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第七章 蒲生賢秀編 本能寺の変

第87話 安土築城

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主要登場人物別名

左兵… 蒲生賢秀 左兵衛大夫 蒲生家当主 織田家臣
忠三郎… 蒲生賦秀 賢秀の嫡男

山城守… 進藤賢盛 進藤家当主 織田家臣 六角旧臣
右衛門督… 六角義治 六角家当主 
承禎… 六角義賢 六角家前当主

上様… 織田信長 織田家当主

――――――――

 
「そーれ、そーれ、そーれ」

 太鼓の音に合わせて人足達の声が響く。季節はまだ春には遠い一月下旬。晴れた空に吹く風は冷たかったが、一万人を超える人足達の熱気でさながら安土山全体が湯気を上げんばかりだった。

 天正四年(1576年) 一月
 長篠で武田勝頼を破り、その後も順調に武田を圧迫して武威を見せつけた信長は、近江国蒲生郡の安土山に新たな城の築城を命じた。昨年末には長男の織田信忠に家督を譲り、合わせて尾張と美濃の支配を任せ、それまで信長の本拠であった岐阜城も譲り渡している。
 そのため、信長自身の本拠として新たな城を安土山に構える予定だった。

 普請総奉行は丹羽長秀が務め、近江のみならず若狭や越前、美濃や尾張などからも手伝いを集めた突貫工事で松が取れた早々に築城普請に掛かっていた。
 無論のこと、日野中野城を本拠とする蒲生賢秀にも普請手伝いの命令が来ている。近江衆は近国ということもあり、漆喰用のすさや人足用の炊き出し、さらには大工道具の手配など細かな雑用まで全て持ち込みによるお手伝いとなっていた。

 築城はまだ始まったばかりであり、今は周辺の山々から大石を安土山へ運んでいるところだ。賢秀も蒲生の受け持つ石垣の石運びを監督していた。監督と言っても実際に作業に混じることもあり、一見すれば人足と変わらない姿をしている。


「ご精が出ますな」
「おお。山城守殿」

 作業中の賢秀の側に進藤賢盛が寄って来る。思えば、共に織田家に仕えて以来、戦場で顔を合わせることはあってもこうして落ち着いて話すのは久しぶりだ。

 進藤が訪ねて来たことで賢秀も休憩を指示し、自身も竹水筒の水を一口含む。冬の最中だというのに賢秀の額には玉のような汗が浮かんでいた。

「忠三郎殿も張り切っておられるようで」
「いや、お恥ずかしい。お役目だというのに何やら楽しんでしまっておるようで……」
「いやいや。仕事を楽しんで出来るのは良いことです」

 進藤がニコニコしながら遠くに見える大石に視線を移す。今まさに太鼓の音と共に山上へ引き上げられている大石の上では、蒲生賦秀が扇を振りながら人足たちの音頭を取っている。賦秀も真っ黒に汚れながら汗をかいていたが、その顔は楽しそうに笑っていた。


「そういえば聞かれましたか?」
「何をです?」
「六角の御屋形様のことです」

『六角の』と言う時、進藤が僅かに声を潜める。それを受けて賢秀も思わず小声になった。いかに他意はないとはいえ、信長の前で旧主六角家の話をするのはさすがに憚られるためだ。

「ええ……なんでも右衛門督様は公方様と共に毛利を頼って西国へ落ち延びられたそうですな。承禎様は中務様と共に武田を頼って東国へ行かれたと」
「左様にございます。分かっておったことですが、近江も随分と様変わり致しました」

 賢秀は安土山の隣にそびえるきぬがさ山に視線を移した。繖山には今も六角家の本拠地であった観音寺城がそびえている。観音寺城は山上に築いた石垣の上に各種の防衛設備を整えており、畿内でも有数の威容を備えた城だった。
 今は織田家の管理として細々と運用されているが、安土城の築城に合わせて廃城となり、建物は解体されて資材を再利用している。

