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―― 第二章:爆弾事件 ――

【十七】嫌な予定の増加

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 翌日、梓藤は素直に、静間に言われた通り医務室へと向かった。
 そこには専任の医師が常駐している。この形態は比較的珍しく、テスト的なものだという。パンフレットによると、マスク対策をしている場合、物理的にも心的にも、被害を受ける可能性が高いため、このように医務室が設置されたらしい。梓藤は待合室でそのパンフレットを読みながら、事件の現場にいない医師に、一体どんな物理的対応が出来るのだろうかと考えた。マスクと戦う事になれば、この建物に戻る前に死ぬか、無傷で生き残る事が、圧倒的に多い。

「梓藤さん、どうぞ」

 その時、看護師に声をかけられたので、梓藤は立ち上がり、診察室へと入った。
 看護師は中に着いてこなかったので、そこで梓藤は、正面に座るレトロな白衣姿の青年と二人きりになった。

「どうぞ」

 椅子に促されたので、会釈をして腰を下ろす。顔を上げた青年は、細いフレームの眼鏡をかけていた。名札には、榎本千景と書かれている。

「今日は、どうされましたか?」

 榎本の手元に、先程書いたばかりの問診票がある事を見て取り、梓藤は辟易した。

「そこに書いただろう、眠れないと」
「問診票は、あくまでも問診票だからね」
「……それだけだ」
「いつからですか?」

 榎本の言葉に、溜息を零してから、梓藤は腕を組んだ。

「……一ヵ月と少し前だ」
「なるほど。原因に心当たりは?」

 斑目の件以外には、思い当たらない。だがそれを口に出すことが躊躇われた。根掘り葉掘り事件について聞かれたりしたら、耐えられる自信が無い。

「無い」
「本当に?」
「ああ。だから睡眠薬でも出してくれ」
「三分診療を希望するって事かな?」
「そうだ」
「残念ながら、特に精神面に問題がある患者の初診には、僕は時間を割くたちでね」

 無表情で淡々と述べた榎本は、電子カルテの表示されているパソコンから、漸く梓藤に向き直る。そして真っ直ぐに梓藤を見た。

「一ヵ月と少し前というと、斑目警視正が亡くなった頃だね」
「っ」

 その名を耳にし、あからさまに梓藤は息を呑んだ。嫌な冷や汗が、こみ上げてくる。なお斑目が警視正なのは、殉職して二つ階級が進んだからではなく、マスクに関わる特殊捜査局の人間は、皆元々階級が上がりやすいからにほかならない。坂崎は例外だ。

「顔色が変わったね」
「何故、廣瀬の名前を知っているんだ?」
「この狭い警備部の建物のなかで、逆にどうして知らないと思ったのかお聞かせ願いたいけどね、僕としては」
「……そうだな。葬儀も派手に行われたんだから、噂にもなっていたんだろうな」
「そうだね。噂といったものには興味が無い僕の耳にすら入ったよ」

 嘘を述べずに、榎本がはっきりと答えた。それが少しだけ信用できそうな人間だと判断する材料となった。普段であれば、また違った見方をしたかもしれないが、この時の梓藤には、そう感じられた。

「他にいくつか確認しても構わないかな?」
「ああ、好きにしてくれ」
「悪夢を見ることは? あるいは、白昼夢を」

 まさに悩んでいる事を言葉にされて、梓藤は息を詰める。

「どっち?」
「悪夢だ」
「そう。どんな夢? 斑目警視正に関連がある夢?」
「そうだ」

 素直に梓藤が頷くと、その後も榎本は質問を続けた。梓藤は頷くこともあれば、首を振ることもあった。ただそのいずれの際にも、このような質問で、一体何が分かるのだろうかと、苛立ちを隠せなかった。

「まだ質問があるのか?」
「もう、終わりだよ。結論からいって梓藤警視正は、現在心的外傷後ストレス障害、俗にいうPTSDの状態にある。急性といえる時期は超過しているからね」
「薬で治るのか?」
「治療法は、薬物両方と認知行動療法となるね。特に暴露療法だ」
「いつ治るんだ?」
「まぁ半年程度で症状が消失する例は多いけど、いつとは言えない。君の治療に臨む態度も関係があるし、周囲の人間の理解も回復への大切な要因となる」

 淡々と無表情のままで続けた榎本に対し、片目だけを半眼にして、腕を組んだままで梓藤が問う。

「不眠は?」
「悪夢との関わりもあるけど、それが一番困っているのかな?」
「そうだ。仕事に支障が出かねない」
「なるほど、それは問題だね。今日は抗うつ剤と眠剤を処方するけど、特に前者はきちんと飲まないと効果が出ない。朝夕で出すからきちんと飲んでね。眠剤は、寝る前。ただし、眠れないからといって、二錠・三錠と飲むのは絶対に禁止だ。それこそ眠気が残って、翌日の勤務に支障が出るよ」

 電子カルテに何事か打ち込みながら、榎本が言う。梓藤はしぶしぶといった調子で頷いた。

「多忙で暫くは来られないだろうから、薬は、多めに出してくれ」
「断るよ。大量服薬されて死なれでもしたら困るからね」
「なっ、誰が――」
「君、が。他に誰がいるの? 大体、忙しいとは言うけど、ここのワンフロア下が君のオフィスなんだから、昼休みにでも顔を出してくれたらいい」
「マスクの対策中に昼休みなんてない」
「じゃあ僕が届けるよ、その場合。電話くらい出来るでしょ? ほら、これが僕の名刺」

 投げるように渡されたので、思わず梓藤が受け取る。それから目を据わらせた。

「配達係もやっているのか? 医者とは随分と暇な職業なんだな」
「そうだねぇ、なにせマスクによる負傷者なんて、原則亡くなるし、マスクによる心的外傷が酷い場合は、とっくに退職してこの医務室には来る機会もない。主な診察対象は、風邪と建物内での不慮の怪我かな。まぁ医師の僕は、暇な方がいいでしょう? 怪我人や病人ばかりではないのだから」

 嫌味のつもりだったが、それも躱され、梓藤は顔を背けて嘆息した。

「いいね? 電話か、薬だけでも取りに来るか。僕としては、来週も診察をするべきだと考えている。検討して下さい」

 こうして梓藤の日常に、嫌な予定が一つ増えた。



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