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第六章 蒲生賢秀編 元亀争乱
第75話 説得
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主要登場人物別名
下野守… 蒲生定秀 蒲生家前当主
承禎… 六角義賢 六角家前当主
対馬守… 三雲定持 三雲家前当主
――――――――
「これより石部城へ参る」
突然の父の言葉に賢秀は虚を突かれて定秀の顔を見返した。
賢秀が居室で思案に暮れている中、ふらりと現れた定秀が出し抜けに発した言葉だった。
信長を伊勢に送り出して後、中野城に戻った賢秀は、さてどうやって狙撃の件を父に切り出そうかと思案していたところだった。仮に定秀が信長の狙撃を手配したのであれば正面から聞いても口を割るとは思えない。長く六角家の軍事と外交を司って来た定秀は、生半可な交渉術では腹の底を見せることは無い。何とか父の本心を聞き出す方法は無いかと思案している間に伊賀まで逃れていた六角親子が石部城に兵を集めているとの話が南近江に広がった所だった。
偶然にしては話が出来過ぎていると思う。信長の暗殺未遂の直後に六角が再起の兵を挙げる。まるで織田家が大きく揺れることを事前に分かっていたかのような手際ではないか。
いや、不自然と言えば浅井が突然織田を裏切ったのも不自然だ。浅井の動きに呼応して六角親子が起ったというのなら、もう少し動きが出るまでに時間がかかるだろう。まるで最初から連携していたような水際立った手際の良さだ。
もっとも、定秀が信長暗殺を決行するのであれば必ずや狙撃以外にも手段を講じているはずだ。だが、あの後は暗殺者の気配を感じなかった。とはいえ、それも賢秀達の警戒が厳しくて次の手が打てなかっただけかもしれない。二の矢三の矢が無かったことは定秀を容疑者から外す完全な根拠にはならない。
「父上、貴方は……」
―――我が主君を暗殺しようと謀ったのですか……?
賢秀はその言葉を口にすることが怖かった。もしも定秀がその言葉を肯定すれば賢秀は父を殺さねばならない。それが織田に降ると決めた時に心に誓ったことだ。
例え父であろうとも、織田に仇為す者は命を懸けてこれを排除する。
だが、賢秀とて実の父と殺し合いたいと願っているわけでは断じてない。故に、どのように定秀に話を切り出せば良いのか迷っていた。
賢秀の思いを知ってか知らずか、定秀はふっと笑うと賢秀の目を見返して来た。
「此度は六角様に兵を退いて頂きたいと思っている。その為にご隠居様を説き伏せに参るのだ」
「そ、それでは……」
―――暗殺を謀ったのは自分ではないと?
また賢秀が言葉に詰まる。そもそも信長が暗殺されかけたことを定秀に直接言ったわけではない。定秀の謀略でないのならば、もしかすると定秀は信長が狙撃されたことすらも全く知らないかもしれない。一体どちらが父の正体なのだと心の中で問いかける。シロなのか、クロなのか。
「そう深刻な顔をするな。確かに儂は殺されるやもしれん。ご隠居様や御屋形様にとっては我ら蒲生は裏切り者に見えているだろうからな。だが、儂にはこのまま何もせずに指を咥えて見ていることなどできんのだ。分かってくれ」
定秀が賢秀の肩に手を置く。その時になって、初めて賢秀は定秀の言葉に込められたもう一つの意味が頭に染みて来た。
そうなのだ。定秀が六角と連携を取っていないとすると、今の蒲生は六角から見れば裏切り者と映っている可能性が大きい。その渦中に出向いて六角義賢と面談するとなれば、定秀はその場で手討ちになるかもしれない。賢秀がそのことを心配していると定秀が思っているからこそ、寂しそうに笑ったのだ。
―――儂は何と愚かなのだ。父を疑う事しかできずに……
思わず一筋の涙が頬を伝う。六角の柱石として働いた定秀だったが、その生きざまは決して楽な物では無かった。定秀の後半生はまさに崩れ行く六角家を全身全霊で支え続けた人生だった。
その最期が、人生を賭けて尽くした六角家に手討ちにされるかもしれないのだ。父の悲愴な覚悟の程を知った賢秀は、己の中に残っていた疑いを捨てた。だが、今度は別の思念が浮かんできた。
