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第六章 蒲生賢秀編 元亀争乱

第84話 近江の支配者

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主要登場人物別名

左兵衛大夫… 蒲生賢秀 織田家臣 六角旧臣
下野守… 蒲生定秀 蒲生家前当主

右衛門督… 六角義治 没落した六角家当主
弾正忠… 織田信長 織田家当主

江雲寺殿… 六角定頼 六角家先々代当主 六角家の最盛期を築く

――――――――

 
「武田が軍を返した?」
「噂ですが……。三方ヶ原にて徳川を破った武田は、長篠城に入ったまま動かずに居りました。その武田が先ごろ、甲斐に向けて撤退する動きを見せていると」
「面妖な……既に賽は投げられたのだ。今更軍を退いて御屋形様と和睦したとして、一体武田に何の益がある」

 岡忠政の言葉に賢秀も首をひねるしかなかった。
 足利義昭が反信長派に投じて以来、織田家は近江を中心に四方八方から攻め立てて来る敵勢と各地で戦闘に及んでいる。

 まず、元亀四年(1573年)の二月には義昭配下の山岡景友が近江石山に陣を張っており、柴田勝家に従って蒲生賢秀も石山攻めに参加していた。
 折しも石山の砦は未だ築城中であり、賢秀達は三日とかからずに石山の制圧に成功した。
 だが、畿内では三好三人衆や松永久秀らが京を脅かす態勢を見せ、さらに浅井長政も北から南近江を窺う態勢を整えている。
 阿波では篠原長房が河内に進軍する気配を見せ、さらに本願寺は長島や石山で織田に対して一向一揆を主導している。

 もはや織田軍はどこから手を付けていいか分からないほどに全方位に敵を抱えていると言えた。今この時に武田信玄が軍を退く必要性などどこにもない。

「噂によると、信玄は甲斐を出陣した時より病を患っていたとのこと。あるいは陣中にて……」
「命脈が果てた……と?」
「あくまでも噂です。ですが、そうと考えればこの奇妙な撤退にも合点がいくのではないかと思います」
「ふむ……確かにな」

 実の所、岡忠政が聞き込んで来た武田信玄病死の噂は本当だった。
 三方ヶ原で徳川軍を撃破した武田信玄は、そのまま長篠城に進軍した後病により動けなくなり、元亀四年の四月に甲斐撤退を決める。だが、その決断も虚しく撤退途中の三河にて陣中に没した。

 織田信長は早くから信玄死すの報を掴んでおり、この時も目下の緊急課題である武田信玄への対応が必要なくなったことで、各地の信長包囲網に対応する余裕が生まれていた。


 足利義昭に対しては事実上の降伏に近い和睦条件を持ち出す一方で、『十七条か条の意見書』という文書を公開して義昭を非難する世論を形成しようとした。

 十七か条の意見書は今まで義昭がどのような非道な振舞をしてきたかを書き連ねており、この書面を見れば誰でも信長が義昭に諌言するのは当然であると思える内容になっている。もっとも、この内容はかなり大げさに書かれており、実際の義昭は多少口出しがうるさい所はあるが、信長を信頼し、信長に配慮を重ねて来ていた。

 だが、義昭が反信長派に投じてしまった以上は信長としてもやむを得ない。将軍家であり主君である義昭に対して矛を向けることは本来許されないことだからだ。
 そこで、数々の非道を繰り返す悪御所義昭が、見かねて諌言した忠臣信長を疎んじて無道にも討たんとしているというイメージを世間に植え付けるための広告戦略だった。

 ただし、この文書は義昭が挙兵した後に出されても意味は無い。敵方の悪口を言っているだけと捉えられるからだし、実際その通りだからだ。
 そのため、信長はあえて文書の日付を元亀三年十月にしておき、『今まで義昭の体面をおもんぱかって秘していたが、こうなってしまってはやむを得ない』という体で公表した。信長のイメージ戦略によって京洛では『悪御所義昭』という評判は確かな物になった。

 さらには朝倉義景・浅井長政は武田信玄を信用しておらず、特に朝倉は武田に呼応して軍を発したものの三方ヶ原合戦前後に突如として越前へと兵を戻した。
 そのまま今に至るも越前に籠っている。浅井も南近江を窺う態勢は整えているとはいえ、実際には北近江から動こうとはしなかった。

 一方で足利義昭に呼応する形で六角義治が東近江の鯰江城で挙兵し、近隣の百済寺などと共に一向一揆と連携していた。
 信長は蒲生賢秀、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀らを鯰江城に派遣し、六角義治を封じ込めに掛かる。
 賢秀はその陣中に居た。

「ともあれ、武田が軍を退いたのならば鯰江城もこれまでだな」

 包囲中の鯰江城を見上げながら、賢秀はポツリと呟いた。
 鯰江城に籠る六角の軍勢は寡兵であり、あくまでも武田や朝倉が織田と決戦する時の後方攪乱の役目でしかない。肝心の武田・朝倉が織田と決戦に及べない以上、六角義治は一人敵中に孤立した状態に置かれていた。

