アニマスブレイク

猫宮乾

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 今になって思えば、あの時の叔父の言葉は優しさだったのではないかと感じる。務は、焔紀と共に回廊を歩きながら話し込んでいる梓月の姿を、向かいの庭のテラスから眺めながら、そんなことを考えていた。
 きっとそうに違いない。あれは、遇津と自分の新たな仲を瓦解させないために、叔父があえて口にした、優しさだったのだ。けれどそれは、叔父が思っていなかった程、遇津の張り詰めた心は、健常ではなかった事で、梓月が意図した効果を生まなかったのだろう。
 背後を振り返り、厚いカーテンで固く閉ざされた二階の一室を見据える。
 今もあのくらい部屋には、ベッドの上に座り込み、止めどなく涙を流しながら、時に奇声を発する遇津の姿があるはずだ。彼女が言葉らしい言葉を発しなくなってから、即ち梓月が帰還してから、そろそろ半月が経とうとしていた。
 その間、務の仕事は激減した。務と遇津の二人がいなければこなせなかった仕事は、梓月が一人いれば解消できてしまうものも多くて、今では日がな一日こうしてお茶を飲んでいることすら可能だった。だが気がかりが遇津の事以外にも2つあって、務の気は決して休まらない。一つは、梓月が仕事の義務的な話題以外で、決して会話をしてはくれないことだ。そのわざとらしすぎる程のよそよそしさに、務は先ほどのような考えを抱くに至った。
 もう一つは焔紀の事だ。間宮の手当を受けたあの日の以後、梓月が焔紀の元に身を寄せていると聴いて訪ねた務は、けれど叔父のことではなく、あの日の会話のことで平謝りをされたのだ。間宮の売り言葉に対する買い言葉の形となってしまい、酷いことを多く言ってしまったのだと、困るように笑った焔紀に、その時務は何も言うことが出来なかった。同時に、それ程自分は今までに酷な対応を迫っていたかと真摯な顔をし訊ねられ、もしそうであったならば、本当に申し訳なかったと思っていると、謝罪されたのだ。確かに苦痛を感じる場面は度々あった。けれど、それでも務は笑顔で首を振った。そんなことはなかったのだと、出来ないことは拒否していたのだしと、そう応えた。それは、このように申し訳なさそうな顔をしてくれる友人など、今まで得たことがなかったからだ。
 しかしこちらに気付いた様子もなく、二人で真剣に話し込んでいる梓月と焔紀の顔を交互に眺め、務は今では疎外感を覚えるようになっていた。そもそも焔紀が自分の側にいてくれたのは、梓月がいなくなってしまったからだった。そして梓月が自分の側にいてくれたのは、間宮のもとを離れた時だ。皆、同情であるのではないか。自分一人が此処にいて、その価値を一体誰が見いだしてくれるというのだろう。元来、価値など存在するのか。それらの不安感と、急に減った仕事量が、存在理由を次第に曖昧にしていく。思ったよりも、自分は仕事に依存していたことに、務は初めて気がついた。それ程仕事が出来るわけではない。けれどやるべき事柄が目の前にあり、それを達成するという義務的な作業は、確かに、行うだけで生きる意味に似た何かを自分へもたらしてくれていたのだろう。
 それもあってなのか、日増しに元の通りへと代わり、寧ろ要求が増していく、乱暴な焔紀の頼み事すら、在るだけましだと感じられるようになっていく。務は腕から伸びる半透明なチューブを眺め、それが繋がる血液パックを見上げた。実験用の血液が不足しているのだと、焔紀が頼み込んできたのは一昨日のことで、以来務はこうして献血をし続けている。マキナエルライトの保証する血液再生産の頻度限界ギリギリの所で、鮮血が重力に逆らい登っていく様を眺めている内に、次第に意識が鮮明な時間の方が減少していった。たって歩けばふらついた。けれど、こんな自分であっても役に立つのだと実感できる、日に透けた紅色はとても優しい。務は左目でそれを一瞥しながら、利き手で、右目の白い医療用眼帯の紐の位置を直した。もう痛みもないし、視力も戻っているようだから、いい加減外してしまいたかったのだけれど、治療してくれた焔紀に一週間は眼帯を外さないよう念を押されているのだ。