「何故そこまで……」
―――もはや十分過ぎるほどに尽くしたではないか
その想いが思わず口を吐いて出そうになる。本来ならば六角家はとっくの昔に崩壊していたはずだ。七年前の観音寺騒動によって六角家中は見る影もなく崩壊していた。織田に降るまでも無く蒲生が六角に代わって南近江の覇者として名乗りを上げてもおかしくなかったのだ。それだけの家格と勢力が蒲生家にはある。
にも関わらず定秀は崩れ行く六角家を必死に繋ぎ止め、五年間もの間延命させた。これ以上六角家に引きずられなくても良いではないか。
だが、賢秀の思いを察したように定秀はため息を一つ吐いた。
「お主の言うことは分かる。だが、儂は亡き御屋形様に託されたのだ。『四郎を頼む』と。もはや六角家が近江の覇者として立つ道は閉ざされた。進藤・後藤・永原・平井……いずれも六角家を支えるべき柱石たちが六角家の復活を望んでおらぬ。お側に居る兵の中で心から六角家に忠誠を誓おうという者は三雲だけだ。
例え六角家が復活したとして、率いる軍勢を持たぬ守護など滑稽なだけであろう」
「では、尚の事父上が無益に死ぬことは……」
「このままでは四郎様が……ご隠居様が無益に死ぬことになりかねぬ。せめて御命だけは全うして頂き、六角家の血筋を残して頂きたいのだ。公方様に詫びを入れ、以後軍勢を持つことを控えれば織田殿とて命までは取るまい」
恐らく六角親子にすれば屈辱だろう。他ならぬ蒲生定秀から再起は不可能と言われるのだ。果たして聞く耳を持ってくれるかどうか……恐らく聞こうともしないのではないか。
だが、父もそれは分かっているはずだ。分かっていて尚、一縷の望みを賭けて説得に赴こうとしている。賢秀にはそれ以上言葉が継げなかった。
「戦支度は整えておけ。儂が戻らぬ時は、柴田殿の元へ馳せ参じよ。それがお主の選んだ道だ」
「父上、例え事成らぬとしても腹を切ることだけはおやめ下され。某は父上のお帰りをお待ちしております」
賢秀の言葉に定秀が初めて可笑しそうに笑う。
「はっはっは。まだまだ死ねぬわ。説得に失敗してもまだ儂には出来ることがある」
「出来ること?」
「左様。戦が織田様の勝利に終わっても、その後には織田様に四郎様達の命乞いをせねばならんのでな。まだまだ死ぬわけには参らん」
賢秀は驚いて目を見開いた。
例え戦が止められなかったとしても、それでも父はあきらめるつもりはないのだ。最後には信長に這いつくばって命乞いをすると言う。諦めずに交渉すると口にするのは簡単だが、これほどに諦めの悪い男もそう居ないのではないかと思った。
外池茂七を供に連れて石部城に赴く定秀を見送った後、賢秀は日野に陣触れを出して軍勢を中野城に集めた。
※ ※ ※
「失敗した!?」
「ああ、済まねえ」
保内衆の伴伝次郎は一人の甲賀者から信長暗殺失敗を告げられ、血の気が失せたかのように青白い顔をしていた。
男の名は杉谷善住坊と言い、甲津畑で信長を狙撃した男だ。
信長が京から長光寺城に来たことを知った伝次郎は、恐らく甲津畑を通って千草街道へ行くだろうと見当を付けて杉谷善住坊に信長暗殺を依頼していた。
本来ならば六角家に軍事物資を支援することで織田を近江から追い払うのが商人の戦い方だが、伝次郎は今の六角家を信じる気になれなかった。蒲生を始め、主だった六角旧臣は既に織田家の寄騎として編成され、それに不満を抱いている様子が無い。伊賀に逃れた六角親子は二万に近い兵を集めていると言うが、そのほとんどは有象無象の足軽崩れや領地を追われた浪人など、およそまともな軍勢には見えない者ばかりだ。
その為、非常の手段として杉谷善住坊に信長の狙撃を依頼したのだった。
「儂は織田から追われる身になった。済まないがこれ以上協力は出来ない」
「わかった。出来るだけ遠くへ逃げてくれ。銭は必要なだけ渡す」
「済まんな。しくじった上に世話になるとは情けねぇが……」
「気にしないでくれ」
―――頼むから、織田が絶対に来ない場所へ逃げてくれ
伝次郎は自分の為にそう願った。
