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第八章 蒲生氏郷編 賤ケ岳の戦い

第106話 名将は去り行く

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主要登場人物別名

忠三郎… 蒲生賦秀 蒲生家当主 後の氏郷
作左衛門… 小倉行春 蒲生家臣 賦秀の従兄弟
将監… 町野繁仍 蒲生家臣

慶次郎… 前田利益 滝川家臣

――――――――

 
 小倉行春の急報を受け、蒲生賦秀は慌てて西方城の物見櫓に登った。
 眼下では既に小倉行春・関盛信・前野長康らの部隊が展開し、桑名城と長島城から押し出して来た滝川勢と激しい銃撃戦を展開している。
 早朝にもかかわらず後詰が籠る各付城も慌ただしく旗が動いており、既に戦場のそこかしこからは黒煙がたなびいていた。

 視線を左に移すと、町野繁仍の一手が大鳥居砦を押し出して敵を取り囲む動きを見せている。

 ―――仕掛けが早い。まだ敵は桑名だけと決まっていない。

 町野の押し出しを尚早と見た賦秀は、傍らの赤座隼人に大声で怒鳴った。

「隼人! 一千を率いて作左衛門の後詰に出ろ! 将監を大鳥居へ戻す」
「承知!」

「将監に使番を出せ! 長島の敵は未だ全て桑名に来ると決まっていない! 大鳥居砦へ戻り、長島城からの敵を警戒しろ!」
「ハッ!」

 下知を受けた赤座隼人と近習が荒い足取りで櫓を下りる。
 視線を戦場に戻した賦秀は、今一度滝川勢の配置を詳細に検討した。

 長島城からは小舟に乗った軍勢が続々と続いているが、それらが反転して大鳥居や香取方面へ向かえば今度は蒲生が背後を取られる展開になる。
 軍勢の数で優っている有利さからか、賦秀の判断はあくまでも冷静だった。

 しばらくすると、賦秀の予想通り長島城のある中州を出た小舟の半数は香取方面へと向かっている。蒲生勢の背後を突く構えだ。

「出陣する! 敵の主力は香取方面だ!」

 一声叫ぶと、そのまま物見櫓を駆け下りて軍勢の待つ城門前に向かう。軍勢が整うのを待つと、城門を開いて一番に飛び出した。誰が何と言っても陣頭に立つ所は相変わらずだが、賦秀直下の馬廻も慣れたもので賦秀の出撃に続いて後を付いて来る。
 ある意味で息の合った主従と言えた。



 ※   ※   ※



「見破られたか」

 長島城の物見櫓から対岸の様子を伺いながら、滝川一益は一人毒づいた。
 数に劣る滝川勢は蒲生の裏をかかなければ一気に敵を突き崩すことは出来ない。ましてやグズグズしていると蒲生の後方に陣取る織田信雄の軍勢も参戦して来る。
 桑名城周辺はお互いの鉄砲隊が撃ち合っており、お互いに一歩も退かない状況になっている。とすれば、香取に軍勢の比重を置く蒲生には太刀打ちできない。
 つまりは、初手の情勢は滝川に不利だった。

「大人しく桑名へ援軍を回して居れば良い物を」
「このままでは香取方面へ出した兵は蒲生本陣の押しつぶされましょう。何か手を打たねば……」
「分かっている」

 益氏の言葉に急かされながら、一益の頭は唸りを上げて回転している。
 この後の戦い方を想定しながら、様々な手が頭に浮かんでは消えているのだろう。

 やがて一益が結論を出すのを益氏は辛抱強く待った。

「やむを得ん。慶次郎を香取への後詰に回せ」
「ハッ!」

 統制の取れた部隊による進退が一益の美学だった。その意味では、単騎で戦場を駆けたがる前田利益は扱いにくいことこの上ない。
 だが、こうなればやむを得ない。現実に蒲生は香取に上陸した軍勢を圧迫している。放置していれば制圧戦で主力となる長柄隊や足軽隊が追い散らされる恐れが高い。
 四の五の言っている場合では無かった。

 益氏が伝令を走らせると、やがて長島城の前に控える一隊が動き出す。先頭を駆けるのは目に鮮やかな萌黄色の具足を着た前田利益だ。

「あ奴め。相変わらず先頭を駆けたがる。どこぞの子倅と同じではないか」

 一益の呟きは誰の耳にも届かずに消えた。周囲には変わらず銃撃音が響いていた。



 ※   ※   ※



「はっはぁー! 忠三郎殿! また会ったな!」

 突然自分の名を呼ばれて賦秀は視線を巡らした。長良川に浮かぶ小舟の舳先には、見覚えのある萌黄色の男が片足を船のヘリに立てながら何やら喚いている。
 相手が誰かは問い返すまでも無かった。

「すまんが今日は相手をしている暇が無い! 鉄砲!」

 賦秀の合図で馬廻の鉄砲組が川べりに並び、近付く小舟に鉄砲を撃ちかける。

「ぬお! つれないことをするではないか! 儂と貴殿の仲であろう」

 ―――いつ、誰が深い仲になった

 利益が喚く声を聞き流しながら、賦秀の目は既に上陸していた敵部隊へと注がれている。

「右翼から食い破るぞ! ついて参れ!」

 一声叫ぶと敵の右翼側に向かって駆け出した。相変わらず部隊の先頭を駆けるのは燕尾型の兜だった。

 蒲生勢の突撃を受けて敵勢が混乱する。通常であれば追い散らせば充分だったが、今回ばかりは上陸した部隊を徹底的に叩くつもりだった。
 ここで滝川勢の数を減らせば、今度こそ滝川一益は長島城に籠ることしかできなくなる。

「命を惜しむな! ここで敵を叩かねばまたやって来るぞ!」

 喚きながら手近な敵兵を一突きに仕留める。
 前線で戦う賦秀の姿を見て周囲の馬廻も奮戦し、敵の部隊が崩れようとした時、突然空を裂いて槍先が賦秀の目の前に飛び込んで来た。
 間一髪のところで首をひねってかわしたが、槍は賦秀の頬を掠めた。

「わはははは。さあ、今度こそ!」
「しつこいぞ! 今日は忙しいと言っているだろう!」
「出会ってしまった物は仕方がないだろう。ゆくぞ!」

 再び突き出された利益の槍をかわし、賦秀が横薙ぎに槍を振るう。利益は賦秀の槍を受け止めたが、手近な敵兵が血をまき散らして倒れた。
 利益へ向けた薙ぎ払いであると同時に、大きく振りかぶった槍先は手近な敵兵も巻き込んでいた。

 次の瞬間、賦秀の周囲を固める馬廻から数騎が飛び出して利益に襲いかかる。だが、利益の方は襲い掛かった馬廻をこともなげに突き倒していった。

 ―――厄介な

 賦秀も心の中で毒づく。前田利益は確かに面白い相手ではあったが、少なくもこの乱戦の中で出会いたい相手ではなかった。

「やむを得ん。一旦下がって態勢を……」

 賦秀が号令を下しかけた瞬間、利益らの後方から蒲生勢目がけて鉄砲が撃ちかけられる。利益に気を取られていた蒲生勢は、鉄砲隊の銃撃をまともに食らってしまった。

「ちい! 伯父御め、余計なことを」

 意外なことに援護を受けた利益まで毒づく。だが、その瞬間を賦秀は見逃さなかった。

「下がれ! 一旦退くぞ!」

 素早く馬首を返した賦秀は、大鳥居砦まで下がって町野繁仍と合流した。



 ※   ※   ※


 長島城の滝川一益は、香取周辺へ目を凝らしていた。
 視線の先では蒲生賦秀の軍勢が大鳥居まで下がっていくのが見える。

「よし、子倅を押し返した。このまま香取砦を奪取して……」
「殿!」

 益氏が桑名城の方を指さしながら叫び声をあげる。一益が桑名方面へ視線を移すと、ちょうど滝川の鉄砲隊が崩れた所だった。

「何! やられたのか!」
「蒲生にやられました。五百の兵に後ろを突かれ、崩れ立っております」

 ―――やられた

 この瞬間、一益は自分が賦秀にしてやられたことを知った。
 桑名は鉄砲の撃ち合いでお互いに牽制しあい、香取砦・大鳥居砦を主戦場にしようと考えた一益は、香取方面へ後詰を増強した。だが、蒲生は最初から桑名城を狙って動いていたことをここに至って気付いた。正確には滝川の虎の子である鉄砲隊の数を減らす作戦だ。
 主力と思っていた賦秀本陣はただの囮だった。