 ―――恐らく御屋形様は右衛門督様を許しはすまい

 賢秀にも悲痛な思いがある。
 石山の陣を撃破した織田軍の主力はそのまま京に進軍し、二条城に籠る足利義昭を包囲しつつ降伏を促した。立場を完全に入れ替えた格好だ。
 幕臣であった細川藤孝はこの時に義昭を見限り、信長の幕下に参じている。

 義昭に降伏を飲ませるため、信長は京の町を焼き払って脅したと言う。信長の脅しに屈した義昭は、正親町天皇の勅命という形式によってこの四月に信長と和議を結んだ。
 和議とは言いながら、実質的には降伏だった。

 今まで主君と仰いでいた足利義昭に対してすらそうなのだ。徹頭徹尾敵対し続けた六角親子ならば、信長は必ずや首を取ると言い出すだろう。
 いよいよとなれば父・定秀がどう動くかも不透明になる。あるいは蒲生同士で一族相分かれて殺し合う事態にもなりかねない。

 鯰江城を見上げる賢秀にはため息しか出なかった。



 ※   ※   ※



 七月に改元され、元亀四年から天正元年となった九月。信長包囲網もほぼ全てが瓦解した。

 まず一旦は信長に降伏した足利義昭は、七月に入ると再び信長に対して兵を挙げ、宇治真木島城に籠って籠城の構えを見せる。信玄病死によって信長包囲網が半ば崩壊した今では足利義昭が信長に勝てる見込みは薄かったが、義昭は一度裏切った自分を信長が心底許すとは思えなかったのだろう。

 次に阿波から河内を窺っていた篠原長房は、弟である篠原自遁と対立した末に主君である三好長治に攻められて自害する。さらに三好三人衆も岩成友通が討ち死にし、三好長逸と三好政勝は逃亡して軍勢の体を為さなくなっている。
 そして、朝倉義景も信長軍に本拠地越前を攻められて自害し、浅井長政も八月の末に小谷城を攻め落とされて切腹する。

 信玄病死以後、目まぐるしく変わる情勢の中で一つ一つ着実に敵勢を撃破した信長は、上機嫌で鯰江城攻めの本陣に着陣した。
 本陣には蒲生賢秀の他、近江衆の各武将が揃っている。かつて南近江を支配した六角家に同調する者も多少は居たが、ほとんどの者が織田軍を離れなかったことに信長は満足していた。

「左兵衛大夫。いよいよ鯰江城を攻める。右衛門督の首はお主が取って参れ」

 捉えようによっては悪趣味なことを口走りながら、信長は蒲生賢秀に満面の笑みを向ける。信長はこの元亀争乱における蒲生の動きに満足していた。
 京への出陣、越前攻め、小谷城攻め、そのいずれにも賢秀は従容として従軍し、しっかりと武功を上げている。困難な信長包囲網の中にあって一切裏切る気配を見せなかった。さらには旧主六角家に対する包囲陣にあっても二心無く織田方として働いている。その蒲生に対し、信長の疑いもようやく晴れて来ていた。

「恐れながら、一つお願いがございます」
「ほう?申してみよ」
「されば、今一人ここへ招き入れてもようございましょうか」

 賢秀の言葉に信長も怪訝な顔をする。今一人と言うが、鯰江城を攻める諸将は既に集合している。これ以上誰を必要とするのか分からなかった。

「許す。招き入れよ」

 信長の許しを得た賢秀は、陣幕の外から一人の老人を呼び出した。杖を突きながら歩く老人は賢秀の父、定秀だった。

「これは我が父、下野守定秀にございます」
「蒲生下野守にございまする。弾正忠様には初めてお目にかかりまする」

 ―――これが蒲生下野守か

 信長も噂は聞いていた。六角家の全盛期を支え、観音寺騒動に揺れる六角家を身を挺して支え続けた六角随一の忠臣。
 その噂を聞くだに蒲生を家臣に欲しいと思ったものだ。

「織田弾正忠信長である。下野守。よくぞ参ったな」
「ハッ!此度はお願いの儀があって厚かましくも推参致しました」
「……願い?」

 不審な顔をしつつも、願いと言う言葉で信長には蒲生定秀が陣中にまで押し掛けた理由を察した。

「はい。鯰江城に籠る六角右衛門督殿の御命を何卒お助け下さいませ」

 定秀の言葉に、信長は腕を組んで傲然と鼻息を噴き出す。正直な所、信長には六角義治を許す気などこれっぽっちも無かった。

 平安の昔から近江に土着し、累代近江を支配し続けて来た佐々木氏の近江国内に対する影響力は計り知れない。六角義治はその佐々木嫡流にある、いわば『近江源氏の棟梁』だ。
 織田に降るのならばまだしも、単純に鯰江城を退去させるだけでは再び近江に争乱を起こす恐れがある。

