宰相閣下の絢爛たる日常

猫宮乾

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【3】勇者の魅力

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 僕は、呼吸が苦しくなって、宰相執務室の壁に背を預けて絨毯の上に座り込んだ。

 ――何なんだ、あの勇者は!

 召喚された初日に、神官長のスイと仲良くなり、国王陛下の心を魅了し、その他以下略城中の人々(男性)の心を会う度会う度籠絡していった勇者のことを思い出し、僕は憂鬱になった。

 疲労が募りすぎて、呼吸をする度に肺が痛む。ストレスで、ここの所喫煙量が一気に増えたからなのかも知れない。ヘビーを通り越し、まさしくチェーンスモーカーとなっている現在だ。宰相執務室にこれまで顔を出していたメンツも、一気に減った。レガシーすら、仕事に来ない。皆、勇者のご機嫌取りに必死なのだ。

「……なんだこれは」

 立ち上がる気力もないまま、僕は机の上に山積みになった書類の山を眺める。
 ――魅了チャームの威力は、確かに気づかなければ高威力だ(と聞いた事がある)。

 一種のマインド・コントロールである。

 しかも勇者アスカは、イケメン&実力者キラーだった。

 老若男女を問わず(いや、基本的に若い男か)、宮廷中の高名な者達を、片っ端から恋に突き落としているのである。すぐに防御結界を張らなければ、僕自身も危ない所だった。

 しかし結界さえ張り、防いでしまえば、何と言う事もない、防御が容易い魔術なのである。

 感情操作系や状態異常系の魔術というのは、正体さえ見破ってしまえば、そう扱いにくくはない魔術なのだ。ただし――それに気がつく事は、大変難しい。ようやく僕クラスの魔術師で、魅了の魔術が働いていると気がつける魔術なのだ。

 しかも想い人がいてすら、ぐらつかせるほどの効果があるらしい勇者の魔術に、既婚者や恋人がいる者まで問わず、現在では飲まれていっている。その上たちが悪いのは、勇者は、それを発動している事に無自覚な点だ。どうやら生まれもっての、能力であるらしい。

 ここまで来れば、最早一種の呪いだ。
 床を這うようにして、僕は執務机へと向かった。
 頭が痛くなってくる。

「……はぁ」

 噂では、執務室にこもりっきりの僕は兎も角、始めに出会った神官長のスイを筆頭にして、騎士・宮廷魔術師・議会議員・文官・侍従・四大侯爵家のその他の人間、以下略――男という男を籠絡しているらしい。

 治水工事の書類を一瞥しながら、もう三日弱寝ていない僕は目眩を感じた。

 女性には魅力魔術が効いていないらしいのが、せめてもの救いなのだろうが、この城は基本的に男社会であるため、どこかの仕事が滞れば一気に忙しくなるのは、この宰相府だった。腱鞘炎を起こしかけている手首を叱咤して、僕はそれでも書類に向かう。特に、勇者が王宮のすぐ側にいるため、文官達の仕事放棄率が半端無く、最高責任者である僕には休む暇がない。

「少し良いか?」

 その時ノックの音がして、声をかける前に、誰かが扉を開けた。

「――これはこれは、オデッセイ団長」

 顔を上げた僕は、騎士団長の姿に、細く息を漏らした。

「何か御用ですか?」

 どうせ魔術師ではないのだし騎士団長も、勇者の魔術に飲まれているのだろうと思いながら、立ち上がる。

「ああ。陛下の護衛の件で少しな」
「おかけ下さい」

 陛下の護衛の件――……ということは、ほぼ同じ意味で勇者の護衛に関する相談である。そう悟った僕は、コイツもかと辟易しながら、コーヒーの用意をした。

 僕が促したソファに座りながら、騎士団長が膝を組む。

「……顔色が悪いな」
「多忙極まりないからな」

 これはイヤミだ。
 今僕の所には、騎士団の仕事のしなささによるしわ寄せも来ている。
 どうせ恋だの愛だのと言ってコイツだって仕事をしていないのだろう。

 ただ、まさか気遣われるような事を言われるとは思わなくて、僕は苦笑してしまった。
 彼の正面にカップを置き、自分の分のコーヒーを手に、正面に座る。
 騎士団長に気遣われたのなんて、初めての事だった。

「ちゃんと寝ているのか?」
「本題を話せ。忙しいんだ」

 率直に僕が言うと、騎士団長が目を細めた。

「勇者が来てから、勇者がコンの側にいるため、接触する人数が増えた」

 コンというのは、陛下の愛称だ。
 さすがは陛下のご学友だけあり、親しい様子だ。

 顔を顰めてなお、むかつく事に端正な顔の騎士団長を見据え、僕は深々と背をソファに預ける。

「貴様も勇者を独り占めしたいがために、陛下と勇者を引き離そうとしているのか?」

 これまでに何人もの騎士が、僕に直接、勇者の護衛をすると申し出てきた(勿論、騎士団にそんな余裕はないだろうと言って、全て却下した)。

「なんだって?」
「だから、勇者の――」
「違う。俺は勇者のせいで、王宮の人員が、コンに集中しすぎているから、いっそ職務を放棄してアスカの元に入り浸っている連中を再編成し直して、国境警備をしている連中と入れ替えたいと思って、進言しに来たんだ」
「本気か?」

