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―― はじまりの詩 ――
【10】解答が出ているはずの愚問
しおりを挟む――バツが悪いというのは、こういう事を言うのかもしれない。
紗衣が運転する車の助手席にて、俺は俯いて、両膝の間に組んだ手を置いていた。紗衣は優しい癖に、何故、俺を糾弾せず、何もかもを受け入れるかのように処理してくれたのだろう。それには、明瞭な解答が一つだけある。それは、大人、だから。
しかし、そんなことは、俺には認め難かった。普段おっとりしている紗衣、そんな彼女を馬鹿にしている俺――そんな、そんな、そんな日常において、年齢こそ下であっても、大人であるのは俺の方であるはずだったのに、彼女の偉大な存在感を意識させられていく。
「お腹減ったね! なにか食べて帰る?」
「……よく、あの光景を見て、食欲がわくね」
「ルイくんって、繊細なんだね! やっぱり、可愛い」
馬鹿にされている気がした。それ以外の気がしない。
それでも実際に――俺は、今、物を食べられる心境には無い。食欲という概念が欠落してしまったかのように、胸が重い。仏国にいた頃は、このような事は感じなかった。そもそも簡易食料ばかりを齧るか飲むかしてばかりだったから、お弁当が存在するようなこの国とは、食事文化が異なったのだ。無論フレンチは美味しい。しかしながら、それは俺の食べ物では無かったのだ。
それが、変わった。
それが、鬱陶しい。
こんな世界は、望んでいなかった。紗衣の不在の世界の方が、彩が無い世界の方が、心地良かった。少なくとも嘗ての日常は、吐瀉物を撒き散らしそうになる胃の不調など齎さなかったのだから。
「そんなルイくんが、大好き」
ああ、重い。重かった。愛が、重い。そもそも、本当にここに、愛はあるのか――そう考えて、俺はハッとした。気づいてしまった。紗衣からの愛をどこかで求め、それが当然である事を祈っている己がいるという事実に。
ダメだ、このままでは、俺は堕ちていく。紗衣に絡め取られてしまう。
なのにどうして、彼女の言葉は、こんなにも心地よくて、胸に染み入ってくるのだろう。
「――……本当に、」
「ん?」
「っ、俺を好きなの?」
俺は顔を上げて、紗衣の横顔を窺った。すると彼女は、赤信号で丁度停車した時だったからなのか、俺を見るとふわりと笑った。その柔らかな笑顔には、曇りも嘘も見えない。虐殺をなしたばかりの俺を糾弾するでも無い。そこに孕む、矛盾。なのに、心が癒されていく。紗衣の嘯く愛に、近づいてしまいそうになる気配、それが我ながら怖い。
「まだ私の愛が伝わってないのかぁ。寂しいなぁ」
「冗談にしか聞こえないからね」
そうは告げつつ、俺の心拍数は上がっていた。本当は、本気にしか聞こえないから困るのだ。胸の動悸の理由を、この時の俺はまだ知りたくなかった。けれど、いやでも気づかされる。
「愛してる」
紗衣は、静かな声でそう言うと、アクセルを踏んだ。俺は何も言えないままで、再び俯いた。頬が熱い。その後、紗衣は、真っ直ぐに俺が暮らすマンションへと車を走らせた。
「またね」
シートベルトを締めたままで紗衣が言った時、俺は唾液を嚥下した。
「――上がっていけば?」
「え?」
「その、お腹減ってるんでしょう? 珈琲くらいなら、出せるから……」
取ってつけたように俺がそう言うと、紗衣が満面の笑みを浮かべた。俺はその表情に胸が締め付けられたようになる。その理由を知りたくはないと、何度も念じる。
「すごく嬉しいお誘いだけど、まだ、『処理』が残っているから」
紗衣はそう言うと、手で操作して助手席側の扉を自動で閉めた。それを見守るしかなかった俺は、その後遠ざかっていく車をただ眺めているしかなかった。
エントランスホールを抜けて、エレベーターで一人。
己の部屋の扉の前に立った時、俺はギリと拳を握り、無意味にドアに手を叩きつけた。
――何をやっているんだろう?
その後、空虚なガランとした室内へと入り、俺は無機質な天井を見上げた。ひとりきりの部屋には、閉め忘れたカーテンの向こうから夕日が差し込んでいる。
心を、奪われていく。それが、苦しい。どうしようもなく苦しい。
一体今、紗衣はどのような気持ちで、処理の続きをしているのだろうか? それは彼女が望まなかったはずの行為だ。けれど、そんな事を慮る自分という存在が奇っ怪に思えて、吐き気がする。
「どうして――俺は、悩んでいるんだ? 何を? そもそも、何を? 何も悩む必要なんてないはずなのに。なのに、なんで」
つらつらとブツブツと、言葉が溢れてくる。同じように、紗衣の笑顔が脳裏を埋め尽くしていく。きつく目を伏せ、俺は睫毛を震わせた。
――どうして。
どうして、心を占めるのは、紗衣の事ばかりなのだろう。
俺にはそれが不可解だった。紗衣の顔ばかり浮かんでくる。それが鬱陶しいのに、苛立ってならないというのに、なのに、なのに――胸が痛い。
「俺は……」
……紗衣が、大切なのだろうか?
何故、部屋に誘ったりしたのだろうか?
それらは、とっくに解答が出ているはずの愚問だった。
これが、俺が最初に紗衣に対する愛を自覚した時の記憶だ。その後も俺達は、オロール卿の本物を探し、対策班で共に捜査をしていった。いつしか、それは懐かしくも悲しい記憶となる。
―― 終 ――
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