 それに、信長に反抗した朝倉義景は自害した。浅井長政も小谷城と共に腹を切った。もう一方の旗頭である六角義治だけを助命するというのでは朝倉や浅井の旧臣達も面白くはないだろう。
 その為、鯰江城の六角義治には降伏を許さずに腹を切らせるつもりでいた。

「その儀はならぬ。右衛門督もここで死ぬが武門の誉と申すもの。何ならお主が腹を切るように説得に参っても良いぞ」

 嘘とも本気ともつかぬ顔で信長が定秀の顔を見る。だが定秀は、そんな信長の目を正面からひたと見返し、重ねて同じことを繰り返した。

「何卒、六角右衛門督殿の御命をお助け下さいませ」
「ならぬ!」

 折れない定秀に信長も思わず声を荒げて立ち上がる。しかし、それでも定秀は引き下がらず、ついには土の上に跪いて額を草の上に擦り付け、ひたすらに信長に哀願した。
 六十歳を超えた老人にそんな真似をさせ続けてはさすがに信長も居心地が悪い。

 信長は定秀から視線を外し、陣内の諸将に目を向けた。本陣には柴田や丹羽の他、進藤賢豊や後藤高治らの六角旧臣も居並んでいた。彼らも定秀の行動に気まずい思いをしていることは見れば分かる。
 もう一度定秀に視線を戻した信長は、土下座の態勢の定秀の面前に屈みこんだ。

「面を上げよ。あくまでも儂が右衛門督の助命はならぬと言えばどうする?蒲生は織田に敵対し、六角に合力するか?」
「いいえ。倅の左兵衛大夫は、何があろうとも弾正忠様を裏切ることは致しませぬ」

 傍らに座る賢秀も定秀の言葉に頷いている。

「しかし、それならば交渉になるまい。儂は別にお主の願いを聞き届ける必要は無い」
「その通りにございます。故に、これは某の衷心からの願い」
「もう一度聞く。助命はならぬといえばお主はどうする?」
「腹を切りまする」

 定秀の返答に信長は戸惑った。例え定秀が腹を切った所で、六角家の滅亡は避けられない。あるいは六角家の滅亡を見たくないというだけのことか。

「六角家の滅亡を目にするのが辛いか?」
「いいえ。六角家は既に再起できる状態ではありません。滅亡というのならば、既に滅亡しておりましょう」
「ならば、何故……」
「某は、ただ友の子や孫の命を救いたいのでございます。亡き江雲寺殿は某を友と呼んで下さいました。六角という家名が消え去るのは世の定めかもしれませぬ。ですが、その友の残した子や孫の命だけはご容赦をお願いしたい。それが某の願いにございます」

 ようやく信長も定秀の言いたいことを理解した。定秀は六角家の家臣としてではなく、六角定頼の友として助命嘆願に来ているのだ。
 六角家の再興を願っているわけでは無く、ただ単純に友と慕う六角定頼の子孫を死なせたくないだけだ。

「わ、我らからもお願い申す」

 定秀と賢秀に続き、進藤や後藤、平井、永原らの近江衆の諸将も信長の御前に出て土の上に膝をつく。
 その上で、改めて賢秀が口を開いた。

「我ら近江衆は織田家を裏切ることはございませぬ。六角家の再興を応援することはございませぬ。それ故、何卒六角承禎殿、右衛門督殿親子の御命ばかりはお助け下さいませ」

 その光景は信長を戦慄させるに十分だった。老いたりとはいえ、六角の重鎮であった蒲生定秀にはまだこれだけの近江衆を動かす力があるのだと実感せずにはいられない。
 それに、彼らの申し出は決して信長にとっても損になるものではない。

 彼らは自ら六角家の再興を願わないと言った。それはつまり、今後織田信長を近江の上級支配者として認めるということだ。かつて憧れた『忠義』を一身に集められるということだ。
 しかも、定秀を見れば蒲生の忠義は自分が死した後も続く。この時代の忠義は後年にあるような絶対的な物では無い。いわば利益があるからこそ忠義を尽くすという契約関係に近い。だが、蒲生の忠義は損得を越えた所にある。

 自分が死した後、その子や孫を生かすためにここまでする。
 ここまで裏切りの連続を乗り越えて来た信長にとって、それは身震いするほどの羨ましさだった。

「……その方らの思いは分かった。右衛門督には城を明け渡すように申し伝えるが良い」
「では!」
「願いを許す。今後も忠勤を尽くせ」

 言い捨てると、信長は本陣を出た。このまま佐和山城まで戻るつもりだ。もはや鯰江城をあえて攻め潰す必要も無い。

 ―――友か

 果たして自分には友と呼べる家臣が居るだろうか。
 信長は改めて、蒲生賢秀の顔を思い浮かべていた。
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