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第七章 蒲生賢秀編 本能寺の変

第99話 次なる戦乱へ

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主要登場人物別名

左馬助… 明智秀満 明智家臣
日向守… 明智光秀 明智家当主

――――――――

 

 賦秀は五百の手勢を率いて日野川沿いに下り、八幡山周辺まで軍勢を進めていた。
 父の賢秀は伊賀の織田信雄を待ち、信雄と共に安土城に向けて進軍する手筈となっている。賦秀に与えられた役目はそれまでに各地の近江衆を改めて懐柔することだ。

 幸いにして、明智の主力は中国から戻った羽柴勢と相対するために京に出払ってしまっている。一旦は日野に攻め寄せた明智秀満も今は安土城の留守居役として守りを固めており、賦秀の軍勢に対して行動を起こしては来ない。
 明智と羽柴の決戦を前に、近江国内は奇妙な静けさに包まれていた。

 賦秀は思い立って八幡山に登り、周囲の景観を確認した。
 西にはかつて九里氏の本城である岡山城のあった山地が見える。往時は堅城と評された岡山城も既に廃城となって久しく、今は青々とした山地が続いている。
 東に目を転じると安土山やきぬがさ山が見え、眼下には青々と続く田園が広がる。

 ―――良い場所だ

 賦秀はこの地に城を築けば近江を一望に出来る名城となると直観した。
 岡山城の隣には長命寺があり、そこから内湖へと水路が続いている。水軍の船があちこちに見え、八幡山城の流通路が申し分ないことを教えてくれる。
 仮に自分が南近江を任されるのであれば、ここに城を築きたいと思った。

「若! 長命寺の僧が禁制を頂きたいと申し出てきております」

 禁制とは乱暴狼藉を行わないことを約束した立て札で、これがあれば寺や村は略奪を免れる。以前は引き換えに米や銭を受け取るのが習わしだったが、賢秀の厳命により蒲生の禁制は無償で発行することとされていた。
 全ては近江の民衆の支持を取り付けるためだ。

「わかった。直ぐに下りる」

 町野繁仍の声に振り返った賦秀は、景観を惜しむようにもう一度視線を戻した。湖面は先ほどと変わらず穏やかにそよいでいる。だが、意を決したように再び背を向けると、足早に八幡山を下って行った。
 周囲に敵勢の影は見えないが、北近江の長浜城は既に明智勢に占拠されたと聞いている。いつ敵勢が蒲生軍に攻めかかって来ても不思議ではない。いつまでも山の上に陣取っていれば逃げ時を失う恐れもあった。

 ―――いずれ

 この山に城を築きたい。
 その想いを残しながら、賦秀は茂った木々を押しのけて山道を下った。



 ※   ※   ※



「ま、まことか!」

 安土城の留守居役を務めていた明智秀満は、西からの使者の報告に驚きの声を上げた。

「山崎の合戦にてお味方敗北。主君日向守様は行方知れずとなり……」

 使者の衣服には赤黒い染みが無数にあり、着たままの具足は泥と傷で見るも無残な姿になっている。
 敗戦の中、安土城に報せをもたらすために必死で駆けて来たのであろうことは容易に察せられた。

 ―――言わぬことではない

 例え京を失うことになろうとも、今は近江に籠って堅守すべきだったのだ。聞けば細川や筒井も羽柴に味方し、こちらはほとんど近江勢だけでの戦となったと聞く。
 いや、そもそも謀叛など起こさなければこんなことにはならなかった。軽い思い付きという訳でも無いだろうが、今となれば本能寺の変当時の光秀はどこか常軌を逸していたような気がする。心の平衡を欠き、半ば衝動的に謀叛を起こしたのではないかと秀満は密かに思っていた。

 ―――公方様の援軍は間に合わなかったか

 信長を討った後、光秀が最も頼りとしていたのは鞆に逃れた足利義昭だ。義昭の側には六角義治が近侍している。
 六角の声望をもってすれば、近江を完全に平定してそれなりの戦力を整えることは出来たかもしれない。

 もっとも、毛利を擁した義昭の援軍がそれほど素早く駆け付けてくれるかということには当初から疑問があった。
 元々織田信長が畿内で四苦八苦していた時にも毛利の動きは鈍かった。信長が討たれたからと言って、はいそうですかと素直に兵を畿内に送るとは思えない。

 亡き毛利元就が『天下を望まず』と語っていたことは秀満も聞いていた。天下を望まない家が、天下の変事を好機として短兵急に軍を起こすだろうか?
 普通ならば、天下の成り行きを息を潜めて窺うという方がしっくりくる。光秀は義昭が陣頭に立てば必ず毛利も兵を出すと言っていたが、それが希望的観測に過ぎなかったことは既に証明された。

「ともあれ、今は殿と合流することが先決だ。羽柴に敗れたのならば今は一兵でも必要なはず。安土に籠る兵を全て連れて京へ参るぞ」
「しかし、安土城の守りはいかがいたしましょう」
「……捨て置け。京で殿が討ち死にされれば、どの道安土城は孤軍となる。今更必要もあるまい」
「ハッ!」

 山崎から駆け付けて来た使者に休息を取らせるように指示を出すと、秀満は慌ただしく軍勢をまとめ始めた。こうなっては一刻も早く京へ上らねばならない。安土城一つにこだわっている暇など無かった。



 ※   ※   ※



 京を目指した明智秀満は、瀬田川を越えて大津に入った所で羽柴軍の先鋒と遭遇した。視線の先には長浜城主堀久太郎秀政の馬印が見える。
 堀秀政は信長の小姓から取り立てられた男であり、信長によって見出された武将だ。大恩ある主君信長を討った光秀を決して許しはしないだろう。

 すでに明智光秀の本軍は散り散りとなり、光秀自身も山科小栗栖で討たれたという噂は聞こえて来ていた。当初日野中野城を攻めた五千の軍勢は光秀の敗戦を知るとその多くは逃げ散り、今では五百を少し下回る程度になっている。とてもではないが、山崎の合戦に勝って意気盛んな堀秀政とまともに戦えるとは思えない。
 しかも、後ろからは蒲生賦秀が軍勢を率いて追ってきているかもしれないのだ。

 八幡山に陣取っていた蒲生は、秀満の軍勢が安土から京方面に移動すると見るや、僅かな手勢で奇襲攻撃をかけてきた。
 無論、光秀が山崎の戦いに敗れたことを知っていての挑戦だろう。

 秀満は抑えの兵に賦秀を任せて先を急いだが、配下の近江衆にも光秀死すの報は聞こえているかもしれない。そうなれば、蒲生を押し留めるどころか蒲生に降り、矛を返して攻めかかって来る恐れすらある。
 秀満は進退窮まった。

「北へ! 坂本城へ引き上げるぞ!」

 周囲の者が力なく応える。士気と言う面で言えば、明智勢には既にまともに戦える士気は無い。堀秀政の軍勢を突破できずに次々と討たれ、あるいは追い散らされて逃げてゆく兵を見て秀満も観念せざるを得なかった。

 ―――もはやこれまで

 かくなる上はここを死に場所と定めてひと暴れするか、それとも敵に討たれる前に自ら腹を切るかと思い始めた時、秀満は何故かふと右に視線を移した。
 右側には広大な湖が広がり、におの浜には波が穏やかに打ち寄せている。

 そう言えば、いつぞや水軍の者から聞いたことがあった。琵琶湖は遠浅で、浜から一町(約百メートル)離れた所でも大人ならば足が着くと。
 一方で鉄砲は浜から一町も離れれば命中力は怪しくなる。矢くらいならば多少食らってもどうということは無いし、大軍を持って攻めかかることも出来ないはずだ。

「続け!」

 秀満は側近の者にそう告げると、馬腹を蹴って鳰の浜から湖の中へと馬を進めた。
 もはや考えての行動では無かった。直観的に、湖を渡れば敵は追って来れないと思っただけだ。前にも後ろにも敵が居るのならば、死中に活を求めるしかない。

 秀満の愛馬はそんな主人の想いに応えるように、水面から必死で首を突き出して息を吸いながら一歩づつ湖底を蹴って前に進む。目指す先は北の坂本城だ。
 側近の者も意を決して―――というよりは半ば反射的に秀満に続いたが、次々に馬が足を滑らせ、また水面から顔を出すことが出来ずに水中に沈んでいく。

