鶴が舞う ―蒲生三代記―

藤瀬 慶久

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第八章 蒲生氏郷編 賤ケ岳の戦い

第100話 清州会議

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主要登場人物別名

忠三郎… 蒲生賦秀 蒲生家の新当主 後の蒲生氏郷
左兵衛大夫… 蒲生賢秀 蒲生家当主 本能寺の変を機に賦秀に家督を譲る

――――――――

 
「蒲生殿は確かに上様の妻子を保護されて明智に反抗し、ついには安土城を奪還するという武功を挙げられた。だが、戦働きは主に御子息の忠三郎殿がされたものだ。
 上様の娘婿でもあるし、恩賞というならば忠三郎殿に下されるのが筋ではないかな?」

 清州城の広間で秀吉が滔々と述べた。
 織田信長亡き後、織田家の重臣が集まって今後の織田家の行く末を決めるいわゆる『清州会議』の席上のことだ。

 ちなみに、従来清州会議は織田家の後継者を決める会議とされ、織田信孝を後継者に推す柴田勝家と信長と共に亡くなった信忠の嫡男三法師を推す羽柴秀吉が対立したとされているが、それならば会議は安土城か岐阜城で行われるのが筋であったように思う。つまり、信忠の嫡男三法師が織田家の家督を継ぐのは織田重臣層の中では既定路線であったのではないか。それ故に安土でも岐阜でもなく、『三法師の居る清州城』が会議の場所に選ばれたのではないかと思う。

 つまり、織田家の家督は三法師が継ぐことは最初から決まっていた。会議が紛糾したのはその後の遺領の再配分であっただろうと思われる。

 尾張や岐阜、それに丹波国などの領地配分は既に決し、今は近江国の分配が問題になっていた。
 越前に本拠を置く柴田勝家は、これ以上羽柴秀吉の勢力が増えることを阻止したいという思惑がある。何せ石高の上では丹波と山城を加増された羽柴秀吉が柴田勝家を上回り、織田家中最大の勢力となっている。
 信長の敵討ちという大功を立てたのだから羽柴への大幅な加増は認めざるを得ないが、それにしても今まで織田家の筆頭家老として信長から最も信頼されていた柴田勝家としては面白い事態ではない。
 その為、羽柴の加増に伴って羽柴の旧領である長浜城と北近江三郡は柴田勝家の甥である柴田勝豊に下されるようにという条件を付けたりしている。
 秀吉としてはそのみみっちさに辟易していたところだった。

 今の議題は本能寺の変に際して安土城から信長の妻子を避難させた蒲生の加増をどうするかということが話し合われている。

「忠三郎殿か……確かに日野は三法師様の相続される安土にも近く、義理の叔父である忠三郎殿に下された方が三法師様も心強いかもしれぬ」

 秀吉の案に丹羽長秀が同意した。

「柴田殿は如何かな?」
「ふむ……確かに忠三郎殿ならば良いかもしれぬな」

 ―――かかった

 秀吉は内心の笑みが顔にこぼれぬように慎重に無表情を装っていたが、心中では快哉を叫んでいた。
 蒲生は元々柴田勝家の寄騎となっていた者であり、どちらかと言えば柴田寄りであると勝家は見ているのだろうが、秀吉は敢えて蒲生賦秀を推すことで蒲生を取り込む腹積もりだった。

 そもそも長浜城を与えられた柴田勝豊は、柴田勝家の養子ではあるが、同じく柴田勝家の養子である柴田勝政と仲が悪い。そして何かと柴田勝政の肩を持つ柴田勝家にも反感を持っている。
 つまり、長浜城の柴田勝豊は必ずしも柴田勝家に付くと決まったわけでは無い。むしろ柴田勝豊には付け入る隙があると秀吉は見ていた。

 近江国内で秀吉が警戒していたのは日野の蒲生だ。
 安土城からわずか半日という要地を領しながら現当主の蒲生賢秀は頑固者であり、ひたすら織田家に忠義を尽くすことだけを考える偏屈者だ。秀吉にとっては扱いにくいことこの上ない。
 それに対し、息子の賦秀は若さ故か武功に逸り、他人から認められたいという欲求が見え隠れする。欲心がある者ならば、その欲心を利用して操るのもそう難しくはない。『人たらし』と呼ばれた秀吉は、蒲生賦秀を与しやすい男と見ていた。

 柴田勝豊に加えて蒲生賦秀が近江国内で力を持つのならば秀吉にとって悪くない。蒲生賢秀もそろそろ隠居する年になる。そうなれば、蒲生家そのものを口説き落とすこともそう難しいことではない。
 事実上近江は自分の意のままになると見ていた。

「では、蒲生忠三郎殿には某がこの件をお伝えいたしましょう。どの道姫路に戻る道すがらでござる」
「それでは、そのように」

 話は次の議題に移ったが、秀吉はもうその先に口出しすることは無かった。
 目的は達した。近江は半ば抑えたと言っていい。後のことは些事といってよかった。

 清州会議の結果、蒲生賦秀には佐久間信盛の旧領である近江国野洲郡のうちから一万石を与えられることになった。



 ※   ※   ※



「某の提案に則り、蒲生忠三郎殿には野洲郡の内で一万石を下されることと相成った。これがその安堵状でござる」

 清州会議の後、日野中野城を訪れた秀吉は賢秀、賦秀の歓待を受けていた。既に安土城には三法師が入城することが決まっており、賢秀には引き続き三法師に忠勤を尽くすことという沙汰が下されている。

 賢秀は畏まって頭を下げていたが、隣で頭を下げる賦秀は少し不満そうだった。
 その顔を見とがめ、秀吉がにこやかに賦秀に問いかける。

「一万石ではご不満であったかな? 忠三郎殿」
「いえ、決してそういう訳ではありませんが……」
「そういう訳ではないが……?」

 相変わらずのニコニコ顔で秀吉が先を促す。下を向いて言い淀んでいた賦秀も意を決したように顔を上げた。

「出来ますれば、嶋郷を頂戴致しとうございます」

 嶋郷とは八幡山周辺の一帯だ。賦秀は以前に見た八幡山からの景観が忘れられなかった。八幡山に城を築きたいという思いは日増しに強くなっている。
 それに日野に加えて嶋郷を蒲生が領すれば、蒲生は安土城の南と西を抑える防壁となる。三法師に忠勤を尽くすという意味では賦秀の言葉は筋に外れた物では無かった。

「これ、弁えぬか」
「ああ、良いとも良いとも。何とも覇気のある御子息ではないか。左兵衛大夫殿が羨ましいですぞ」

 隣の賦秀をたしなめた賢秀に対し、秀吉は変わらずにこやかに対応している。だが、内心では賦秀の提案を苦々しく思っていた。

 そもそも八幡山は秀吉自身が近江支配の好適地として目を付けていた場所だ。そこを蒲生に呉れてやる気など最初から無かった。だが、それを口にするわけにはいかない。あくまでも今の秀吉は織田の重臣であり、嶋郷は織田三法師の御料地だからだ。

 ―――若造が

 内心の腹立ちを抑えながら、秀吉は相変わらずにこやかな笑顔を崩さずに言い放った。

「申し訳ないが、その儀は某の一存では何とも……。何せ、上様ご遺領の配分は某の一存で決したわけではございませんでな。配分を変えるとなれば、柴田殿、丹羽殿、池田殿にも再び集まって頂かねばなりませんし……」
「左様ですか」

 あからさまな落胆を表した賦秀を見て秀吉は再び機嫌を直した。
 感情が顔に出る男ほど扱いやすい者は居ない。賢秀は先ほどからむっつりとした顔を崩さないが、秀吉にすればその方がよほどにやりづらかった。

「左兵衛大夫殿には申し訳なきことながら、蒲生家への御加増は認められなんだ。某は此度の左兵衛大夫殿のお働きこそ比類なしと申し上げたのだが……」

 言外に他の誰かが反対したのだと匂わす。無論、誰が反対したかなどという言質は与えないが、長浜城が柴田勝豊に与えられたと知れば、近江の仕置きに異論を挟んだのは柴田勝家だと考えるだろうと計算してのことだ。
 だが、そんな秀吉の言葉にも賢秀は眉一つ動かさなかった。

「某は当然のことを為したまで。御加増などと過分な沙汰でございます。息子をお取立て頂いた三法師様の御厚情こそ有難く存じております」

 一瞬、秀吉の顔が笑顔のまま固まる。
 安堵状の差出人は羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の四名の連署で出されているが、賢秀は敢えて三法師に感謝する旨を申し述べた。
 これは、蒲生が以後も織田家に忠勤を尽くす肚積もりであると明言した形だ。

 ―――この偏屈者が

 秀吉の内心では次の天下人は自分だと言う意識が芽生えている。信長の子の中で妙齢にあるのは次男信雄と三男信孝だが、この二人はとても信長の覇業を継げる器量ではない。織田家の重臣にしても、柴田、丹羽、滝川、池田、いずれも自分をはるかに超える器量良しとは到底思えない。であるならば、事実上信長の後を継ぐのは自分しかいないと思い始めている。
 その内心の思い上がりに冷や水を浴びせられた格好だ。

 だが、秀吉もその程度で感情を露わにするほど馬鹿ではない。
 賢秀がたらし込めぬと知るや、すぐさま賦秀に狙いを変じた。

「されど、此度の忠三郎殿のお働きは万人が知るところ。いち早く安土城周辺を鎮めた手腕はお見事にござった」
「いえ、何ほどのこともしておりません」

 口では父に倣って謙遜しているが、その顔には隠しようのない喜色が浮かんでいる。

 ―――今後は息子を取り立ててゆこうか

 秀吉は扱いやすい賦秀を蒲生の主流にしていこうと心中秘かに決した。この阿呆ならば思うままに操れる。親父と比べてはるかに扱いやすい男だと感じた。



 ※   ※   ※



 秀吉が中野城を立った後、賢秀は中野城の広間に重臣たちを集めた。
 情勢が情勢でもあり、何か非常の備えがあるのかと集まった者達は不安げな顔をしている。信長の敵討ちは終わったとはいえ、柴田と羽柴の仲が決して良くないことは誰もが知っていたからだ。

「皆鎮まれ」

 上座の賢秀の一言でざわめきが収まる。全員が固唾を飲んで賢秀の次の言葉を待っていた。

「此度安土城を明智方より奪還した功により、我が蒲生は一万石の御加増を賜ることとなった」

 再び広間にざわざわとした空気が広がったが、今度のざわめきは幾分か喜びを含んだ物になっている。

「ただし、此度の御加増は忠三郎に下されたものだ」
「殿。それはいかなお沙汰で……」

 小倉行春が堪りかねて賢秀に問いかける。行春の問いに対し、賢秀の口元が皮肉そうに歪んだ。行春だけでなく広間の全員が常とは違う主君の顔に戸惑ってしまっていた。

「さしずめ、織田家に忠義を尽くす儂が邪魔になった誰かの差し金であろう。強情な儂よりも若い忠三郎の方が御しやすいと思った誰かの、な」
「考えすぎということはありませぬか? 若殿が武功を挙げられたのは事実でございますし」
「かもしれぬ。それは今後の織田家中の動きを見れば分かるだろう。実のところ、儂は誰が天下を握ろうが興味は無い。上様の次の天下人が羽柴であろうと柴田であろうと、どうでも良い。
 だが、その中で三法師様がないがしろにされることだけは防ぎたいと思っている。六角の御屋形様の御命を繋いだ父と同じく、儂も織田家の命脈を保つためにこそ働きたいと思っている」

 突如ガタンと音がした。見ると賦秀が蒼白な顔で立ち上がっている。
 その顔は、秀吉に侮られていたのだということに初めて思い至った顔だった。

「父上、某は……」
「落ち着け、忠三郎。皆も聞けい。それ故、儂は本日をもって蒲生家の家督を忠三郎に譲る」
「父上!」
「落ち着けと言っている。今後の天下がどうなるかは分からん。それ故、そなたは羽柴殿の意に従え。何も気づかぬふりをしながら羽柴殿が三法師様をないがしろにせぬように心を砕け」
「……もしも羽柴が滅びたら?」
「その時は、儂が再び家督に着く。羽柴に従ったのは全て忠三郎一人の考えであるということにする」
「そ、それでは……」
「儂は再家督の上で三法師様の御身をお守りする覚悟だ。これからの世は再び荒れる。だが、どのような世になっても蒲生が生き延びていなければ三法師様の御身をお守りすることは叶うまい」

 賢秀の非情なまでの覚悟に賦秀や家臣達も戦慄した。
 秀吉の経略を逆手に取り、騙された振りをして蒲生の安全を確保しようというのだ。旧主信長の嫡孫を守るために。
 それはまるで、六角親子の命を守る為に織田に降る決断をした蒲生定秀の姿そのものだった。

「忠三郎。今後の蒲生はお主が率いることになる。しっかりと励め」
「……ハッ!」

 こうして、天正十年七月に蒲生賢秀は家督を忠三郎賦秀に譲って隠居した。
 信長亡き後の乱世は、まだ始まったばかりだった。

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