水槽で出来た柩

猫宮乾

文字の大きさ
上 下
25 / 26

【二十五】裏切らない

しおりを挟む

「やぁ、風邪だったそうだね。いきなりの欠勤で、私は非常に困ってしまったよ。恋人の死で疲れがたまっていたのかね? まぁ、無理は禁物だ」

 出勤して、亘理が大貫中佐の前に立った時、上司は観葉植物に水を与えながらそう告げた。実際この執務室へと辿りつくまでの間、亘理の不在で混迷を極めていた部下達が、矢継ぎ早に指示を仰いだものである。

「ご迷惑をおかけ致しました」
「全くだ」
「――大貫中佐殿、実は、その間に一つ思いついた理論が」
「理論?」
「仮想現実の共有理論が固まりました」

 亘理は声を潜めて、大貫の耳元で囁いた。その言葉に、未だ誰もが成し得ていない夢の技術であると知っている大貫は、小さく息を呑んだ。亘理は第一人者だったのだから、それを実現する理論を思いついても不思議はない。冷静にそう考えつつも、それよりも耳に当たった亘理の吐息の方が、大貫中佐をゾクリとさせた。

「大貫中佐殿の指揮で、実験さえ行えば、あとは完成となります。大貫中佐殿のご采配は、軍上層部の――そして最終的には国民の知るところとなるでしょう」

 大貫の欲望には気づかず、亘理は上司の肥大した自尊心にばかり着目していた。顔を上げた大貫の瞳が光ったのは、てっきり名誉欲に駆られたからであると考えていた。

「実験、か。確かに私であれば、いかようにでも用意が可能だろう」
「では――」
「見返りは何だね?」

 しかし響いた声に、亘理は硬直した。名誉を自分の手柄にする事は、大貫中佐にとっては見返りには当たらないのだろうかと、今更ながらに焦燥感を覚える。静かに目を細めくし、大貫中佐は卑しく笑った。亘理はそれを見ながら、同じ見返りという言葉であっても、っ先日御倉が口にしたニュアンスとは違う事だけを感じ取った。

「亘理大尉」

 大貫中佐が、亘理の肩に手を置いた。その手を首筋に這わせ、そして頬に触れる。怖気が走った亘理は、無意識に一歩後退した。すると大貫がつめよる。

「君の不在で多忙だったものだから、ここのところは、夜の運動が出来なくてね。私の体は熱いんだ」
「……っ、大貫中佐殿……?」
「君の口が、どのように男の雄を咥えるのか、興味がある」
「な」
「――それで? どのような実験設備が欲しいのだね?」
「……」
「先に聞いてあげようではないか。私は、優しい上司だからね」

 亘理は震えを押し殺した。大貫の瞳に宿っている欲情を見て取る。舌なめずりした上官の、荒い鼻息が首筋にかかった。嫌な臭いがするのは、元々の事である。だが今はそれ以上に嫌悪感が募り、亘理は呼吸をするのが嫌になった。大貫はといえば、自分の体臭や醜悪な脂肪に嫌がりながらも快楽には抗えない者達を見るのが好きだった。嫌がるからこそ支配欲が満たされるのである。それは男女を問わない。

「……実験設備というか……遇津総合病院のVRシステムを維持している大元の薬液タンクの状態を確認し……サンプルに少しその薬液を……ただし、これは……内密に行いたいので、遇津側には、ただの視察であるとして……っ」
「なるほど、見学に行けばいいのだね? 亘理大尉を伴って」
「はい……大貫中佐殿、あの」

 追いつめられ壁に背をあてながら、亘理は視線を落とした。大貫の手が、亘理のベルトにかかっている。亘理の背筋に怖気が走った。

「今ここで私の欲望を満たしてくれるというのであれば、夜には希望を叶えよう」
「っ」
「君の選択次第だよ、亘理大尉」

 亘理は言葉を失った。ニヤニヤと大貫は笑っている。太い指先で亘理の耳の後ろをなぞりながら、さらにつめ寄よる。唇と唇が触れ合いそうな距離で、大貫はさらに続けた。

「どうするかね?」
「……」
「亘理大尉、どうしたらいいかは、既に分かっているはずだ」
「……よろしくお願いいたします」
「それでいい、正答だ。遇津に約束を取り付ける電話をしてやるから、見ているといい」

