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―― はじまりの詩 ――
【5】第一の任務
しおりを挟む「ルイくん!」
扉に手をかけた俺を、紗衣が抱き寄せた。ぐいと右側から腕を回されて、俺は息を呑む。
「今のまんまじゃ、ルイくんが行っても、不法侵入してきた子供が、大学の一教授に襲いかかったって言われて終わるだけなんだよ?」
それを聞いて、俺は息を呑んだ。
「ちゃんと証拠固めをして、敵を倒さなきゃダメ。詰めが甘くちゃ意味がないの」
紗衣の声を聞いて、俺は静かに振り返った。彼女の言葉は最もだ。だがそれは、『人間社会』における妥当な判断という意味合いでしかない。相手にする怪異が人間では無い以上、徹底抗戦する場合、冷静に行うべくは証拠固めだとは、俺は思わない。
「子供が教授を襲撃したとして、報道を騒がせる程度、何の問題もないよ」
「問題しかないよ! この機関の存在意義は、怪異で民間の人々が混乱しないように、収拾する事なんだから。率先して騒動を巻き起こしたら、意味がないの!」
「……」
俺が反論を探して口ごもると、今度は両腕で、彼女が俺を抱きしめた。行動を封鎖する狙いなのだろうが、全身が柔らかい温もりにつつまれたものだから、思わず硬直する。柔らかな彼女の髪が、後ろから俺の首筋に触れ、背には胸の感触を覚えた。俺は、こういうぬくもりが、心底鬱陶しい。これまでの間、誰にも与えられた事の無いものだからだ。
「けど、ミシェーレ氏の提案って、適切じゃないかなぁ?」
その時、朝儀が言った。驚いて俺は振り返ろうとしたが、紗衣の体に阻まれて室内が見えない。必死で押すが、紗衣は柔らかいのに力が強かった。
「だって、最終的に倒すわけだし。サクっと排除が可能なら、混乱の処理は後ですれば良いんだよ」
平和ボケしたこの国で、まさか俺に賛同する者がいるとは思わなかった。正直感動してしまう。すると、紗衣が俺を抱きしめる腕に力を込めた。僅かに見える彼女の大きな瞳は、笑みを形づくっていたのだが――その奥に、一瞬だけ冷たい色が滲んだのを見た気がする。俺はこれまでの間、彼女が平和ボケの筆頭だと思って過ごしてきたため、その眼差しが少し意外だった。明確に作り笑いだと理解したからだ。
「――藍円寺。それが可能な相手なら、それでも良いかもしれない。処理には規定のマニュアルもある」
すると副班長の望美が、静かに補足した。それを聴くと、あからさまに北斗がため息をついた気配がした。
「可能じゃない。不可能そうだからぁ、ようは慎重になってんだろ? わざわざ、海外に協力要請をするような強敵で、国際的に指名手配されてる怪異は――怪異っていうより、脅威だ。人間と同じくらい恐ろしい脅威だ」
俺は、自分よりも幼い少年の冷静な指摘に、細く吐息した。確かに、吸血鬼は恐ろしいが、ことアブラハムの宗教の範囲外で育ったならば、人間の方をより脅威に感じるという感性は――間違いではないのかもしれない。人間は殺して良い存在ではなくなるが、凶悪犯罪者に、妖と人間のどちらが多いかと言われたならば、確実に人間だからだ。
「まず、このメンバーが、特別班の人員になった理由は、能力じゃなく、年齢だろう?」
北斗が続けた言葉に、俺は驚いた。提案者の紗衣と、追いかけてきた俺は兎も角、ほかの三名に関しては、俺はあまり多くを知らなかったというのもある。するとその時、紗衣が俺を話し、隣で下ろしたままで手を繋いだ。何故手を繋ぐ必要があるのかと抗議したかったが、俺の単独行動阻止のためだろうと判断した事と、北斗の言葉が気になって、俺は口を閉じていた。
「班長の玲瓏院さんが二十五?」
「二十四です」
「あ、すみません。で、夕凪副班長が十九歳。朝儀くんが十七で、俺が十歳。ミシェーレ氏は十四歳。俺がこの機関で最年少なのを除いても、十代ばかりで構成されてんだろ。これ、相手が大学の先生をしているなら、小中高大のいずれかの学生として近づけって事じゃないのか? ん? 班長は、引率の先生か何かだろ」
淡々と語る少年は、気だるそうな眼差しをしていて、呆れるように室内を見渡していた。ただし残念ながら、俺よりも頭が良さそうである……。なるほど、接触方法も既に、考えた上でのメンバーの決定だったのか……。
「北斗くんの見解が、正解です」
紗衣が俺の腕を引き、それとなく戻り始めた。俺も素直に、自分の席に着くことに決める。俺は朝儀の隣に再び座った。すると、くすりと笑われた。彼の意味が何を訴えたかったのか気になったが、黙っている事にする。そして逆側の、北斗に視線を向けた。
