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第六章 蒲生賢秀編 元亀争乱

第79話 志賀の陣

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主要登場人物別名

駿河守… 青地茂綱 織田家臣 蒲生賢秀の実弟
三左衛門… 森可成 織田家臣 宇佐山城主 信長の重臣

――――――――

 
「はあっ!」

 青地茂綱が槍を一振りすると、数名の朝倉兵が血しぶきを上げて倒れる。もう何度も繰り返された光景だが、青地茂綱も朝倉兵も飽きることなく同じ戦いを繰り返していた。

 ―――キリがない

 先ほどから味方の兵も徐々に討たれる者が増えてきている。前線には数多の死骸が転がり、それらの屍を踏み越えて次々に殺到する朝倉兵をまた屍へと変えていく。
 もしも力尽きれば、その時点で青地茂綱の腹にも槍が突き込まれるだろう。信長の本軍が戻ってくるまで、何としても持ちこたえるという気力だけで戦っていた。

「駿河守!一旦下がれ!」
「三左様! しかし!」
「儂が代わる!下がって少し休め!」

 後ろから森可成に声をかけられて茂綱が振り向くと、茂綱と同じように返り血で真っ赤に染まった森可成が馬上から槍を振るっていた。

 茂綱は賢秀と違い、父定秀と同じ赤樫の剛槍を愛用している。賢秀よりも膂力に優れた茂綱の振るう槍は、一薙ぎで数人の敵を吹き飛ばすほどの重量感があった。その分精密な刺突は苦手で、どちらかと言えば槍を振り回して当たるを幸い敵も味方も薙ぎ倒していくのが茂綱の戦い方だ。もっとも、今の場合は味方に当たる心配はほぼ無い。周りを見回しても敵しかいないという絶望的な状況なのだ。

「では、御免!」
「うむ!」

 青地茂綱と森可成がお互いに敵を倒しつつ会話を交わす。森可成が前に出ると、入れ替わるように青地茂綱は後方に下がって野戦陣の中に入った。さっきから喉がカラカラに乾いている。
 兵から水筒を受け取ると、ゴクゴクと喉を鳴らして中身が空になるまで一気に流し込む。ただの水が、何とも爽快な飲みごたえがあった。

 ―――何とか今日は保たせられそうか

 その想いに思わず安堵の息を漏らす。青地城から軍勢を引き連れて坂本に着いたその日、既に戦端は開かれていた。浅井・朝倉連合軍三万に対して織田方の兵はわずか一千。それも必死に宇佐山城の兵を搔き集めての一千だ。それでも名将森可成は信長の弟の織田信治と共に坂本で陣を張り、野戦で坂本を確保するべく必死に抵抗していた。
 茂綱は率いて来た一千五百の兵をそのまま森可成の援護に回し、自身も前線に出て槍を振るい続けた。朝から戦い続けだった森可成と織田信治を一旦陣に下がらせ、休息を取らせている間は茂綱が前線を担当していた。そして、今は森可成が茂綱と交代して再び前線で戦っている。

 既に日は中天を越え、間もなく夕暮れに近くなるだろう。浅井・朝倉連合軍も間もなく兵を退くはずだ。今の状況では一日時間を稼ぐことは千の首に値する武功になる。信長の本陣が摂津から戻るまで時間を稼げれば、浅井・朝倉も簡単には攻めかかって来れなくなるだろう。その意味で、茂綱の安堵も無理からぬことだった。

 ―――明日はさらに過酷な戦いになるだろう

 その予感に襲われた時、不意に前線で大きな喚声が上がる。
 ”敵将、森三左衛門を討ち取ったぁー!”
 その声を聞いた瞬間、茂綱は思わず槍を掴んで陣を飛び出していた。

「三左様ー!」

 茂綱とその一統が駆け付けると、既に森可成の胴は二本の槍が貫き、その首から上は切り離された後だった。

「貴様らぁ!」

 怒りに燃えた茂綱は、森可成の首を取り返すべく周囲の雑兵や兜首を次々に槍で吹き飛ばしていく。倒した敵の首など見向きもせずに、ひたすら森可成の首を目がけて突進して来る。それはさながら阿修羅の進撃のように朝倉兵の目に映った。

