだから、時生は自信を持つといい、もっとな」
偲の声と澪の温度に、嬉しくなって、それを噛みしめるような顔で時生は俯く。
あの日、ずっと下を向いて歩いていたのは、ただ未来が視えない失望からだったが、今は違う。幸せが愛おしくて、胸が溢れて、潤みそうになる瞳を見られたくなかったからだ。
「あ! 凧だ!」
その時、澪が時生から腕を放して、走り出した。
慌てて時生が目を開くと、不意に偲が、時生の手を握る。
「追いかけなければ。元気がいいのは良いことなんだが」
そう言って偲が歩き出す。
手を引かれた時生は、最初は目を丸くしていたが、手を握り直し、笑顔で頷く。
「そうですね。澪様が行ってしまう前に。今、偲様が僕の手を引いてくれて――いいえ、あの日からずっと道を、未来を示し導いてくれているように、僕も今度は自分で道を築いて、それが澪様の道標になるように、もう少しの間、先を走りたいと思っているんです」
時生の声に、偲が両頬を持ち上げる。
「もう時生は俺よりも先にいる部分が多く、とうに道の築き方を知っているとは思うが――ならば、競争するとしようか」
「え?」
「澪の、いいや子供達の、そしてこの帝都、ひいては国の未来の導き手となるよう、自分達で幸福を掴むレースだ。レースというのだろう? 競争のことを。澪と読んだカタカナ語辞典に記されていた」
「っ」
「澪と時生が優しさの一番を目指すというのならば、俺達は――幸せな未来を切り開く導き手になる勝負をしよう。そして、必ずまずは真っ先に、自分達自身で幸せになってみせよう。俺達にならば、それが出来る」
偲はそう言うと、ギュッと時生の手を握り返しながら、前を見た。
「こら、澪! 先に行ってはダメだと言っているだろう!」
それを一瞥し、時生は頷きながら、早足になった偲に追いつく。
「この前の書き初めの時の、僕と澪様のお話、聞いていらしたんですね?」
「ああ。だが、今回は扉を開けずに、静かにしていた」
「む、寧ろ入ってきて下さったら――」
「いや、な? 澪と時生があまりにも親しいものだから、妬けてしまってなぁ」
クスクスといつかのように笑ってから、偲がさらに速度を早める。いつもは時生に歩く速度をあわせてくれる事が多い偲だが、時生はそれをよしとせず、自分もまた足に力を込め、横に並ぶ。並んでいたいという想いが、確かにそこにあったからだ。もう、動けず抱き留められるだけの己ではない。
「澪様! 待って下さい!」
声を上げて、時生は偲とともに澪を追いかける。
どこまでも、二人の影は、歩道に伸びている。本日はよい日射しだ。
大正四十六年、一月。
時生の手は、もうかじかんではおらず、とても温かかった。
12
お気に入りに追加
118
あなたにおすすめの小説
ブラックベリーの霊能学
猫宮乾
キャラ文芸
新南津市には、古くから名門とされる霊能力者の一族がいる。それが、玲瓏院一族で、その次男である大学生の僕(紬)は、「さすがは名だたる天才だ。除霊も完璧」と言われている、というお話。※周囲には天才霊能力者と誤解されている大学生の日常。
羅刹を冠する鬼と狐
井上 滋瑛
キャラ文芸
帝国華羅に羅刹院という、羅刹士を束ねる特殊組織があった。
帝国公認でありながら干渉を受けず、官民問わない依頼と契約、その遂行を生業とする。
その依頼内容は鳥獣妖魔の討伐から要人警護、更には暗殺まで表裏問わず多岐に渡る。
ある日若手羅刹士の遼経が依頼を終えて拠点に戻ると、かつて妖魔が支配していた都市、煥緞が妖仙の兄弟によって陥落された事を知る。
妖仙の狙いはかつて煥緞に眠っていた古代霊術だった。
一度はその討伐参加を見送り、元担当院士の玉蓮と共に別なる古代霊術の探索に出発する。
かつて古代霊術が眠っている遺跡発掘の警護中に殉職した父。
古代霊術の権威であった大学院の教授の警護中に失踪した恋人。
因果は巡り、自身の出生の真実を知らされ、そして妖仙の兄弟と対峙する。
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
あやかし雑草カフェ社員寮 ~社長、離婚してくださいっ!~
菱沼あゆ
キャラ文芸
令和のはじめ。
めでたいはずの10連休を目前に仕事をクビになった、のどか。
同期と呑んだくれていたのだが、目を覚ますと、そこは見知らぬ会社のロビーで。
酔った弾みで、イケメンだが、ちょっと苦手な取引先の社長、成瀬貴弘とうっかり婚姻届を出してしまっていた。
休み明けまでは正式に受理されないと聞いたのどかは、10連休中になんとか婚姻届を撤回してもらおうと頑張る。
職だけでなく、住む場所も失っていたのどかに、貴弘は住まいを提供してくれるが、そこは草ぼうぼうの庭がある一軒家で。
おまけにイケメンのあやかしまで住んでいた。
庭にあふれる雑草を使い、雑草カフェをやろうと思うのどかだったが――。
伊賀忍者に転生して、親孝行する。
風猫(ふーにゃん)
キャラ文芸
俺、朝霧疾風(ハヤテ)は、事故で亡くなった両親の通夜の晩、旧家の実家にある古い祠の前で、曽祖父の声を聞いた。親孝行をしたかったという俺の願いを叶えるために、戦国時代へ転移させてくれるという。そこには、亡くなった両親が待っていると。果たして、親孝行をしたいという願いは叶うのだろうか。
戦国時代の風習と文化を紐解きながら、歴史上の人物との邂逅もあります。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
腐れヤクザの育成論〜私が育てました〜
古亜
キャラ文芸
たまたま出会ったヤクザをモデルにBL漫画を描いたら、本人に読まれた。
「これ描いたの、お前か?」
呼び出された先でそう問いただされ、怒られるか、あるいは消される……そう思ったのに、事態は斜め上に転がっていった。
腐(オタ)文化に疎いヤクザの組長が、立派に腐っていく話。
内容は完全に思い付き。なんでも許せる方向け。
なお作者は雑食です。誤字脱字、その他誤りがあればこっそり教えていただけると嬉しいです。
全20話くらいの予定です。毎日(1-2日おき)を目標に投稿しますが、ストックが切れたらすみません……
相変わらずヤクザさんものですが、シリアスなシリアルが最後にあるくらいなのでクスッとほっこり?いただければなと思います。
「ほっこり」枠でほっこり・じんわり大賞にエントリーしており、結果はたくさんの作品の中20位でした!応援ありがとうございました!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる