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―― 本編 ――
第7話 長女
しおりを挟む銀杏が色づく季節が訪れた。赤と黄色の紅葉を眺める頃、山縣は庭を見ていた。直接、どこに何を置くかと話し合う。欧化政策が進められようとしている中にあって、山縣の庭は、日本の古来からの美を保とうとしていた。
ただ、人力の俥を使う機会よりも、馬車を使う機会が増えつつある。元来山縣は自分で馬に乗っていたものだが、最近では陸軍卿の出迎えに人々が訪れる。
山縣を見送ってから、丸みを帯びてきた腹部を撫でながら、この日友子は空を見上げていた。陽光が雲の輪郭を際立たせている。白い雲が空を染めていて、お世辞にも晴天だとは言えない。しかしその曇天が、紅葉の色を、より綺麗に感じさせる。日差しも白い。
「旦那様は、何時頃お戻りになられるのかしら」
呟くようでもあったが、内心では宿った子に語りかけていた。
「早くお父様がお戻りになると良いわね」
桜色の着物姿で、腹部を優しく撫でながら、友子は家の中へと戻った。早く生まれてきて欲しいという思いが強いが、先に亡くした子供達の事を考えると、不安もある。また失ってしまったらと考えると、胸が痛い。
ただ、山縣との愛の証が欲しいと願ってしまう。
無論、跡取りを設けなければならないという使命感もある。それが嫁の務めだ。
「旦那様も、妾の一人でもお持ちになっていたら、話は違いますのに……」
そう口にした後、ふるふると友子は首を振った。男の甲斐性だとは言うが、友子は山縣に自分だけを見て欲しかった。小さな独占欲が顔を出す。ただ、山縣が浮気をした事は無いので、あまり現実感を伴わない、漠然とした子供じみた、可愛い嫉妬心である。
幕府時代には決して珍しく無い年の差とはいえ、幼妻と称された事もあった。
大人な山縣が、自分よりも大人びた女性を好く可能性を考えて、時々友子は俯く。時が流れるのは、早いのか遅いのか分からない。成長しているのは間違いないのだが、己には色気が足りないように、友子は感じる事がある。
いいや、逆だ。夫である山縣に、色気があるのだ。男らしく、格好良い……妻の贔屓目かもしれなかったが、友子はそう確信していた。あの山縣が、女性に好かれないとは思えなかった。なのに現在は、自分だけを見てくれる。
「旦那様は、本当に優しいお方です」
思わずニコニコとしてしまう。それから戻った居室で、友子は立てかけてある西洋の絵画を見た。山縣が、遊学の土産に買ってきてくれた品である。そばには、小鳥が入った籠もある。こちらも山縣からの贈り物だ。西洋風の椅子に座ると、少し足が浮いた。
友子から見ると、山縣は非常に優しかった。亭主関白な一面が無いとは言わないが、それは多くの男性と変わらないだろう。寧ろその中にあっては、友子と共にいる時の山縣は穏やかで温かい。何かと気にかけてくれる。
「理想の旦那様過ぎます……私にはもったいないけど、私だけの人!」
口にしたら、恥ずかしくなって、目をきゅっと閉じて頬を赤らめる。
友子は、山縣の眼差し、香り、仕草、そのどれを一つ取っても好きだった。
艶やかな山縣の黒い髪が揺れ、その瞳が自分を捉える時には、いつでも出会ったばかりの頃の、少女だった時と同じ気持ちで、トクンと胸が疼く。山縣を見ていると、群青色の夜空を、友子はいつも思い出す。精悍な顔立ちの山縣には、夜空と星がよく似合う。
そこに女中の高乃《たかの》がお茶を運んできた。高乃は、山縣家に仕えて長い女中であり、二人が結婚した当初から側にいる。五十代半ばで、丁度友子の倍ほど生きている。
「本当に仲睦まじくて、高乃は嬉しゅうございますよ」
「聞いて。子供が無事に産まれたらね、みんなでお散歩をする事にしたのよ」
嬉しそうな友子を見て、高乃が優しい瞳をする。山縣邸の日中は、このようにして穏やかに流れている。山縣が友子の内心を知ったならば、浮気など杞憂だと切り捨てたに違いない。
その頃、山縣は昼食の席で、伊藤に声をかけられていた。
「山縣君、次の土曜日も、『例のお店』で」
「――ああ……いや、悪いが次の土曜は、家で用事がある」
「用事?」
「庭の件でちょっとな」
「ふぅん。じゃあ次に空いている日は?」
「そうだなぁ」
「さすがに、次の次の土曜日は空いているよね?」
「空ける事は出来る」
脳裏で庭いじりについて考えている山縣は、珍しく、心ここにあらずといった瞳をしていた。伊藤はそんな山縣に微苦笑しながら、この日も富貴楼へと誘った。
そうしてその後――無事に友子は元気な子供を産んだ。神社へとお参りに行き、帰宅する。幼子を抱き抱えているのは山縣で、一歩後ろに友子が立つ。馬車から降りて邸宅に入った三名を、高乃を始めとした使用人達が恭しく出迎えた。
この日の山縣はきっちりとした紋付を羽織っていて、友子は浅葱色の和服を纏っている。
それから三人で居室へと向かうと、山縣が直接指揮をして造園した、美しい庭が見えた。既に、春だ。
薄紅色の花が烟るような庭を見て、甘い花の香りが匂い立つように友子は感じた。池の方を眺めて山縣もまた風流だなと満足げに頷く。山縣は自分の膝の上にのせた我が子の髪を、優しく撫でた。愛でる父の優しげな瞳を前に、長女はすやすやと寝ている。
冬は一瞬で通り過ぎてしまったかのようだった。
「可愛いな」
山縣が長女の頬に、人差し指で優しく触れる。隣から覗き込んだ友子も、大きく頷いた。幸い産後の肥立ちも良く、母子ともに健康だ。それから、山縣は高乃に娘を優しく渡した。そして、夫婦二人で、横長の椅子に揃って座る。横浜から買ってきた品だ。山縣は椅子の上に置いた手で、静かに友子の手を握る。すると友子の頬が桜色に染まった。照れくさいのもあって、山縣は何も言わない。
「元気に育つだろう、きっと」
「――ええ。私、頑張ります」
「お前は、いつも頑張っている」
「旦那様ほどでは、ございませんもの」
そんなやり取りをしてから、二人は顔を見合わせて、互いに穏やかに笑った。
次に山縣が富貴楼を訪れたのは、初夏の事である。長女が生まれた事で私生活に変化があり、仕事と家の往復で時が流れていた。既に、最初に富貴楼へと足を踏み入れてから、一年以上が経過している。
「幸せそうだねぇ」
この日も山縣を誘った伊藤は、窓辺に立つとシャツのボタンを緩め始めた。本日はほぼ同時に富貴楼へと到着した。列車が一本違ったのだが、珍しく山縣の方が先についた。山縣は和服だ。ただ、最近では、シャツを着用する機会が増えてきた事は、身に染みて感じていた。座っている山縣の前で、構わずに伊藤は浴衣へと着替える。芸妓達が手を貸した。
「友子に似て、大きな目をしていてな。つむじは俺にそっくりなんだが」
「美人に育ちそうだねぇ」
「変な虫がつかない事を祈る」
その後は二人揃って、酒盃を手にした。久方ぶりに姿を見せた山縣を見て、酌をしている三津菜は嬉しそうに目を細めているし、そんな彼女を見て、伊藤に酌をしている小波も優しい顔をしている。しかし山縣はその事実には気づかない。
――山縣は、非常に幸せだった。
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