「ば、化け物だ! 逃げろ!」
「待て! 三左様の首を置いて行け!」

 尚も追いすがる青地茂綱に恐れをなした敵は森可成の首を放り出して逃走し、その日の戦は幕を閉じた。森可成の遺体は首と共に坂本の陣へと持ち帰り、武藤五郎右衛門と肥田彦左衛門によって宇佐山城に戻された。


 翌日早朝から再び浅井・朝倉の連合軍が坂本に陣を張る織田信治と青地茂綱に襲い掛かった。前日のまさかの敗走の反省から、青地茂綱と織田信治の奮戦に対し正面から当たることの愚を悟った浅井・朝倉連合軍は、朝倉景鏡の先陣に加えて山崎吉家や浅井政元らが別動隊として反対側に織田方を包囲する態勢を取っている。
 その上に浅井長政の本軍も後詰に加わり、いよいよ坂本の合戦は苛烈を極めていた。

 ―――死んでも通さぬ!

 昨日から戦い詰めで来ている織田方には疲労が色濃く出ており、さしもの青地茂綱も体に数本の矢を受けて槍を振るう腕の感覚も鈍くなってきている。
 既に日は中天に近くなっているが、早朝から今まで戦い詰めで槍を振るう腕の感覚もだいぶ怪しくなってきている。だが、今日は昨日のように交代で下がって休息を取るなどということは出来なかった。敵方が、それをする余裕を与えてくれない。

「水筒!」

 後ろに大声で叫ぶと、目の前の敵を倒した茂綱は後ろに下がって水筒を受け取り、水を一口含んだ。その一口で体に力がみなぎって来る。

 ―――気力とは不思議なものだ

 もう駄目だと何度も思いながら、それでも水を飲むだけで気力が湧いてくるから不思議だ。茂綱は持っていた手ぬぐいに水筒の水を全て含ませ、その布を口の中に放り込んだ。

 ―――これで喉の渇きが随分とマシになる

 手ぬぐいを噛めば水が染み出してくる来るし、布地を強く噛むことで今までよりもより力が出しやすかった。再び槍を掴むと、茂綱は再び前線へ出て敵兵を叩き伏せ、薙ぎ払っていく。しかし、その体力ももはや限界に近いことは己が一番知っていた。

「せい!」

 槍を振り終わった隙を狙って敵兵の槍が茂綱の腹に差し込まれる。もはや槍を素早く引き戻すことが出来なくなっていた。

「ぐおおお!まだまだぁ!」

 腹から槍を生やしながら槍を差し込んで来た敵兵の首を薙いだ茂綱は、振り終えた槍をとうとう手から取り落してしまった。
 得物を失った好機を逃すまいと次々に槍が突きだされ、茂綱の体には瞬く間に五本の槍が突き立つ。

 ―――兄上、後は頼みます

 茂綱の体が地面に倒れ込むと、たちまちに朝倉兵が首を取らんと殺到した。朝倉兵が茂綱の首を切り落とした時、喉の奥から転がり出て来た手ぬぐいに驚き、その時になって初めて茂綱が休息を取らずに戦い続けていたことを知った。
 青地茂綱に続いて織田信治も程なく討ち取られ、坂本に陣した織田方は壊滅した。

 浅井・朝倉軍はそのまま余勢を駆って宇佐山城を攻めたが、宇佐山城に戻った武藤五郎右衛門らが奮戦したためについに宇佐山城を落とすことが出来なかった。
 翌日には宇佐山城を囲んだまま大津・山科に進軍して火を放ち、さらには志賀峠を越えて将軍地蔵山城を占拠する。
 だが、同日に信長の本軍が京へ戻ったことを知ると、それ以上の進撃を中断して坂本へと退却する。森可成や青地茂綱らの奮戦は間一髪のところで京を守り切るという成果を上げた。



 ※   ※   ※



 近江に戻った信長は、大津に出陣した。織田本軍が大津に出陣したことを受けて浅井・朝倉も湖西に軍勢を集合させ、将軍地蔵山城は後詰の一つでしかなくなり、織田信広や三好政勝が二千の兵で奪還するとそのまま織田方の拠点として活用することになった。

 また、信長が宇佐山城に加えて下坂本や唐崎にまで陣を進めると、比叡山麓に籠る浅井・朝倉連合軍は持久戦の構えを取り始める。
 各地では摂津・近江・長島の各地で一向一揆が蜂起し、また南近江では六角親子が再び軍勢を集め始め、摂津方面も息を吹き返した三好三人衆らが摂津・河内・和泉各地で織田方の城を荒らしまわった。
 浅井・朝倉としては織田の本軍を引き付ける役目を三好三人衆と交代したというくらいの認識だった。


