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―― 序章 ――

【002】ひもじさ

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 俯きながら廊下を歩き、松子の部屋の前に立った時生は、瞳に悲しい色を浮かべたまま、扉をノックした。すると『早く入るように、愚鈍なのね』と声がかかる。

 扉をゆっくりと開いて中を覗くように見てから、時生は室内に入った。

「時生さん。誰が家の中へ入ってよいと言ったのですか?」
「その……」
「言い訳は結構。言いつけを守れなかった罰を与えます。貴方の母代わりとして、躾をするのは当然のことですから」

 松子はそう言って立ち上がると、時生の前に立ち、平手で時生の頬を打った。
 二度、三度。
 痛む頬が、次第に腫れ上がっていく。衝撃に歯を食いしばり、震えそうになるのを、拳を握ってなんとか堪える。ひとしきり時生を殴ってから、松子は満足した様子で言う。

「さぁ、早く仕事に戻りなさい。貴方は使用人以下の身分なのですから。ああ、汚らわしい。貴方が高圓寺の血を引いていると思うと嘆かわしくて……いいえ、どうでしょうねぇ。時生さんには、なんの力もないのだから。旦那様の子と嘘偽りをあの女が述べたのかもしれないわ」

 そこからは散々時生の母への呪詛を吐き、そして松子は時生を部屋から追い出した。
 時生は痛む頬に手を添えながら、厨房へと向かう。
 本日は、料理の担当だ。
 炊事、洗濯、掃除、なにもかもが、時生の仕事だ。使用人達にも蔑まれながら、それらを手伝い、時に押しつけられている。気づけば時生は、家事が万能になっていた。



 そんな日々が、次の春も、夏も、秋も、そして再び廻ってきた冬も、次の四季もと続いていき、大正五十年となった。

 初秋、時生は二十歳の誕生日を迎えた。
 誰も己の生まれた日など記憶していないだろうと思っていたら、勝ち誇ったように松子が時生の正面に立った。

「貴方もついに成人ですね。さぁ、出て行きなさい。もう面倒を見てやる義理などないわ。旦那様もご承知の上です。貴方の顔を二度と見なくていいと思うとせいせいします」

 そうして、時生は突き飛ばされた。地面に尻餅をつく。すると見に来たらしい裕介が、何度も靴で時生の体を蹴りつけた。痛みに体を折り曲げて、必死で頭を庇っていると、丁度馬車が停まる音がした。涙が滲む瞳でそちらを見ると、父が降りてきたところだった。

「ああ、今日出て行くのだったな」

 まるで虫螻を目にしたような眼差しで、父は時生にそう述べた。
 そのまま邸宅の中へと入っていく。松子はそれに従った。
 残った裕介は、ニヤニヤと笑いながら、最後に一際強く時生を蹴りつけ、家の中へと入っていった。こうして、時生は家を失ったのである。具体的には、屋根がある眠る場所、残飯しか渡されていなかったとはいえ、食事もまた無くなってしまった。

 体の痛みを堪えて立ち上がり、とぼとぼと時生は歩きはじめる。
 家の外に出たことは、ほとんどない。
 だから道もわからないまま、適当に進み、角を曲がった。この日はその繰り返しで夜になり、秋夜の寒さに身を震わせ、両腕で体を抱きながらゴミ箱の隣に蹲って、時生は眠った。

 それから、三日。
 路上で眠り、食事は一度も食べていない。服は汚れ、ボロボロだ。喉がカラカラに渇いている。たまりかねて朝露がついた草を舐めたのは、一時間前だ。空腹感は既に無い。お腹が空きすぎて、感覚が麻痺してしまったらしい。そんな生活をしていたのだから当然なのか、風邪を患ったようで、目眩がし体が熱っぽい。

 それでもふらふらと歩いていた時生は、ついにぐらりと倒れそうになった。
 そうに、というのは、誰かに抱き留められたため、そうはならなかったということだ。
 ずっと下を向いて歩いていた時生は、驚いて顔を上げる。

 すると帝国の軍人が立っていた。軍服を着ているから、一目で分かる。鴉の濡れ羽色の髪と目をしている。

「大丈夫か?」
「あ……はい……」

 声をかけてきた軍人は、片腕で時生を支えながら、もう一方の手で時生の額に触れた。そして目を眇める。

「酷い熱じゃないか」
「……」
「俺の家はすぐそこだ。休んでいくといい」

 その言葉を、確かに三半規管は受け止めたはずなのだが、声が遠くに聞こえるようになり、時生は理解できなかった。気づくとそのまま、意識を取り落としていた。
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