 マキナエルライトで再生能力が強まった身体であるとはいえ、必ずしも即座に再生するわけではなかった。あの焼却炉の炎のように、加害対象にもマキナエルライトの力が加わっている場合は、再生速度も強まるが、そういった特殊な場合を除けば、実際には虫に食い破られた時のように、数分は皮膚の再生にもかかるし、それこそ人体の一部を破損するような自体であれば、数日かかることもある。怪我の程度や種類によって、治癒速度も異なる。
 つらつらとそんなことを考えていた意識が、回廊の向こうへ消えていこうとする二人を見据えていた視線が、その時、彼らの進行方向の間逆から走り寄ってきた間宮を捉えて、我に返った。
「梓月、話がある」
「良和……」進行方向を遮られる形になり、梓月が眉をひそめた。その半眼の冷たい瞳は、彼が帰還してから良く見せるもので、務は叔父のその表情を確かめる度に身震いしそうになる。
「悪いが、俺にはお前と話すことがないんだ」
「そっちにはなくても、俺にはあるんです」
「聴く余裕もない。今は神代プロジェクトの後始末のことで精一杯なんだよ」
「同じ件だ。太陽派と画策して、アトランティスを本気で破滅させる気なのか?」
「そうか、お前も仕事の話か。残念だよ。誰か一人くらい、もう少し俺が生きていたことを喜んでくれても良いと思うんだが」
「喜んでるさ。口に出さないと分からない程、頭が悪い人間だったのか? あんたは」
 卑下するように笑った梓月と、激情を抑えるような様子の間宮の間に、焔紀が立つ。
「世の中心情を図ってくれる人間ばかりだと思うのは傲慢な見解だな。何で世間がお前にそこまで優しくしなきゃならねぇんだよ」
 馬鹿にするように笑った焔紀は、嘆息しながら肩を竦めた。
「良和。別に俺は私怨で報復しようと考えている訳じゃない。もう今となっては次世代文明化計画のセグメントは肥大化しすぎたと思うんだ」
「それは分かる。同じ意見だ。だからといって核報復なんて言う、双方を疲弊させる終わらせ方は、ただの欺瞞だ」
「核ありきで考えている訳じゃないさ。俺はただ、統一世界政府の支配を終わらせるべきだと言っているだけだ」
「他にどんな方法でそれが叶うって言うんだよ?」
「間宮先生ともあろうお方が本当にぶいねぇ。務の方が未だ頭良いよ、本当」
 焦る様子の間宮に対し、笑って見せてから、焔紀が務を一瞥した。
 漏れ聞こえてくる彼らの会話に、当の務はと言えば、何一つ現実感を覚えられずにいる。
 梓月が生きていた、それで十分ではないか。そう感じるのは、彼の血の気の通った顔を見た瞬間から、物事に対する興味が失せていったからなのかもしれない。梓月や遇津と暮らした大八島国が無くなったことは確かに寂しい。けれど別の思い出を沢山作り、独り立ちしたアトランティスのこの街並みが残っているだけでも、それは素晴らしいことであると感じている。何よりも、梓月が生きているのだ。それ以外の何を求める必要があるのか、務には分からなかった。何故元の通りに戻ることは出来ないのだろう。今回に限ったことではない。些細なことで悩み、現実を嘆いていたその時は、あくまでも幸福だからこそその些細なことで思い悩むことが出来たのだ。幸福の褥にあるからこそ、それらは深刻さを増したのだ。それらの解決策として、日常の終焉を求めたことなど無い。そういえば嘘になるかもしれなかったが、此処までの変化など何一つ望んでいなかったことは、自信を持って宣言できる。