善住坊が織田に捕らえられて伝次郎が依頼したことが明るみに出れば、保内衆は信長に刃向かったとして一郷丸ごと皆殺しの憂き目にあうかもしれない。自業自得と言えばそれまでだが、伝次郎はそれだけのリスクを冒してでも織田の近江支配を回避したかった。
あくまでも独立した商人として協力関係を築くというのならば喜んで織田に協力しただろう。だが、信長の狙いは保内衆を従属させ、配下に収めることにある。比叡山の保障する権利を袖にしてまで織田家に協力できるほど、伝次郎は織田信長という男を信用していなかった。
だが、失敗したと聞いた時に真っ先に思い出したのは信長の目だ。伝次郎を見据える目は空虚で、そこに何の感情も読み取ることが出来なかった。あの目が殺意を持った時、どのような恐怖が襲って来るか。それを想像するだけで、伝次郎は自然と胴が震えた。
―――こうなれば、何としても六角様に勝って頂かねばならん
保内衆の元には六角義賢から軍事物資を用立てるように命令が来ている。だが、伝次郎はこの仕事に乗り気ではなかった。兵糧や軍馬を用立てたとして、投資分が帰って来る見込みが薄いからだ。伝次郎の目から見ても既に六角家は死に体となっている。今の六角家に投資することは銭をドブに捨てることになる。
だが、肝心の暗殺が失敗したのならばそうも言っていられない。信長には何としても死んでもらわねば、伝次郎はこの先ずっと恐怖を抱え続けることになる。いつ漏れるとも知れない秘密を抱えながら生きることは想像を絶する苦痛を伴う。
善住坊に銭を持たせて送り出した伝次郎は、石部城へ送る荷の用意を大急ぎで始めた。
※ ※ ※
石部城では蒲生定秀が六角親子と対面していた。六角義賢の隣には六角義治と三雲定持が近侍している。
どの顔も定秀の禿げ上がった頭を睨みつけ、今にも噛みつきそうな顔をしていた。
「お目通りをお許し頂きありがとうございまする。承禎様や右衛門督様にはお健やかなご様子にて、この下野守安堵仕りました」
「フン。ぬけぬけと良くも言えたものだ。今更どの面下げてここへ参った。下野守」
「最後の御奉公と思し召し、御諫めに参りました。どうか、兵を挙げることは思いとどまって下さいませんか」
上座の義賢はギリッと奥歯を噛みしめて無言で定秀を見つめている。今更出て来て何を言うとでも言いたいのだろう。
「今更下野守殿にそのような御指図を受けるとは心外にござる。我らは今こそ六角の御屋形を取り戻すべく兵を挙げるのでございます。蒲生殿が真に忠義の士であるのならば、今為すべきは兵を挙げんとするご隠居様をお留めすることではなく、兵を率いて馳せ参じることにございましょう」
義治が三雲の言葉にうんうんと頷く。予想通りとは言え、定秀は目の前が暗くなりそうな思いに囚われる。もはやこの説得も無意味かもしれない。
「勝って、どうなされますか?」
「……何?」
「織田に勝って、どうなされるおつもりかと問うておりまする」
「フン。知れたことよ。浅井と共に近江を回復し、南近江を再び我が手に収める」
「その後、どうなされます?」
「……」
「某がお留めするのはそれ故にございます。承禎様には……四郎様には勝って後、天下をどうするのかというお考えが見えませぬ。亡き御屋形様にはそのお志がございました。足利家を支え、天下の安寧を保って足利将軍家の名のもとに天下を平らかにするというお志が……。
そして商業を発展させ、天下の人々を豊かにするという大義がございました。それ故に我らも命を賭して御屋形様に従ったのでございます。
今の四郎様にはそのお志が見えませぬ。己の為に戦を起こし、いたずらに民百姓を苦しめて、その先に何がありましょう。今まで以上に近江に一揆が頻発し、その中でもしやすると御命を落とされることになるかもしれぬ。なればこそ、御諫めに参ったのでございます」
話を聞くうちに義賢の顔が段々と怒りを帯びて来る。実のところ、定秀の言葉は痛いところを突いていた。今の義賢には観音寺城に復帰するというその想いしかない。その後近江をどう治めるかということは頭の中に無かった。
「ええい、黙れ! 近江は六角が……佐々木氏が治めるのが上古より連綿と続いてきたしきたりだ。その近江を土足で踏みにじる織田を許すことは出来ん!
