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chapter:裏 …………ローラの苦悩…………
【10】異常事態
しおりを挟む――ん?
僕は、マッサージの予約名簿を確認しながら、思わず振り返った。
強い思念を持つ人物が、店に近づいて来るのが分かる。
この”頭の中の思考の色”とでもいうのか、感情の気配は、間違いなく藍円寺さんだと僕には分かった。もう慣れているからだ。僕には、その思考が、色や音、特に内心の感情に関しては、本人の声などで、読み取れたり出来るから、過去に見たことがある相手――それも藍円寺さんくらい頻繁に会う相手の事なら、すぐに分かる。
だから今も、すぐに近づいて来るのが藍円寺さんだという事は、分かった。
すぐに、といっても――不可思議な気配がしたから、『探ってから、すぐに』だ。
死ぬほど真剣に、仏教のいずれかの宗派の経文らしきものを脳裏で暗唱しながら、時折巨大な青にも白にも見える仏像を思い浮かべて、ひたすら悟りを開く道を考えている風の、何やら敬虔な宗教家が歩いてくるように思ったから、僕は首を捻ったのである。
それが、誰かと思って透視してみたら、藍円寺さんだった。
唖然とするなという方が無理だった。
え?
表情はいつもと変わらない。肉食獣のような切れ長の艶ある黒い瞳に、しっとりとした絹のような黒髪で、堂々と道を歩いている。いつもは私服だが、本日は和装に袈裟を身に付け、錫杖を手にしている。長い念珠を首から下げ、手首にも翡翠色の数珠がある。
大抵の場合、こういった外見で――藍円寺さんの頭の中は、僕から見ると臆病なヘタレというか、なのに時には、能天気なお花畑というか、まぁ見た目の怖さとは違い、悪い人ではない。
だけど――僕は、藍円寺さんが、熱心にお経に思いを馳せているような思考を読んだ事は、一度もない。過去に一度もだ。お化けが怖いとして必死に思い出そうとするも、頭が真っ白になっている姿は何度か見たけどね。
服装的に仕事帰りかもしれないし、何かあったのかな?
いいや、進行方向的に、これから出かける所かな?
そう考えていると――店の扉が開いた。
僕はこれにも驚愕した。
僕は、藍円寺さんが、ローラにベタ惚れだと知っている(心を読んだから)!
そのため、藍円寺さんは恥ずかしがり屋さんなので、普段であれば、店に近づくにつれて、来店時は、完全にピンク色の幸せそうな思考が広がるから、すぐに分かる。しかし今日の藍円寺さんは、ローラの事など、一切思い浮かべず、肩こりについてすら考えず、ひたすら経文らしき何かを思い浮かべたまま、店に入ってきたのである。
異常事態だ……。
驚きつつも、僕は声をかけた。
「いらっしゃいませ」
入ってきた藍円寺さんの表情は、いつもと変わらない――ようにも思えるが、いつもよりも険しく見える。どことなく表情が硬い。気合いを入れて引き締めているように見える。鋭い眼光で僕を一瞥し、虫けらを蔑むように、小さく目を細めた。
が、大体こういう顔をしていても、これは上辺であり、見た目で、中身は違うのが、藍円寺さんだ。しかし傍から見ている分には、この外見だったら、真面目にお教や仏像について考えている方が、しっくりくるだろう。
しかし、和服はそそるなぁ……僕は再びうっかり、フェチズムに目覚めかけた。
長身で均整の取れた体躯の藍円寺さんは、除霊のバイトが夕方から夜にかけてが多いせいなのか、色白だ。長い首筋の白い肌が、和装だとよく見える。ローラではないが、艶があるのは僕にも分かる。圧倒的な存在感があって、他者を寄せ付けないような空気を放っている獰猛そうな藍円寺さんは、まぁ端的に言えば、男前だ。
実際、ローラの顔目当てで通ってくる女の子のお客様も最近ちらほらいるのだが、彼女達は藍円寺さんが入ってくると、チラチラと待ち時間に視線を向ける。ローラはそれが気に入らないらしく、見かけるたびに、強制的に帰していて、以後僕は姿を見ないから、多分出禁にしているのだろう。多分、藍円寺さんの外見が、あそこまで怖くなければ、とっくに童貞ではなかっただろうな。本人にその気がなくても、眼光が鋭すぎる。上目線でとにかく偉そうな俺様にしか見えない。そう考えながら、僕は藍円寺さんへと続けた。
「cafeですか? マッサージですか?」
まぁ、どうせマッサージだろうけど。
「カフェで」
「え!?」
その時帰ってきた、驚くべき返答に、僕は思わず声を上げた。藍円寺さんが、これまでにお茶をこの店で飲んだことなど、一度もない。改めて藍円寺さんを見てみるが、確かに今日はそんなに浮遊霊のようなものは、体にまとわりついていない。
しかし、いつもと違う完全和装で、寺から出てきて、ちょっとお茶をするのに、ここを選ぶか? ありえない。仕事前の緊張をほぐすつもりだとか? ローラを眺めて?
考えていると、藍円寺さんが、ジロリと僕を見た。人間ならば、威圧感を覚えたかもしれないが、僕には奇妙にしか思えない。
「ど、どうぞ」
促しつつ、僕はもうひとつの事に焦った。誰もお茶を飲んでいかないので、最近では用意すらほぼしていないのだ。今冷蔵庫にあるのは、朝僕が飲んだオレンジジュースと、火朽さんが置いていった缶コーヒーのみだ。砂糖とミルクは、オープン時に用意したから無駄にあるけど。
しかしメニューにその二つしかなくても良いんだろうか?
だが、ないものはないんだから、ないのだ。
僕は、手書きでメニューを用意し、紙だけ差し替えて、藍円寺さんに差し出した。
「珈琲を」
すると藍円寺さんが、目を細めてそう言った。選択肢が一つしかないというような眼差しで、この店を見限るかのような顔に見えたが、僕は気のせいだと知っている。
「お砂糖とミルクはどうなさいますか?」
「不要だ。必要なように見えるのか?」
冷淡な藍円寺さんの声に、僕は吹き出しそうになったが、頷いて下がった。
僕には必要にしか見えない。だって藍円寺さん、ずっとオレンジジュースばっかり見ながら、嫌そうに珈琲を頼んだのが、心を読むまでもなく理解できる。藍円寺さんは、見栄っ張りなのだ。特にローラの前だと、格好良くいたいらしい。
しかし念のため、心も読んだ。だが、この時も――経文が再生されていた。
まさかいきなり藍円寺さんが、僧侶として何かに目覚めたという事はないだろう。
そう考えつつ、僕は、他の客を暗示で追い返し、喜々としてやってきたローラを見た。
それからローラは、マッサージの予約表を見て、何度か瞬きをした。
僕は藍円寺さんに、珈琲と、砂糖やミルクを出した後で、ローラに歩み寄った。
「今日はcafeだったから、まだ予約してないよ」
「――そうか。それにしても、あいつ、袈裟と錫杖? 仕事帰りか?」
「さぁ?」
寺からまっすぐこの店に来たのを僕は透視していたが、寺で仕事をしてきた可能性もあるし、僕は何も言わなかった。その後、藍円寺さんに会いたくて会いたくて仕方がなかったらしいローラは、予約もしていないというのに、珈琲を藍円寺さんが飲み終わった直後、強制的に暗示でマッサージ室へと招いた。
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