「そうだ、仕事の話は、務にしてくれ。俺が不在の間、あいつだって神代プロジェクトの多くを動かしていたのは事実だし、今だってそうだからな」
 冷酷な瞳のまま付け足すように、梓月が務を一瞥してから口にする。
 その声音を聞き取って顔を上げた務は、困惑したようにこちらを見ている間宮に気がついた。そんな彼を置き去りに、とりつく島もないといった装いで、梓月が歩き始める。こちらに手を振り、後を追っていく焔紀を見送りながら、務も気怠い身体を叱咤して、手を振り替えした。
 そうしていると、背後を忌々しそうに睨め付けてから、間宮がテラスの席へと歩み寄ってきた。
「おい、なんだよ、これは」
「これって? まぁ確かに僕相手じゃ仕事の話なんて、したくても出来ないかもしれないけど、少しは役に立つことだって――」
「違う。貧血か? 嫌違うだろ、お前の血を抜いているのか?」
「え?」間宮の糾弾するような声音に、務は虚を突かれて伸びるチューブを一瞥した。
「何してるんだよ、こんな」
「ああ、なんだか焔紀の実験で」
「お前がそんなものに協力する必要性が何処にあるんだ」
 怒った調子で間宮が務の腕を取り、注射針を抜きにかかる。
「ちょっと待ってよ、途中で止めたら焔紀が困――」
「自分の顔色を見てそういうことを言っているのか? どう見ても輸血が必要なのはお前自身だ。大体その目だって、一体どうしたんだよ? 怪我してる時に献血するなんてどうかしてる」
「嗚呼これは、焔紀が――……」
 再び友人の名前を口にした所で、務は口をつぐんだ。焔紀の名前を出すだけでも良い顔をしない間宮に、また彼の実験について語った所で、何故激しているのかは知らないが、更に間宮を怒らせるだけのような気がしたのだ。
「焔紀がなんだよ?」
「別に」
「言えよ」
「関係ないだろ」
 手際よく腕を止血し、献血パックの処理をしていた間宮が、務のふて腐れたような声音に対し動きを止めた。
「……関係ない、ね。それは、お前と焔紀の間のことに、俺は口を出す権利がないっていう意味か? お前が俺にはこれ以上踏み込まれたくないって事か?」
「両方。もう良いんだよ、間宮。梓月さんだってああやって帰ってきたんだし。別に僕のことを構ってくれなくて」
「人として、怪我をしている知人がいたら、その時心配をすることはおかしいか? お前は俺が仮に怪我をしていたら、心配なんかせず、笑って喜ぶのか? 焔紀の友達になれるんだから、それくらい出来るか」
「別におかしくないし、僕だって心配するよ。それに焔紀だって」
「本当に奴が心配するような人間らしい心を持ち合わせてるんだとしたら、お前のその右目に何をしたかも、人間らしい解釈が可能だよな? ただの好奇心だ。言えない事をされたわけじゃないんだろ? 別に。ただ、関係がないからいわないってだけなんだよな? それなら俺に、そのお前のお友達たる焔紀の良さとやらを教えてくれよ。このままじゃ在らぬ誤解をした俺は、変な噂をまき散らすかもな」
 小馬鹿にするように笑った間宮の顔を見て、務は溜息をついた。
「別に。ただちょっと眼球の再生速度の研究がしたかったんだって」
 似たような研究をしているのだから、普通のことだろうと考えて、務は腕を組んだ。
 しかしこわばった間宮の顔と、急に重くなった場の雰囲気に、思わず息を飲む。
「まさか、眼球をえぐり取られた訳じゃないよな?」
「そ、そうだけど。ちゃんと器具を使って両瞼を固定して、眼球だけ綺麗に。あ、視神経の再生も研究対象だったけど、そっちは途中で切断したから、別に脳までは」
「……全身麻酔だったんだろうな?」