近江は、佐々木の物なのだ!」
義賢の言葉に思わず定秀も目を閉じる。もはやここまで凝り固まってしまっていては如何ともしがたい。
しきたりというが、その古いしきたりを一つ一つ打ちこわし、家臣団を編成したり商人を保護したりと言った新たな施策を行って来たからこそ定頼は六角家の全盛期を築き上げることが出来たのだ。定頼が古いしきたりだけを大切にする人間であれば、六角家はもっと早くに国人衆の内乱によって滅びていただろう。そういったことを忘れ、あるいは知ろうともせずに佐々木氏の栄光だけに縛られている義賢は、所詮定頼の跡を継げる器では無かったのかという諦めに似た思いが定秀の心を埋めた。
「貴様とこれ以上話すことは無い。裏切り者として手討ちにされぬだけ有り難いと思え!」
言い捨てると、義賢と義治は足音も荒く奥へ引っ込んでしまった。残された定秀は、最後の望みを賭けて居残っている三雲定持に視線を向ける。
だが、三雲定持にも定秀の言葉を肯定する色は無かった。
「残念にござる。あるいは蒲生殿ならば馳せ参じてくれるかもしれぬと期待しておりました。今一度『隅立て四ツ目』の旗のもとで共に戦いとうござった」
「対馬守殿、何とか思いとどまってはいただけませんか」
哀願するような定秀の言葉に、改めて三雲定持はゆっくりと首を振る。
「もはや我らは止まりませぬ。せめて我らの邪魔をせぬようにお願いしたい」
それだけ言うと三雲定持に促され、定秀は石部城から追い出されるように送り出された。中野城への帰路に就く定秀は、まるで八十を超えた老人のように老け込んで見えた。
下野守… 蒲生定秀 蒲生家前当主
承禎… 六角義賢 六角家前当主
対馬守… 三雲定持 三雲家前当主
――――――――
「これより石部城へ参る」
突然の父の言葉に賢秀は虚を突かれて定秀の顔を見返した。
賢秀が居室で思案に暮れている中、ふらりと現れた定秀が出し抜けに発した言葉だった。
信長を伊勢に送り出して後、中野城に戻った賢秀は、さてどうやって狙撃の件を父に切り出そうかと思案していたところだった。仮に定秀が信長の狙撃を手配したのであれば正面から聞いても口を割るとは思えない。長く六角家の軍事と外交を司って来た定秀は、生半可な交渉術では腹の底を見せることは無い。何とか父の本心を聞き出す方法は無いかと思案している間に伊賀まで逃れていた六角親子が石部城に兵を集めているとの話が南近江に広がった所だった。
偶然にしては話が出来過ぎていると思う。信長の暗殺未遂の直後に六角が再起の兵を挙げる。まるで織田家が大きく揺れることを事前に分かっていたかのような手際ではないか。
いや、不自然と言えば浅井が突然織田を裏切ったのも不自然だ。浅井の動きに呼応して六角親子が起ったというのなら、もう少し動きが出るまでに時間がかかるだろう。まるで最初から連携していたような水際立った手際の良さだ。
もっとも、定秀が信長暗殺を決行するのであれば必ずや狙撃以外にも手段を講じているはずだ。だが、あの後は暗殺者の気配を感じなかった。とはいえ、それも賢秀達の警戒が厳しくて次の手が打てなかっただけかもしれない。二の矢三の矢が無かったことは定秀を容疑者から外す完全な根拠にはならない。
「父上、貴方は……」
―――我が主君を暗殺しようと謀ったのですか……?
