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―― 本編 ――
第2話 十三歳差の愛する妻
しおりを挟む――数日後。
山縣は、執務室にいた。西洋風の室内で、飴色の執務机の前に座っている。この建物は、形から入ろうとでも言うかのように、どこを切り取っても、西洋風である事を良しとする。山縣は、それが嫌いでは無かったが、特別好きでも無かった。
時代が変わったと視覚的に説明する上では、新しい品を用いる事は有用だろう。
しかし普段着は専ら和装であるし、若かりし頃に染み付いた天保時代からの香りを取り去るのは困難だ。
「和服、か」
何気なく呟いたのは、つらつらと考えていた時に、脳裏を富貴楼が過ぎったからである。不思議な一夜だった。あの日は結局、伊藤とは有意義な話は出来なかった。かと言って女性を買ったわけでもなく、山縣は就寝して翌朝帰宅した。
本日は、真っ直ぐ家に帰ろうと考えて、山縣は立ち上がる。首元を手で撫でてから、部下と言葉を交わし、執務室を出た。その後は馬に乗り、帰路へとつく。ゆっくりと進む馬の上から、落ちていく陽を眺めていた。
「おかえりなさいませ」
帰宅すると、妻の友子が出迎えた。柔らかな輪郭をしている友子は、帰ってきた山縣を見ると、両頬を持ち上げる。向日葵を彷彿とさせる明るい笑顔が、山縣は好きだった。
友子は山縣と同じ長州の生まれで、庄屋の娘である。生まれた時より、山縣よりも裕福だった。彼女の父は当初、山縣を『貧乏侍』と呼んでいたほどである。
「ただいま」
出会いは、小川のほとりだった。緑に朱を刺したような色の小鳥が木に止まるのを、何気なく目で追っていた山縣の視界に、彼女が入った。丁度友子は、幹に背を預けて、そこにいたのである。彼女は、泣いていた。
山縣は焦った事を、今でもよく覚えている。泣いている少女を見ると、まるで自分が泣かせてしまったかのような焦燥感に駆られた。最初は、放っておこうかとも考えた。踵を返そうかと悩んだ。しかし泣いている女子供を放置するのは、武士道に反するようにも思う。だが、身持ちの固い山縣は、それまでの間に、女性を慰めた経験など無かった。
だからただ静かに歩み寄り、ぎこちなく笑ってみせた。精一杯の笑顔だ。そして何を言うでもなく、そばに佇んでいた。すると友子は驚いたような顔をした後、次第に泣き止み、ポツリポツリと語り始めた。父と喧嘩をしてしまったのだと、山縣に話した。
それを聞きながら、もう泣き顔は見たくないと思った。自分の手で、笑顔にしてあげたいと感じたのが、恋の始まりだった。
最初は断られた結婚が認められた時、山縣は友子が己を覚えているか気になっていたのだが、彼女は山縣を見ると懐かしそうな笑顔を浮かべた。山縣が見たかった笑顔だ。数年を経て、少女らしさの上に大人びた艶を持つようになっていた友子の表情に、山縣は胸を抉られるような衝撃を受けたものである。
今、隣にいる事が、幸せでならない。
「夕食のお時間ですね」
友子が小さく振り返り、大きな柱時計を一瞥した。
もうすぐ七時だ。
山縣の生活のリズムは、非常に規則正しい。決まった時間に起き、食べ、働き、眠る。夕食は、火急の仕事でも無い限りは、常に夜の七時と決まっていた。作るのは、使用人だ。山縣邸には、相応の人数の使用人がいる。しかし食事や生活自体は非常に質素だ。
「今夜は、何だ?」
「鰯《イワシ》と聞いています」
白身魚の味を思い出しながら、山縣は頷いた。歩き始めた山縣の、一歩後ろを友子が着いてくる。二十三歳になった友子は、より大人びて色っぽくなった。落ち着いて共に暮らす事が出来るようになったのが、四位合わせだ。明治維新が終わるまで、そしてその後の山縣の遊学中も、離れて暮らした。本当にゆっくりと過ごす事が出来るようになったのは、ここ最近だと言える。
――これまでの期間に、夫婦は二人の子を失った。長男、次男……それを思うと、山縣の胸はいつも痛む。ちらりと山縣は友子を見た。明るく笑っているが、子供達が病死した時は、涙を静かに零していた。あれほど悲しませたくないと感じて、恋に落ちたというのに。その辛さを押し殺して笑う妻が、愛おしくも寂しく思えた。
「無理は無いか?」
山縣が食卓の席につきながら問うと、正面に座しながら小さく友子が頷いた。
「――あなた、報告があるんです」
「どうした?」
山縣が聞き返すと、照れくさそうに、嬉しそうに、友子がはにかんだ。
「子供が出来たみたいなんです」
「何? 本当か?」
それを聞いて、山縣は目を見開いた。それから破顔し、こちらも嬉しそうな表情へと変わる。
「そうか」
新しい家族が加わったという知らせに、山縣は幸せを噛みしめるように目を伏せる。同時に願う。今度こそ、長生きをしてくれるように、と。もう妻を泣かせたくなかったし、己も何も失いたくなかった。
体が弱い子ばかり生まれてくるのは、自分のせいだと山縣は考えている。友子は健康だ。だが、山縣は幼少時から病弱だった。今は随分と調子が良いとはいえ、時折頭痛に悩まされる事がある。
皮肉なもので、長く続いた戊辰戦争では、健康なものから亡くなった。山縣が命の危機を感じたのは、それこそ河井継之助《かわいつぐのすけ》との戦いの時くらいのものだ。今思い出しても、背筋が凍る。直接対峙したわけでは無かったが、河井の配下に急襲され、取るものも取らず逃げ出した事もあった。
――会津での戦争には、様々な記憶がある。会津という言葉を聞く時、山縣はいつも、嫌な血の臭いが蘇ってくる気がする。それは敵方が非道だったからではない。何よりも暗い気持ちにさせるのは、己の部下の所業だ。
無論、大切な親友や仲間を奪った会津は憎い。だが――……。
「あなた? どうかしました?」
「あ、いや」
山縣は、友子の声で、思考を打ち消した。今は明るい話題の席だ。暗い過去は決して忘れてはいけないものであるが、何もこの場で考える事でも無いだろうと、山縣は思い直す。
「名前を決めなければな」
「ええ」
「待ち遠しいな、早く顔が見たい」
「私も。生まれて、春になったら、旦那様と三人でお日様に当たりたいです」
明るい笑顔で友子が言った時、山縣ははたと思い出した。
山縣が瞳を輝かせた。どこか子供っぽいその光を見て、友子が小さく吹き出す。山縣の趣味の一つが造園である事を、彼女はよく知っている。山縣は他には、和歌も趣味だ。結婚してから、友子も和歌をよく詠むようになった。愛する夫の好きなものを、自分でも嗜んでみたかったというのが動機だ。
山縣は妻を愛しているが、友子もまた夫を愛してやまない。
友子も、山縣同様、出会った日の事を、鮮明に覚えている。あの日は、山縣が大人にしか見えなかった。とても大きく見えた。結婚してから、少しずつその距離が縮まっていると信じたいが、己はまだまだ子供である気がする。山縣の隣に並んではずかしくない淑女になりたいと望んでいるが……元々、友子は少しだけドジな部分があると自覚していた。
それでも精一杯、山縣の妻であろうと努力している。
山縣には、その姿も愛らしく映っている。
その後はたわいもない話をしながら、二人で食事を楽しんだ。
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