「ただ、基本的に北斗くんには、これまでの通り、情報の精査役をお願いしたいから、この本部に残ってもらいたいんだ。小学生役は、やらなくて良いよ」
「うん」
「望美ちゃんにも統括で指揮をして欲しいから、大学生役も不要。逆に、大学生だと向こうのテリトリーに近すぎるしね」
「分かっている」
三人がそうやりとりしたのを聞き、俺はちらりと朝儀を見た。すると朝儀もこちらを見ていた。
「朝儀くんと縲くんの自由研究――というような雰囲気で、進めていこうと思います。民俗学的に不思議なものを発見した中高生と引率の先生の私、という流れで、対象に接触します。あとで、基礎的な今回の役割のプロフィールを送っておくね」
支給品のスマホを手に取り、前へと戻った紗衣が微笑した。隣では副班長が頷いている。
「それでは、今回の任務を改めて説明します。第一の任務としては、夏瑪夜明教授がオロール卿であるか否かの確定作業となります。それが第一です。討伐はその後の任務となりますので、当面は、確定作業に従事して頂きます」
紗衣がそう言うと、副班長が後ろのモニターに振り返った。手にはタブレットを持っていて、そこに触れながら、モニターの表示映像を操作している。
すぐに、銀髪の青年が映し出された。白髪には見えないが、金髪にしては色素が薄すぎる。染めているものでは無いようだった。その髪を後ろに流していて、彫りの深い顔立ちには、細いフレームの眼鏡をかけている。二十代には見えない――三十代半ば、か。そんな印象の人物を見て、俺は腕を組んだ。
――これまでの所、オロール卿の映像を、DGSEをはじめ、いずれの機関も入手できていない。もし仮に、この写真の人物がオロール卿本人であるならば、これを収めただけでも、この『庶務零課』の功績は偉業だ。
「現在、夏瑪夜明教授は、天月文化大学文学部民族学科で岩刻文字についての研究及び講義を行っています」
「岩刻文字?」
朝儀が首を傾げると、紗衣が微笑して続けた。
「ペトログリフ――要するに、古代の遺跡や岩、石なんかに刻まれた、文字らしきものや絵らしきものを、研究しているみたいです」
俺は腕を組み、彼らを見守る。ペトログリフは、俺の知識だと、考古学や海洋学の範囲だったように認識していた。民族学の範囲から研究しているという事は、また別の観点からの研究となるのだろうか?
「神代文字とかいうやつ?」
「朝儀くん、近いようで遠い。あるいは同じものかも知れないし、私からは詳しくは言えないんだけどね」
朝儀と紗衣の声を聞いていた副班長が、その時モニターを操作した。
「こういった石の、白い模様――意匠の研究をしているそうだ」
映し出された巨石を見て、俺は首を捻った。
「国外で研究を?」
「いいや。これは北海道で見つけたペトログリフだという」
「北海道? これを? どうして北海道に、シュメール文字が?」
そこに映し出されているメソポタミア文明の楔形文字を見て、俺は一気に胡散臭い気持ちになった。だが、周囲は俺を胡散臭そうに見た。
「これ、シュメールの文字なのか?」
北斗が言う。それから北斗は、改めてモニターを見た。
「俺の家の近所の――神社の裏の山の石にも、これと同じような模様がある。これ、石の模様として多いものじゃないのか? 文字? 絵? 嘘だろ? ただの模様じゃないのか?」
「俺の実家の近辺でも、この模様よく見るけど、これは誰かが、かいたものだったの?」
朝儀もポカンとしている。紗衣と副班長は顔を見合わせていた。俺は彼らの反応に、少し冷や汗をかいていた。本当に、その辺にありふれているとすれば、この国は恐ろしい。古代遺跡の宝庫では無いか……。
日本語とシュメールの言葉について考えてみると、どちらも確かに、「~を」や「~に」というように、単語に補足する字をつける膠着語だ。しかし、明らかに日本の文字は、漢字である。だが、ひらがなやカタカナ……どころか、ローマ字まで存在している。
シュメール文字が、環太平洋の各地に、ペトログリフとして残されているという話は聞いた事があったが……ピンとは来ない。
「過去の世界にも、言語を同じくする、一定の文明圏が広がっていた――という、その時代の日本、つまりは縄文時代の民族学について、夏瑪教授は研究しているようです。専門としては、日高見国の研究みたいで、正確には、ペトログリフ研究は、その関連で――ううーん。ちょっとここで、要約して説明するには、時間が足りないかな」
紗衣がそう言ってから、チラリと時計を見た。壁にかかっている丸い時計を見ると、丁度会議の終了時刻を示していた。
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