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第六章 蒲生賢秀編 元亀争乱
第69話 織田信長
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主要登場人物別名
左兵衛大夫… 蒲生賢秀 蒲生家当主
下野守… 蒲生定秀 蒲生家前当主 賢秀の父
蔵人大夫… 神戸具盛 織田家臣 蒲生左秀の娘を妻に迎える
上総介… 織田信長 織田家当主
左馬頭… 足利義昭 足利義輝の弟
――――――――
「織田上総介殿に降れと申すか」
日野中野城の広間では、蒲生家臣が居並ぶ中で織田信長からの使者を迎えていた。
使者の名は神戸具盛。
北伊勢で二度にわたって六角と戦った神戸利盛の弟で、利盛が死んだ際に子が無かった為に家督を継いだ男だ。
神戸家を継いだ具盛は六角家との関係改善に動き、蒲生定秀の娘を妻に迎えて縁戚関係を結んでいた。だが、この年の二月、織田信長の伊勢侵攻に対して抗しきれず、信長の三男である信孝を養子に迎えさせられていた。無論、神戸家を事実上乗っ取ろうとする信長の計略であり、具盛が望んで養子に迎えたわけではなかった。
だが、織田家の軍事力の強大さを肌で知った具盛は、蒲生賢秀が日野中野城に一千の兵を迎えて籠ったと聞き、蒲生家が神戸家と同じ轍を踏まぬようにと中野城に説得に来たのだった。
「和田山城にて上総介様を苦しめた蒲生の武勇は聞き及んでおります。それゆえにこそ、上総介様は蒲生が降ると聞けば喜ばれましょう。蒲生以外の主だった六角家臣は次々に織田に寝返っております。このまま籠城を続けても蒲生家は南近江で孤立致します」
「それは分かっている。昨日まで六角家の同輩であった者達が次々と織田家に鞍替えしているというのは聞いている。だが、それでも我が蒲生は六角家の忠臣である。六角家失くして蒲生家は無い。そのことを知らぬ蔵人大夫殿でもあるまい」
「無論、承知しております。なればこそ、上総介様は蒲生家を厚遇なさいましょう」
「……どういうことだ?」
賢秀は隣に座る定秀のチラリと視線を投げる。定秀は神戸具盛の話を目を瞑ってじっくりと聞き入っている。六角家から主家を変えることに関してはともかく、神戸具盛が蒲生家の為に真心を持って説得に来ていることはその言葉の端々から伺い知れた。
「上総介様は折に触れては蒲生家のことを聞かれます。蒲生はどういう家だ、蒲生下野守と蒲生左兵衛大夫は敵である儂をどう思っているか、などとしきりに某にお尋ねになりました。
恐らくは、先の観音寺騒動における義父上の行動を高く評価しておられるのでしょう」
再び賢秀が定秀をチラリと見ると、今度は目を見開いた定秀がしっかりと神戸具盛の顔を見据えていた。
「それならば、我が蒲生が六角家を裏切ることは決して無いということも上総介殿はご存知であろう。苦しいからと言って主家を裏切るは蒲生の家風に非ず。我らが降ったとして、いつまた六角家と共に反旗を翻すか知れた物では無いと上総介殿は思召さぬのか?」
「さて、そこです。蒲生家の忠義こそ本物である。なればこそ、その忠義を織田に向けさせたいと仰せでした。上総介様は蒲生の忠節こそ真の忠義と褒めておられまする」
再び定秀が瞑目してじっと考え込む態勢に戻る。
―――迷っておられるのだ
賢秀には父の心の動きが何となくわかった。このまま六角家を裏切ることはしたくない。だが、仮にこのまま織田に刃向かったとしても今度は日野が織田に蹂躙される。
今や六角家は力を失って甲賀の三雲を頼っている。日野は甲賀への盾となるべき場所だが、その盾は観音寺城の守りがあってこそのものだ。観音寺城が落城した今、蒲生だけが反抗しても日野の地が蹂躙されるだけに終わるだろう。
領地の民を無意味に死なせることは領主としてできない。
「義父上、義兄上、こうお考え下さいませんか。蒲生家が無事であればこそ、六角の御隠居様や御屋形様をお守りすることが出来る。このまま蒲生家そのものが滅べば、今後御両所に危機が訪れた時にお守りする者が居なくなります。その最後の盾となるために今は上総介様に降る……と」