賢秀はその言葉を口にすることが怖かった。もしも定秀がその言葉を肯定すれば賢秀は父を殺さねばならない。それが織田に降ると決めた時に心に誓ったことだ。
例え父であろうとも、織田に仇為す者は命を懸けてこれを排除する。
だが、賢秀とて実の父と殺し合いたいと願っているわけでは断じてない。故に、どのように定秀に話を切り出せば良いのか迷っていた。
賢秀の思いを知ってか知らずか、定秀はふっと笑うと賢秀の目を見返して来た。
「此度は六角様に兵を退いて頂きたいと思っている。その為にご隠居様を説き伏せに参るのだ」
「そ、それでは……」
―――暗殺を謀ったのは自分ではないと?
また賢秀が言葉に詰まる。そもそも信長が暗殺されかけたことを定秀に直接言ったわけではない。定秀の謀略でないのならば、もしかすると定秀は信長が狙撃されたことすらも全く知らないかもしれない。一体どちらが父の正体なのだと心の中で問いかける。シロなのか、クロなのか。
「そう深刻な顔をするな。確かに儂は殺されるやもしれん。ご隠居様や御屋形様にとっては我ら蒲生は裏切り者に見えているだろうからな。だが、儂にはこのまま何もせずに指を咥えて見ていることなどできんのだ。分かってくれ」
定秀が賢秀の肩に手を置く。その時になって、初めて賢秀は定秀の言葉に込められたもう一つの意味が頭に染みて来た。
そうなのだ。定秀が六角と連携を取っていないとすると、今の蒲生は六角から見れば裏切り者と映っている可能性が大きい。その渦中に出向いて六角義賢と面談するとなれば、定秀はその場で手討ちになるかもしれない。賢秀がそのことを心配していると定秀が思っているからこそ、寂しそうに笑ったのだ。
―――儂は何と愚かなのだ。父を疑う事しかできずに……
思わず一筋の涙が頬を伝う。六角の柱石として働いた定秀だったが、その生きざまは決して楽な物では無かった。定秀の後半生はまさに崩れ行く六角家を全身全霊で支え続けた人生だった。
その最期が、人生を賭けて尽くした六角家に手討ちにされるかもしれないのだ。父の悲愴な覚悟の程を知った賢秀は、己の中に残っていた疑いを捨てた。だが、今度は別の思念が浮かんできた。
「何故そこまで……」
―――もはや十分過ぎるほどに尽くしたではないか
その想いが思わず口を吐いて出そうになる。本来ならば六角家はとっくの昔に崩壊していたはずだ。七年前の観音寺騒動によって六角家中は見る影もなく崩壊していた。織田に降るまでも無く蒲生が六角に代わって南近江の覇者として名乗りを上げてもおかしくなかったのだ。それだけの家格と勢力が蒲生家にはある。
にも関わらず定秀は崩れ行く六角家を必死に繋ぎ止め、五年間もの間延命させた。これ以上六角家に引きずられなくても良いではないか。
だが、賢秀の思いを察したように定秀はため息を一つ吐いた。
「お主の言うことは分かる。だが、儂は亡き御屋形様に託されたのだ。『四郎を頼む』と。もはや六角家が近江の覇者として立つ道は閉ざされた。進藤・後藤・永原・平井……いずれも六角家を支えるべき柱石たちが六角家の復活を望んでおらぬ。お側に居る兵の中で心から六角家に忠誠を誓おうという者は三雲だけだ。
例え六角家が復活したとして、率いる軍勢を持たぬ守護など滑稽なだけであろう」
「では、尚の事父上が無益に死ぬことは……」
「このままでは四郎様が……ご隠居様が無益に死ぬことになりかねぬ。せめて御命だけは全うして頂き、六角家の血筋を残して頂きたいのだ。公方様に詫びを入れ、以後軍勢を持つことを控えれば織田殿とて命までは取るまい」
恐らく六角親子にすれば屈辱だろう。他ならぬ蒲生定秀から再起は不可能と言われるのだ。果たして聞く耳を持ってくれるかどうか……恐らく聞こうともしないのではないか。
だが、父もそれは分かっているはずだ。分かっていて尚、一縷の望みを賭けて説得に赴こうとしている。賢秀にはそれ以上言葉が継げなかった。
「戦支度は整えておけ。儂が戻らぬ時は、柴田殿の元へ馳せ参じよ。それがお主の選んだ道だ」
「父上、例え事成らぬとしても腹を切ることだけはおやめ下され。某は父上のお帰りをお待ちしております」
賢秀の言葉に定秀が初めて可笑しそうに笑う。