 そんな中、信長は比叡山の僧十人を本陣に招いていた。

「単刀直入に言う。此度の戦において我が織田に協力してほしい」

 信長の直接な言葉に、僧侶の間に戸惑いの空気が漂う。味方せよと言っても、現実に今浅井・朝倉は比叡山に陣取っている。まして坂本の町衆などは浅井・朝倉に協力している。いかに比叡山の高僧とは言え、鶴の一声でそれらの動きを黙らせられるほど町衆は聞き分けが良くはない。

「恐れながら、我らとしてもそれは……」
「ただでとは言わぬ。織田の味方をしてくれるのならば、近江国内にある比叡山領は全て返還しよう」

 再び戸惑いの空気が流れる。しかし、今度は先ほどよりもやや好意的な空気だ。だが、それでもはいそうですかと承諾の返事をすることは出来ない。

「恐れながら、我らは宗門でございます。そう簡単に武家の戦に介入し、どちらか一方の味方をすることは控えさせて頂きたく思います」
「で、あるか。ならば、浅井・朝倉に対しても中立を保ってもらいたい。浅井・朝倉に肩入れすることはせず、織田の作戦行動を妨害することも無く、本来の意味での中立を保ってもらいたい。これならばどうだ?」

 僧たちにもやや明るい空気が出て来た。それならば、町衆も聞き分けるのではないかと思えたからだ。それに、近江国内の比叡山領を返還するという申し出は僧侶たちにとっても魅力的だ。
 六角高頼以降、近江国内の比叡山領は六角家によって徹底的に横領された。その代わりに六角家は法華や一向宗と比叡山が争った際には比叡山の味方として軍勢を出してくれたが、直接に領土を返してくれるというのならばもちろんそれが一番望ましい。

「一度戻って町衆や坊官らと協議いたします。本当に中立でも良いのですな?」
「構わぬ。その代わりこの約を破るならば、根本中堂や日吉大社を始めとして一山全てを焼き払うであろう。そう、町衆らに申すが良い」
「し、承知しました」

 一山全て焼き払うという信長の言葉に顔を引きつらせながら、僧侶たちは比叡山に戻って行った。信長としても比叡山が味方するのならばもっともよいが、味方にならずとも中立であれば文句は無かった。浅井・朝倉だけが相手ならば正面決戦によって打ち破ることも出来る。

 だが、僧侶たちからの返答は無かった。
 実のところ、僧侶たちの勧告も虚しく町衆や足軽達は織田に徹底抗戦をすると決めていた。僧侶たちがどのように利や情を持って口説いても織田に対する敵対行動を止めなかった。
 町衆にとって大切なのは宗教権威としての比叡山ではなく物流拠点としての坂本だ。近江の物流の終点に坂本があればこそ、坂本の町衆たちは莫大な利を得ることが出来る。
 だが、信長はその物流網を変更して大津に陸揚げして山科へと物資を運ぶルートを作ろうとしていた。それは織田家の行軍ルートと一致する、いわゆる『伝馬』の制度に近い物だ。

 要するに、坂本の町衆としては織田が近江を支配することそのものが自分達の商いの脅威となる。その為僧侶たちがいかに説こうとも織田に味方することはあり得なかった。

 信長としてもただ僧侶たちだけが中立を保っても意味は無い。現実に織田の作戦行動を妨害し、浅井・朝倉に兵糧その他の支援をしているのは町衆であり足軽達なのだ。延暦寺だけでなく坂本の町を含めた比叡山全体が中立とならない限り、信長の目的は達成されない。

 結局、この対陣は十一月まで続き、最終的に十二月になって将軍義昭と正親町天皇の仲介によって和議を結ぶことで決着した。信長もいつまでも坂本に釘付けにされているわけにもいかない。各地の一揆や反乱軍を制圧して回らねばならない。

 浅井長政はそれでも有利な現状を捨てることに難色を示したが、朝倉義景は幕府と朝廷の仲介を無下にすることも出来ないと和睦に同意した。今回の信長包囲網の事実上の総大将は朝倉義景であり、義景が是としているものを長政だけが拒むことは出来なかった。



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