 ―――これで良いのですね。父上

 賢秀にもある種の切なさに似た感情が湧いてくる。
 賢秀の少年時代はまさに六角家全盛の時代であり、観音寺城下は今では考えられぬ程に繁華な城下町だった。今まさに観音寺城の歴史が幕を閉じようとしているのを目の当たりにし、賢秀もさすがに感傷を抑えることが出来ない。

 だが、それは蒲生を含む近江衆の総意として信長に願ったことだ。それと引き換えに六角義賢や六角義治は命を奪われることなく近江を落ち延びることが出来た。
 全ては近江衆自身が選んだ事だ。分かっていながら、それでも感傷を抑えることが出来ない。

「それと、柴田様が越前の支配を任されたとか」
「ええ。一向一揆を討伐した功によって北之庄を知行なされました」
「では、左兵殿も越前へ?」
「ははは。某は近江に居残りでございますよ。柴田様の寄騎の任を解かれ、今後は上様の馬廻衆として仕えよとお沙汰がございました」
「ほお。上様直属の馬廻衆とは、御出世……と申してよいのでしょうな」
「倅を可愛がっていただいております故」

 進藤が微妙な顔をする。
 長光寺城を預かっていた柴田勝家は、朝倉滅亡後に越前で起こった一向一揆を制圧した功によって越前を任され、北陸方面への抑えとなっていた。多くの柴田寄騎はそのまま越前へと随行し、越前で新たな領地を得ている。無論、領地は加増されて与えられた。一方で蒲生賢秀は信長直属の馬廻衆としての勤務を命じられ、領地も日野六万石のまま据え置かれている。

 だが、賢秀は加増が無かったことを特に気にしてはいなかった。何よりも父祖伝来の日野の地に残らせてくれたことが有難かった。
 信長が安土に本拠地を据えるということは、六角家時代と同じくらい蒲生の日野が重要性を持つことになる。日野は観音寺城の喉元に突き付けられた匕首の位置にある。ということは、安土城にとっても喉元の匕首となる立地になる。

 蒲生が隙を突いて城攻めに掛かれば、信長は安土城を枕に討ち死にする運命になるかもしれないのだ。それを思えば、信長の沙汰は蒲生賢秀に対する最大限の信頼の証と言えるだろう。

『儂の友となってくれ』
 それが信長の口説き文句だ。

 織田信長と蒲生賢秀。
 奇しくも同じ年に生まれた同い年の主従であった。



 ※   ※   ※


 二月の末には信長は安土城へと移って来た。と言っても城普請はまだまだ途中であり、石垣や天守閣、曲輪などの防衛施設はこれから取り掛かるような状態だ。現在の所は居館というべきものがようやく出来上がったに過ぎない。
 それでも信長は安土城に居を移した。その為、馬廻衆も安土城下にそれぞれ屋敷地を賜り、城下への移住が義務付けられている。賢秀も安土城下に屋敷地を賜り、蒲生屋敷の建設に取り掛かっていた。

 忙しい最中ではあったが、賢秀は一旦日野中野城へと戻って父定秀の元を訪ねた。
 近頃の定秀はめっきり外に出なくなり、日がな一日縁側で将棋盤に向かっている。この時も定秀は賢秀には目もくれず将棋盤を睨みつけている。