「はっはっは。まだまだ死ねぬわ。説得に失敗してもまだ儂には出来ることがある」
「出来ること?」
「左様。戦が織田様の勝利に終わっても、その後には織田様に四郎様達の命乞いをせねばならんのでな。まだまだ死ぬわけには参らん」
賢秀は驚いて目を見開いた。
例え戦が止められなかったとしても、それでも父はあきらめるつもりはないのだ。最後には信長に這いつくばって命乞いをすると言う。諦めずに交渉すると口にするのは簡単だが、これほどに諦めの悪い男もそう居ないのではないかと思った。
外池茂七を供に連れて石部城に赴く定秀を見送った後、賢秀は日野に陣触れを出して軍勢を中野城に集めた。
※ ※ ※
「失敗した!?」
「ああ、済まねえ」
保内衆の伴伝次郎は一人の甲賀者から信長暗殺失敗を告げられ、血の気が失せたかのように青白い顔をしていた。
男の名は杉谷善住坊と言い、甲津畑で信長を狙撃した男だ。
信長が京から長光寺城に来たことを知った伝次郎は、恐らく甲津畑を通って千草街道へ行くだろうと見当を付けて杉谷善住坊に信長暗殺を依頼していた。
本来ならば六角家に軍事物資を支援することで織田を近江から追い払うのが商人の戦い方だが、伝次郎は今の六角家を信じる気になれなかった。蒲生を始め、主だった六角旧臣は既に織田家の寄騎として編成され、それに不満を抱いている様子が無い。伊賀に逃れた六角親子は二万に近い兵を集めていると言うが、そのほとんどは有象無象の足軽崩れや領地を追われた浪人など、およそまともな軍勢には見えない者ばかりだ。
その為、非常の手段として杉谷善住坊に信長の狙撃を依頼したのだった。
「儂は織田から追われる身になった。済まないがこれ以上協力は出来ない」
「わかった。出来るだけ遠くへ逃げてくれ。銭は必要なだけ渡す」
「済まんな。しくじった上に世話になるとは情けねぇが……」
「気にしないでくれ」
―――頼むから、織田が絶対に来ない場所へ逃げてくれ
伝次郎は自分の為にそう願った。
善住坊が織田に捕らえられて伝次郎が依頼したことが明るみに出れば、保内衆は信長に刃向かったとして一郷丸ごと皆殺しの憂き目にあうかもしれない。自業自得と言えばそれまでだが、伝次郎はそれだけのリスクを冒してでも織田の近江支配を回避したかった。
あくまでも独立した商人として協力関係を築くというのならば喜んで織田に協力しただろう。だが、信長の狙いは保内衆を従属させ、配下に収めることにある。比叡山の保障する権利を袖にしてまで織田家に協力できるほど、伝次郎は織田信長という男を信用していなかった。
だが、失敗したと聞いた時に真っ先に思い出したのは信長の目だ。伝次郎を見据える目は空虚で、そこに何の感情も読み取ることが出来なかった。あの目が殺意を持った時、どのような恐怖が襲って来るか。それを想像するだけで、伝次郎は自然と胴が震えた。
―――こうなれば、何としても六角様に勝って頂かねばならん
保内衆の元には六角義賢から軍事物資を用立てるように命令が来ている。だが、伝次郎はこの仕事に乗り気ではなかった。兵糧や軍馬を用立てたとして、投資分が帰って来る見込みが薄いからだ。伝次郎の目から見ても既に六角家は死に体となっている。今の六角家に投資することは銭をドブに捨てることになる。
だが、肝心の暗殺が失敗したのならばそうも言っていられない。信長には何としても死んでもらわねば、伝次郎はこの先ずっと恐怖を抱え続けることになる。いつ漏れるとも知れない秘密を抱えながら生きることは想像を絶する苦痛を伴う。
善住坊に銭を持たせて送り出した伝次郎は、石部城へ送る荷の用意を大急ぎで始めた。
※ ※ ※
石部城では蒲生定秀が六角親子と対面していた。六角義賢の隣には六角義治と三雲定持が近侍している。
どの顔も定秀の禿げ上がった頭を睨みつけ、今にも噛みつきそうな顔をしていた。
「お目通りをお許し頂きありがとうございまする。承禎様や右衛門督様にはお健やかなご様子にて、この下野守安堵仕りました」
「フン。ぬけぬけと良くも言えたものだ。今更どの面下げてここへ参った。下野守」
「最後の御奉公と思し召し、御諫めに参りました。どうか、兵を挙げることは思いとどまって下さいませんか」