 そんな秀満主従の姿を認めて、岸からは大きな笑い声が響いた。堀隊の足軽達がまるで入水自殺のように水中に飛び込む秀満主従に呆気にとられ、次いで水中に馬を進めようと必死な秀満の姿を滑稽な物として笑い始めたのだ。

 秀満はそんな岸の笑い声をものともせずに必死で手綱を捌いている。時々馬が水草に足を取られそうになるが、間一髪のところで馬は転ばずに前に進んでいる。

 ―――よし!いける!いけるぞ!

 そう思った瞬間、湖底の石に生えた苔に足を取られて馬がバランスを崩す。間一髪転倒を免れたが、秀満は頭から水を被って全身がびしょびしょに濡れた。
 それでも歩を進め続けた秀満は、何とか唐崎に上陸するとそのまま単騎で一路北を目指した。



「なんと!水に沈むかと思いきや、首尾よく上陸を果たすとは!」

 今の今まで秀満を馬鹿にしていた足軽達は、秀満が唐崎に上陸するの遠目に認めると一転して首を討つために駆けだそうとした。
 だが、堀秀政はそんな軍勢を制止した。

「殿、何故左馬助を見逃すのです」
「良い。もはや日向守は死んだ。それに、逃げたと言っても左馬頭ただ一騎だ。何ほどのことも出来まい。
 それよりも、残っている者達を捕らえて武装を解除させよ」

 堀秀政は明智秀満が逃げた先は坂本城だろうと当たりを付けていた。確かに坂本城は堅城だが、それも兵あってのことだ。
 秀満ただ一騎が逃げ込んだ所で大した違いはない。
 むしろ主君が死に、それでも必死に逃れようとする秀満を憐れにさえ思った。

 堀秀政の予想通り、明智秀満は坂本城に逃げ込んでいた。だが、翌日隊列を整えた堀隊が迫ると抗し切れぬと悟った秀満は城に火を放って自害した。



 ※   ※   ※



 明智秀満が坂本城に火を放っている頃、蒲生賢秀は織田信雄を安土城に入城させ、自身は日野から甲賀に避難していた者達を日野に戻すために中野城に戻っていた。
 中野城にはお鍋の方を始めとした信長の妻子も未だとどまっている。そういった者達も再び安土城に返す手配りをしなければならない。

 近江国内に残っていた明智勢力も光秀討死の報せを聞くと即座に逃走し、各地の城は主のいない状態になりつつある。場合によってはこれらの空城も守備隊を置かなければならない。空き巣を狙って盗賊などが跋扈したりすれば大変なことになる。

 光秀が討たれたからと言っても賢秀の仕事が終わるわけではなかった。

 そんな中、安土周辺の治安維持を行わせていた賦秀から緊急の報せが来た。安土に入城した織田信雄が失火により安土城の本丸を焼いたというのだ。
 本丸の火は江雲御殿にまで及び、二の丸を残して安土城はすっかり焼け落ちてしまったという。さすがの賢秀も開いた口がふさがらなかった。
 失火と言っているが、そもそもこれから織田家の後継を決めるという一大事が控えているこの時にあって失火を起こすと言うこと自体がたるんでいる証拠だ。緊張感が足りないと言わざるを得ない。

 信長と嫡男の信忠が京で亡くなった以上、次に織田家を継ぐのは順当に行けば次男の信雄になる。その肝心かなめの信雄がこの体たらくでは、織田家の先行きは暗いかもしれない。

 ―――これから再び世は荒れるか

 天下人であった織田信長の死は、それほどの衝撃を世の中に与えるだろう。
 近江はここの所平和に過ごしていたが、再び戦乱の時代を迎えることになる。その中にあって賢秀は、父定秀と同じように老兵である自分は身を引くべきではないかという思いを持った。
 無論、全てを任せきりにするには賦秀は未だ危うい。だが、それでも当主としてこれからの蒲生の舵取りを任せるべきではないかと朧気に思い始めていた。


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