「上様は新たに安土に城を築かれました。某も安土城下に蒲生屋敷を構えまする」
「……そうか」

 興味も無さそうに定秀が上の空で返事をする。

「夏頃には安土城下へと本格的に居を移すことになりましょう」
「……そうか」

 信長が安土城に住むということは、馬廻である賢秀も安土城下に詰めていなければならない。いつ何時信長から呼び出しがあるか分からないからだ。

「上様は江雲寺を安土城内に移築されるご意向のようです。完成したなら、是非父上にも見せたいと仰せでした」

『江雲寺』と聞いた時だけ定秀の手がピクリと止まった。
 だが、やがて何事も無かったかのように再び駒を盤上で動かし始める。

「……そうか」

 江雲寺は亡き六角定頼の菩提を弔う寺で、今も観音寺城の敷地内にある。信長はその江雲寺をそっくりそのまま安土城内に移築する計画を立てていた。

 長く近江を安定させた六角定頼は、今でも名君として近江国内で広く尊敬を集めている。信長はその定頼を手厚く扱うことで近江衆の安定を図ったのだろう。
 あるいは定頼の菩提寺を自身の居城の敷地内に置くことで、自分は六角定頼に並ぶ近江の支配者だと示したかったのかもしれない。

 六角定頼を直接知っている定秀などは信長が定頼の名を使うことに嫌悪感を覚えるかもしれないと賢秀は危惧していた。
 だが、案に相違して定秀は興味なさげに将棋盤に向かっている。

「父上も安土城下に参られますか?そうすればいつでも江雲寺を詣でて頂くこともできますが」
「……いや、儂はよい。安土城に参ったとしてももはや何程の働きも出来ぬさ」

 賢秀は改めて定秀をまじまじと見つめる。ここ数年で随分と老け込んだ感じがする。賢秀自身も不惑の四十はとうに過ぎ、今年で四十三歳になっていた。定秀はいくつになったのだろうか。

 ―――今年で七十歳……いや、六十九歳か

 心の中で父の年を指折り数える。とうにお迎えが来ていてもおかしくない年齢だ。

 ―――父上には中野城で心穏やかに余生を過ごして頂いた方が良いか

 賢秀は一礼すると、定秀の居室を辞した。
 居室の中では定秀の妻の辰が一言も発さずに写経を行っている。もう夫婦の会話も絶えて久しいが、辰にもそれを不満に思う気持ちは無かった。
 若い頃の定秀は常に戦場に駆り出され、こうして二人で過ごす日々はほとんど無かった。それに今更言葉を交わす必要も無い。ただ一緒にいるだけで充分なのだ。


 しばらくすると将棋盤に駒を置く音が突然聞こえなくなった。
 不審に思った辰が定秀の方を振り返ると、定秀は今までのように穏やかな顔では無く、鬼気迫る顔で将棋盤と向き合っている。

「殿、どうかなさいましたか?」
「……」

 返事が無いことを益々不審に思った辰は、重ねて問いかけた。

「殿……」
「わかったーー!」

 突然大声を上げて定秀が立ち上がる。と、すぐに座りなおして再び駒を次々に動かしてゆく。
 やがてその手が止まると、定秀は突然笑い出した。

「わはははは!とうとうやったぞ!」
「殿、どうなされたのですか?」
「辰、これを見よ」

 辰が言われるままに将棋盤を覗き込む。何がどうなっているのか辰にはさっぱり分からない。そもそも将棋の駒の動き方すらよくわかっていないのだ。

「ここの歩だ。ここに歩を打っておくことで最後の攻めが効いてくるのだ」
「……左様ですか」
「そうすると、ここがこうなって、儂の勝ちとなるのだ」

 辰を完全に置き去りにして定秀が次々に駒を動かす。やがて定秀の向かい側にある玉が逃げ道を無くして追い込まれる形勢となっていた。

 心底嬉しそうに定秀が笑う。その顔を見ると、辰も訳が分からないなりに夫が楽しそうならばそれで良いと思うようになった。少なくとも気が触れたわけではなさそうだ。

「わっはっはっは! 御屋形様、とうとうやりましたぞ! 藤十郎はついに貴方様に勝ちましたぞ!」

 辰は知る由も無かったが、定秀がずっと工夫を凝らし続けていた盤面は亡き六角定頼と定秀が最後に対局した棋譜を何度も繰り返し再現したものだった。

 日の光の差し込む縁側に定秀の笑い声がいつまでも響いていた。


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