上座の義賢はギリッと奥歯を噛みしめて無言で定秀を見つめている。今更出て来て何を言うとでも言いたいのだろう。
「今更下野守殿にそのような御指図を受けるとは心外にござる。我らは今こそ六角の御屋形を取り戻すべく兵を挙げるのでございます。蒲生殿が真に忠義の士であるのならば、今為すべきは兵を挙げんとするご隠居様をお留めすることではなく、兵を率いて馳せ参じることにございましょう」
義治が三雲の言葉にうんうんと頷く。予想通りとは言え、定秀は目の前が暗くなりそうな思いに囚われる。もはやこの説得も無意味かもしれない。
「勝って、どうなされますか?」
「……何?」
「織田に勝って、どうなされるおつもりかと問うておりまする」
「フン。知れたことよ。浅井と共に近江を回復し、南近江を再び我が手に収める」
「その後、どうなされます?」
「……」
「某がお留めするのはそれ故にございます。承禎様には……四郎様には勝って後、天下をどうするのかというお考えが見えませぬ。亡き御屋形様にはそのお志がございました。足利家を支え、天下の安寧を保って足利将軍家の名のもとに天下を平らかにするというお志が……。
そして商業を発展させ、天下の人々を豊かにするという大義がございました。それ故に我らも命を賭して御屋形様に従ったのでございます。
今の四郎様にはそのお志が見えませぬ。己の為に戦を起こし、いたずらに民百姓を苦しめて、その先に何がありましょう。今まで以上に近江に一揆が頻発し、その中でもしやすると御命を落とされることになるかもしれぬ。なればこそ、御諫めに参ったのでございます」
話を聞くうちに義賢の顔が段々と怒りを帯びて来る。実のところ、定秀の言葉は痛いところを突いていた。今の義賢には観音寺城に復帰するというその想いしかない。その後近江をどう治めるかということは頭の中に無かった。
「ええい、黙れ! 近江は六角が……佐々木氏が治めるのが上古より連綿と続いてきたしきたりだ。その近江を土足で踏みにじる織田を許すことは出来ん!
近江は、佐々木の物なのだ!」
義賢の言葉に思わず定秀も目を閉じる。もはやここまで凝り固まってしまっていては如何ともしがたい。
しきたりというが、その古いしきたりを一つ一つ打ちこわし、家臣団を編成したり商人を保護したりと言った新たな施策を行って来たからこそ定頼は六角家の全盛期を築き上げることが出来たのだ。定頼が古いしきたりだけを大切にする人間であれば、六角家はもっと早くに国人衆の内乱によって滅びていただろう。そういったことを忘れ、あるいは知ろうともせずに佐々木氏の栄光だけに縛られている義賢は、所詮定頼の跡を継げる器では無かったのかという諦めに似た思いが定秀の心を埋めた。
「貴様とこれ以上話すことは無い。裏切り者として手討ちにされぬだけ有り難いと思え!」
言い捨てると、義賢と義治は足音も荒く奥へ引っ込んでしまった。残された定秀は、最後の望みを賭けて居残っている三雲定持に視線を向ける。
だが、三雲定持にも定秀の言葉を肯定する色は無かった。
「残念にござる。あるいは蒲生殿ならば馳せ参じてくれるかもしれぬと期待しておりました。今一度『隅立て四ツ目』の旗のもとで共に戦いとうござった」
「対馬守殿、何とか思いとどまってはいただけませんか」
哀願するような定秀の言葉に、改めて三雲定持はゆっくりと首を振る。
「もはや我らは止まりませぬ。せめて我らの邪魔をせぬようにお願いしたい」
それだけ言うと三雲定持に促され、定秀は石部城から追い出されるように送り出された。中野城への帰路に就く定秀は、まるで八十を超えた老人のように老け込んで見えた。
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大衆娯楽
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保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。
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