 こうして大貫中佐が体を離した時、亘理は壁に背を預けたまま、へたりこんだ。寒気がして、体から力が抜ける。目の前で、大貫が遇津雪野に電話をするのを、青褪めながら亘理は見ていた。

 電話が終わると、大貫が鍵をかけてから、楽しそうに笑った。そして亘理を見る。

「これで邪魔者は誰も来ない。夜には君の希望も叶う。さて、私の希望は今叶えてもらうとしようか」

 大貫中佐はそう言うと、躊躇うこともなく、自身のベルトを外した。脂肪がへそを見えなくしている。迫ってくる大貫に吐き気を覚えながら、亘理は必死で立ち上がった。己の左手の薬指に光る、森永の遺品の指輪を見る。脳裏に森永の姿が過ぎった。まだ生きているが、亘理の中では死んでしまった――恋人だ。

 必死に考える。大貫中佐がいなければ、今夜の約束を遇津側は疑うかもしれない。

 けれど――亘理大尉は、手で後ろのポケットに触れた。中には、小型のスタンガンが入っている。恋人を裏切るわけにはいかない。

 室内にスタンガンの音が響き、大貫中佐が仰向けに倒れたのは、そのすぐ後の事だった。
 その後亘理は、大貫を拘束し、執務机の下に押し込んだ。

 しばらくは眠っているだろうと考えたが、念を入れて身動きを封じる。

 それから、何食わぬ顔をして仕事へと戻った。大貫中佐の不在を気にする者はおろか、不在に気づいた者すらいない。いつも通り、執務室にこもっているのだと、誰もが考えていた。皆は、亘理がいれば、それで良いのだ。全てを指示しているのは、亘理なのだから。ただただ亘理本人だけが、時が経つのを緩慢に感じていた。

 その日は、珍しく定時に、亘理が帰ると言い出した。仕事は溜まっていたが、風邪をぶり返されてもかなわないからと、部下達が見送る。亘理の行き先は、遇津総合病院だった。しかし勿論、受診するためではない。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

感染した世界で~Second of Life's~

霧雨羽加賀
ホラー
世界は半ば終わりをつげ、希望という言葉がこの世からなくなりつつある世界で、いまだ希望を持ち続け戦っている人間たちがいた。 物資は底をつき、感染者のはびこる世の中、しかし抵抗はやめない。 それの彼、彼女らによる、感染した世界で~終わりの始まり~から一年がたった物語......

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

オーデション〜リリース前

のーまじん
ホラー
50代の池上は、殺虫剤の会社の研究員だった。 早期退職した彼は、昆虫の資料の整理をしながら、日雇いバイトで生計を立てていた。 ある日、派遣先で知り合った元同僚の秋吉に飲みに誘われる。 オーデション 2章 パラサイト  オーデションの主人公 池上は声優秋吉と共に収録のために信州の屋敷に向かう。  そこで、池上はイシスのスカラベを探せと言われるが思案する中、突然やってきた秋吉が100年前の不気味な詩について話し始める  

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

呪配

真霜ナオ
ホラー
ある晩。いつものように夕食のデリバリーを利用した比嘉慧斗は、初めての誤配を経験する。 デリバリー専用アプリは、続けてある通知を送り付けてきた。 『比嘉慧斗様、死をお届けに向かっています』 その日から不可解な出来事に見舞われ始める慧斗は、高野來という美しい青年と衝撃的な出会い方をする。 不思議な力を持った來と共に死の呪いを解く方法を探す慧斗だが、周囲では連続怪死事件も起こっていて……? 「第7回ホラー・ミステリー小説大賞」オカルト賞を受賞しました!

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

シカガネ神社

家紋武範
ホラー
F大生の過去に起こったホラースポットでの行方不明事件。 それのたった一人の生き残りがその惨劇を百物語の百話目に語りだす。 その一夜の出来事。 恐怖の一夜の話を……。 ※表紙の画像は 菁 犬兎さまに頂戴しました!

【完結済】僕の部屋

野花マリオ
ホラー
僕の部屋で起きるギャグホラー小説。 1話から8話まで移植作品ですが9話以降からはオリジナルリメイクホラー作話として展開されます。

処理中です...