「え? いや、ヒスタミンの分泌量とか計測していたみたいで、あれだよあれ、痛みの研究って言うの? だから麻酔はなしで、痛み止めもなかったんだ。それに、失血性ショックと多臓器不全の事も同時に――」
「何でそんなことをやらせるんだよ」
 務の隣に腰を下ろし、信じられないといった面持ちを、間宮が両手で覆い隠した。
 けれど、務には、何故これほどまでに間宮が深刻な顔をしているのか分からなかった。
「何でって、これで医療が進むんでしょ? それに焔紀は友達だから、もしその功績を彼が残せるんなら、僕も友人として嬉しいし」
「似たようなことを言って、一体何人の人間が亡くなったんだろうな。だから俺はあいつが嫌いなんだ。嫌、お前の場合はお前が悪いな。どうしてそんなに盲目的に他人を信じるんだ」
「信じてなんかいないよ。僕が人を信じられなくなったのは多分、君のせいだ」
「確かに俺がした数々のことはお前の精神を傷つけたのかもしれない。それこそ今焔紀がしてる事よりもな。でもな、断言して言う。俺が一度たりとも、お前の命に関わるようなことをしたと思うか?」
「間宮にされたことの方が、どう考えても命の危険を覚えたけど。だって、焔紀にされる事って言うのは、確かにいたいけれどね、どうせ治るし」
「お前案外執念深いな。――それに、治らないことだって在る」
「それこそ精神的な問題じゃないの? 例えば今の遇津さんみたいに。いつかの虫に食べられた僕みたいに。大体僕らの身体は不老不死何じゃないか」
「そういうのが一番分かりやすいからそういったんだ。実際には、お前みたいな一般人には分からない規則が沢山あるんだよ。確かに不老不死みたいなものだから、今まではその理解で構わなかったけどな。第一、梓月はそれを知ってるはずだ。あいつも何も言わなかったのか?」
 間宮の言葉を聞いている内に、医療従事者の間では普通なのだろうと考えていた事柄が、間違っていたのだと気づき狼狽えた内心と、梓月の名に、務は気がつけば、手をきつく握りしめていた。爪が食い込み、僅かに痛い。
「……言わなかったよ。そっか。やっぱり梓月さんは僕のことを恨んでいるのかな」
 自嘲するように笑いながら、務は呟いた。覚えた悲しみを押し殺そうと、オレンジジュースを口に含む。
「何かあったのか? 帰ってきてからの梓月は変だ。悲惨な経験をしたからだとばかり思っていたんだけどな」
「遇津さんと僕がその、そういう事をしているのを……見られたんだ。帰ってきたその時に」
「別にそれは仕方ないんじゃないのか。いなかった、すぐに生存を知らせなかったあいつにだって責任がある。まぁ俺もその点は、お前を最低だと思うけどな。それにしたって、あいつだってその辺りは、冷静に」
「最低だって遇津さんにいってたよ。裏切り者だって。どれほどあの人が苦しんでいたか何て考える余裕がなかったのかな。僕は、僕達への優しさだったんじゃないのかと思うんだけど……以来遇津さんは壊れちゃったみたいで」
「梓月が確かにそんなことを言ったのか?」
「そうだよ。どうして?」
「もう一度梓月と話してくる」
「え? 間宮待ってよ、別に」
「あいつがその件で、お前の生死に関わるような焔紀の戯れを許容する程馬鹿な奴のはずがないだろ。何を考えてるんだよ、梓月は」
 苛立つように立ち上がり、走り出した間宮を呆然と眺めたまま、務は小首を傾げるしかなかった。もう、どうでもよかったのかもしれない。ただ、あれほど間宮を頼れと言っていたくせに、今は焔紀と共にいる梓月のことを思った。焔紀といると言うことは何かを捨てなければならないと言うことらしい。では、梓月もまた何かを捨てたのだろうかと、漠然と務は考えた。
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