「新助に伝令だ! 兵を退かせろ! 急げ!」
「ハッ!」

 伝令が長島城を飛び出して桑名方面への小舟へと乗るのを見届けながら、一益は深くため息を吐いた。

「やはりお主の言う通り、子倅と侮ったのが間違いだったか」
「なんの、まだ巻き返す機会はございましょう」

 既に日も中天に近くなり、早朝から続いた戦はひと段落を迎えつつある。
 一益がいかに名将とはいえ、今日中に蒲生を打ち破るのは不可能だった。

 また一つため息を吐いた一益が窓際を離れて床几に腰を下ろしたちょうどその時、一人の鎧武者が慌ただしく一益の元へ駆け寄って来た。

「殿、伝令にございます。 近江より、こちらが」

 そう言って差し出された書状は通常の物とは違い、小さく折りたたまれている。
 十中八九、物見に出していた諜者の報せだ。

 少しづつ丁寧に書状を開き、書かれた文字に視線を走らす。瞬間、一益は思わず床几を蹴って立ち上がっていた。

「なんだと!」

 そのまま絶句した一益に益氏が声を掛ける。

「物見は何と?」
「柴田が……負けた」

 益氏が目を瞑って深く息を吐く。その顔にはあきらめの感情が込められていた。


 天正十一年四月二十日
 滝川と蒲生が伊勢で合戦をする二日前に柴田勝家は賤ケ岳にて羽柴秀吉に敗れた。
 再び岐阜で挙兵した織田信孝を討つ為、秀吉が美濃に兵を向けたことを好機と捉えた柴田軍の佐久間盛政は、大岩山砦を攻撃して中川清秀を敗走させ、続いて岩崎山の高山右近を撃破した。

 だが、勢いに乗った佐久間盛政は柴田勝家の撤退命令も聞かずに賤ケ岳砦へと攻撃を開始する。
 一時は賤ケ岳砦も落城寸前となったが、柴田勢から大きく突出する形となった佐久間盛政に対し、坂本から船で海津に上陸した丹羽長秀が側面から攻撃を加え、賤ケ岳砦の防衛に成功する。
 時を同じくして大垣から大返しにて北近江に兵を戻した秀吉は、間髪を入れずに佐久間盛政に攻撃を加えた。

 両軍は一時激戦となったが、かねてより秀吉と気脈を通じていた前田利家が突如として戦線を離脱したため、後方の守りを失った佐久間盛政は兵の士気を保てずに崩れた。佐久間隊の士気の低下は柴田軍全体に波及し、やがて柴田勝家の軍勢は総崩れとなった。


 ひとしきり書状に目を通した一益は、益氏と同じように瞑目して深く息を吐いた。

 ―――儂も、これまでか

 その気持ちが心中を満たしていた。
 柴田勝家が秀吉に負けた以上、滝川単独ではどうしようもない。自ら北上して秀吉を突き崩すつもりだったが、それは柴田が健在であればこそ有効なのだ。
 柴田が敗走したとなれば、例え滝川が北上したとしても今度は秀吉と正面からぶつかるだけだ。そうなれば、単純に五倍以上の兵力を有する秀吉に勝てる見込みは無い。
 つまりは、滝川一益が羽柴秀吉に勝つ目は無くなった。

「桑名城の兵を長島城まで引き上げさせろ」
「……ハッ!」

 この後、柴田勝家は北ノ庄城で自害し、岐阜の織田信孝も兄の信雄によって切腹させられた。
 滝川一益はそれから尚も一月の間籠城を続けたが、衆寡敵せず長島城を開城。秀吉に降伏し、京都妙心寺にて髪を下ろして出家する。
 織田家中において『進むも退くも滝川』と称された名将は、ついに所領を全て失って没落した。

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