 僕は率直に首を傾げた。
 正面から見た騎士団長の顔は、真剣だった。

「国境警備の連中は、既に配偶者が居る年配の者が多い。現在こちらにいる騎士の内、勇者になびかなかった者も、彼ら同様四十五歳以上だ。恐らく、警備の騎士を戻しても、問題はそれ程起きないだろう」

 確かに国境警備には、手練れの者が出かけていることが多い。
 なんだかんだ言っても、人間相手の防御の方が、魔獣と戦う部署よりも気楽だからだ。
「四十五歳以上……」

 それが勇者の魅了の、一つの条件なのではないかと考えながら、僕は頷いた。

「承知した。入れ替えてくれ。編成の人員は任せる」

 そうは応えながらも、僕は意外に思った。
 これ程冷静に、騎士団長が事態を把握しているとは思わなかったからだ。

「――まぁ、恋敵が減れば、チャンスは増えるだろうしな」

 やはり騎士団長も、勇者に惚れてしまったのだろうと考えながら、呟く。

「……お前も、勇者に惚れた口か?」

 その言葉に、やはりそうかと思いながら、僕は右の口角を持ち上げた。

「まさか。あの勇者に惚れるくらいなら、サツマイモの天ぷらを食べてやる」

 僕は甘いのに、しょっぱいつゆにつけるあの料理が大嫌いだ。

「そちらこそ」

 促して、僕はコーヒーカップを傾けた。

「――俺には好きな奴がいる。だから勇者に惚れる事はない」

 しかしきっぱりと騎士団長が断言した。

 僕は思わずゆっくりと二度ほど、瞬きをした。お堅いと評判で、女性っ気の欠片もない騎士団長の口から、そんな事を聞くのは意外だったからだ。

「そうか。妙な事を言って悪かったな」

 小さく頭を下げる。

 確かに魅了魔術は、心から愛する人間がいれば、効かない場合もあると習った覚えがある。しかし余程強い鋼の意志の持ち主である事が条件らしいが。さすがは騎士団長ということか。

 なにせ、古代魔術の一つである魅了を跳ね返している、と考えれば尊敬するしかない精神力の強さだ。そもそも古代魔術であり、難易度が高すぎるから、使える人間は少ないのだが。思わずじっと見据えると、思案するような顔で尋ねられる。

「……本当に勇者に惚れていないのか?」
「まぁ見目麗しいとは思うぞ。明るい性格も嫌いじゃない」

 冗談めかして僕は笑った。
 内心では大嫌いだが、『宰相閣下』は、そんな事は言わない。

「……」

 すると騎士団長が立ち上がり、僕のすぐ側まで歩み寄ってきた。

「どうかしたか?」
「……」

 いつもながら寡黙だが、いつもよりも怖い瞳で、彼は僕を見おろした。

「?」

 何か気に障ることでも言っただろうかと首を傾げる。
 やはり、勇者に惚れているとか?
 寧ろ僕からしてみれば、騎士団長が勇者に惚れていない事の方が本当に意外だった。

「フェル」

 僕の名を呼び、僕の顎を騎士団長が掴んだ。
 ――これまでに、騎士団長に愛称を呼ばれた事はあっただろうか?

 視線を向けると、正面から目が合う。
 その真摯な瞳に、体が硬直した。
 腐葉土色の瞳が、強い光を宿して、僕をまじまじと見ている。

 骨張った指の感触に、強制的に顎を持ち上げられて、上を向かされた僕は、身構えた。

「――オデッセイ騎士団長?」
「ジークと呼んでくれ」
「……ジーク?」

 そう呟いた瞬間、僕は唇に唐突に降ってきた柔らかい感触に、瞠目した。

「んッ、ふ――」
「……」
「ぁ……!」

 始めは優しく、その後僕が唇に隙間を空けると、そこから騎士団長の舌が入ってきた。
 上の歯の後ろを舐められ、それから舌を絡め取られる。
 強く吸われて、呼吸困難になりそうだった。

 反射的に伏せてしまった瞼を、懸命に開く。
 すると正面に、端正な顔があった。

「!」

 その時舌を甘噛みされて、背筋がしなった。
 ――何が起きている?
 訳が分からず酸素を求めるのに、深々と呼吸することは出来ない。

「っ、は……」

 漸く口が離れた時には、すっかり僕の息は上がっていた。

「な、なにを……」
「好きだ」
「は?」
「愛している。勇者といて笑っているお前を見て、不安に駆られた」
「何を言って――」

 そりゃ愛想笑いの一つや二つするだろう、相手は勇者として召喚されたのだからと、考えながら僕は眉を顰めた。

「お前は笑わないだろ、普段。俺は、俺にだけ笑いかけてくれるようになって欲しい。俺ですらお前の笑顔を手に入れないのに、あんなにも簡単にアスカがお前の笑顔を手に入れたことが苦痛だ」
「ジーク……」
「好きなんだ。覚えておいてくれ」

 それだけ言うと騎士団長は、僕から手を離し立ち上がった。

「――国境警備の件は、承知した。時間を取らせて悪かったな」

 目の前で扉が閉まる。
 残された僕は、ただ呆然と見送るしかなかった。



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