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【十】病室の風景
しおりを挟むすると、妹の病室は、空だった。
両親それぞれの病室も、それは同様だった。
受付で尋ねてみれば、そんな人間は入院していないという。
それも、『最初から入院していません』という回答だった。
あの事件のその日からの入院記録が無かったのだ。
確認してもらった結果、家族は全員、あの爆発テロ事件で没した事になっていた。
そんな馬鹿な。そんな馬鹿な事があるはずはない。動揺して立ちつくしていた時、そこへ実になんでもないような様子で、遇津が姿を現した。
「亘理さん、軍学校に入学するとは思いませんでしたよ」
「遇津さん、これは一体――」
「お見せしたいものがあるんです。きっと――喜んでくれるんじゃないかなぁ」
穏やかに笑う遇津が、エレベーターへと向かう。
焦燥感に駆られたまま、亘理はその後に従った。
エレベーターは、本来存在しないはずの地下へと向かった。地下十階だった。
足を踏み入れてすぐ、目を見開いた亘理は、硬直しながら口を開けた。しかし唇が震えるだけで、声は何も出てこない。
正面には、三つの水槽があった。
中には、脳みそが嘘みたいに浮かんでいた。神経が薬液の中を漂っている。
これ、は。
亘理は仮想現実接続用の水槽設備と器具の実物を、これまでにも研究の一環で目にし事があった。実際に脳が入っているものも、勿論見た事があったし、その脳が映し出す仮想現実をモニターで見た事もある。そんな記憶が訴える。ここにある設備は、紛れもなく同一のものだ、と。
亘理は改めて、ぷかぷかと浮かんでいる脳を見た。
何故自分は、ここに連れてこられたのか。自分の家族は何処に消えたのか。
我ながら愚問だと思った。脳だけの姿では、どれが誰かなんて区別は出来ないが、恐らくきっと確実に――水槽の中にあるのは、脳だけになった家族に違いないだろう。全身から血の気が失せた。
「まぁ、驚くのは分かります」
「――あの死亡記録はどういう事ですか? 最初から、仮想現実の実用実験をするつもりで、俺の家族を入院させたのか?」
「それより、これを見て下さい。記録映像だけどね。後ですぐに、直接連絡出来るようにしてあげますけど」
亘理が沸々とわいてきた怒りをぶつけるまえに、遇津がリモコンを操作した。
すると壁一面に備え付けられていた巨大なモニターに、木漏れ日が溢れている庭が映った。英国庭園風のその場所で、椅子に座って紅茶のカップを手に持つ少女。満面の笑みを浮かべている彼女の姿に、亘理は絶句した。妹だった。紛れもなく妹だった。髪の色も目の色も茶色いし、服も童話に出てくるような奇妙なスカート姿だったが、確実に妹だった。髪と目の色彩や衣服は異なるが、他は間違いなく在りし日の妹の姿だった。
「亘理さんの妹さんは、君以上にロマンティストだったみたいでね。不思議の国のアリスみたいな世界で過ごしていますよ。お友達に囲まれて、茶会をしたり、かけっこをしたり」
「……」
「ちなみにお母様は、ゴージャスな人だねぇ。日本一の大金持ちにして名家出身の絶世の美女という仮想世界に浸っている。旦那さんは、一応ちゃんと君のお父様。少なくとも同じ容姿だよ。性格はやっぱり、お母様の脳内で形成されている幻想だから、同一とは言えませんけどね」
「……」
「最後に君のお父様。会社を君に譲って、現在は趣味で農業をしてる。きっとそれが、夢だったんだろうね。本音では、息子に会社を継いで欲しかったんだと思うよ。それでお父様の仮想現実世界では、君たちは四人で今も幸せに暮らしてる。世界観は、一番この現実に近い」
次々に画面の映像は切り替わった。その中で笑う家族の姿に、亘理は何も言えなくなった。みんな、あんまりにも幸せそうな顔をしていたのだ。
それから一度、遇津はモニターの映像を消した。そして口角を持ち上げた後、そばにあった通信装置を一瞥した。
「話してみますか?」
「……ああ」
亘理がおずおずと頷くと、微笑して遇津が画面を切り替えた。
リアルタイムの仮想現実風景が映し出される。
そこには、驚いたような顔の妹の姿があった。
「お兄様? 本当にお兄様なの?」
亘理は、気づくと笑みを浮かべて頷いていた。顔が引きつりそうになったから、必死で堪えた。お兄様なんて、これまでの生涯で呼ばれた事は無かった。けれどそれが、現在の妹の世界観だと言う事は、知識から理解が出来た。それを壊す事は出来ない。だから楽しそうに話す彼女に、必死にあわせた。そして、自身の煩い鼓動の音に苦しみながら、頃合いを見計らって話を終える事にした。
画面から映像が消えた瞬間、亘理は膝をつき嗚咽を漏らした。涙腺が崩壊していた。恥ずかしげもなく号泣してしまった。
昔と変わらない笑顔の、明るく優しい妹。懐かしい声。温かい眼差し。その全てに、再び会えた事に、亘理の全身が歓喜していた。なのに無性に悲しくて、嬉しいから泣いているのか、悲しいから泣いているのか、自分自身でも分からなくなった。
でも、もう駄目だ。はっきりと自覚した。これまでの日々は辛すぎた。それでも我慢し、耐えてきたのだ。だと言うのに、愛する妹に、あんな風に笑顔を向けられたら、必死に保っていた理性の糸などブツンと切れてしまった。
沙月に、ずっと会いたかったのだ。ずっとずっと会いたかったのだ。勿論、母にだって会いたかった。父にだって会いたかった。
はっきりと本音を言うのであれば、自分を恨まず嫌わず好いてくれる状態の彼らに会いたかったのだ。会って話がしたかった。
別にそれは、画面越しだって構わなかったのではないか?
このくらい、何の問題もなかったんじゃないか。
偽りだって良いじゃないか。そこに元気でいてくれるだけで良いではないか。
そもそも仮想現実の外にいた時の彼らは、自分の事が嫌いだった。
己が憎悪されていた事を、亘理はよく知っている。
だがその時の記憶が無くなり、個々人が自分だけの仮想現実の中で好きな世界観を構築している今、家族は自分を嫌っていない。その事実の方が、辛かった日々よりも、ずっと優しい。
「これからは、仕事が無ければいつでも会えますよ。出世して一人暮らしが可能になれば、そこに専用モニターを運んでもいい。ただ、亘理さんは、よくご存じですよね? この国では、仮想現実の終末医療への利用は、まだ未認可である事を。露見すれば、悪くすればこの水槽は、叩きわられるわけです。ですがご安心を。全く運が良いというか何というか。この病院に実験指示を出したのは、国防軍なんですよ。勿論非公式ですし、国防軍の中の賛同者の派閥の指示というのが正確なところです。ねぇ亘理さん。妹さんとご両親を守るためにも、協力してもらえませんか? 軍の内部の協力者は、多ければ多いほど良い。ま、別段この実験の事を暴露しても構いませんよ。そうしたらご家族はあの世逝きですけど――なんて言ったら脅迫みたいですね」
それは紛れもない脅迫だったのだろうが、亘理は断らなかった。
断る言葉すら出てこないほどに、感情が溢れかえっていて、胸が苦しかったのだ。
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