―――そう簡単に割り切れれば苦労は無い
賢秀にも神戸具盛の説得は心に響く。今後甲賀に落ち延びた六角家が再起するとして、その時に蒲生が滅びていれば何の役にも立たない。だが、一度主家と仰いだ者を裏切ることは蒲生家の意地が許さない。
織田家に降るのであれば、以後何があろうとも織田家を裏切らぬと心に決めて仕えねば織田信長に対しても蒲生家累代の先祖に対しても申し訳が立たなくなるだろう。
賢秀がもう一度定秀に視線を投げると、定秀が今度は真っすぐに賢秀に視線を向けていた。
「お主が決めよ。今の蒲生家の当主はお主だ」
「仮に、某が織田に付くと申せば父上はどうなされます? 一度織田を主家と仰ぐからには以後何があろうとも某は織田家を裏切るような真似は致しませぬぞ」
「分かっている。それはお主が決めることだ。儂はただ、御屋形様とご隠居様の御命だけは守り通して見せると心に誓うだけよ」
「蒲生家が六角家と敵対することになろうともですか?」
「無論だ。お主が蒲生の当主なのだ。蒲生家の行く末はお主が決めるべきだ。だが、儂の思い、儂の行動は儂が決める。ただそれだけよ」
「例え某と敵味方に分かれたとしても……ですか?」
定秀がゆっくりと頷く。
賢秀にはその所作一つで父の覚悟のほどが十分に分かった。恐らく何があっても定秀は六角義賢と六角義治を見捨てることはしないだろう。だが、それでこそ我が父らしいとも心のどこかで思った。
再び神戸具盛に向きなおると、賢秀はゆっくりと両拳を突いて頭を下げる。
「蔵人大夫殿のお言葉、感謝申し上げる」
「……では!」
「ああ。蒲生家はたった今より織田上総介様を主君と仰ごう」
「ありがたい。よくぞご決断下された」
具盛が素直に喜ぶのとは対照的に、賢秀はどこか浮かない顔をしていた。賢秀は元来主家を裏切るといった器用なことが出来ない性格だ。六角家を裏切るのも日野の領民を守るためにやむを得ずという面が大きい。だが、一旦降った以上は今後再び六角家が起ったとしても二度と同調せず、織田家への忠節を尽くす覚悟でいる。それこそが蒲生家の生き方だと思い定めている。
そのことが、父の六角家への忠義といつかぶつかるのではないかという心配が賢秀の顔を曇らせている。
「では、早速に上総介様の元へご案内いたします」
定秀は賢秀に向かって一つ頷くと、ゆっくりとした足取りで自室へと戻っていく。その後ろ姿を見つめる賢秀の心には不安がくすぶり続けていた。
※ ※ ※
「蒲生左兵衛大夫賢秀にございます」
「織田上総介信長である。よくぞ我が陣へ馳せ参じてくれた」
信長は蒲生賢秀が人質を伴って観音寺城を訪れたことに喜びを隠しきれなかった。
観音寺騒動や小倉の内乱を通じて蒲生家の動きはつぶさに知っている。そして、その忠義を高く評価していた。もっと有り体に言えばうらやましいと思っていた。
織田信長は幼い頃から常に人から侮られ、裏切られ続けて来た。
素行を直さないと嘆いた傅役の平手政秀は最後まで自分を信じてくれずに、自分を置いて腹を切って死んだ。母は自分を疎み、家中の者も弟の信行を織田家の当主とするために信長を裏切った。
義兄弟である斎藤義龍は岳父の斎藤道三をも裏切り、長良川の戦いで道三を敗死させた挙句に尾張を狙って何度も信長と戦った。
その信長にとって、傾きかけた主家を外様の身で一心に支える蒲生家の行動は自分の理解を超えていた。外様の家臣などはまず真っ先に裏切るものだと思っていたが、譜代の重臣が次々に六角家を見限っていく中で定頼の代からの外様に過ぎない蒲生家と三雲家が必死になって六角家の崩壊を防いでいる。
その様子をつぶさに見て来た信長にとっては、それだけの忠誠を尽くされる六角家に対して嫉妬に近いくらいの羨望があった。
それほどの忠義を自分に向けてくれるのならば、何としても召し抱えたいと痛切に思った。
「そちらの子は左兵衛大夫の子か?」
「ハッ!我が嫡子鶴千代にございます。質としてお預け致したく同道致しました」
「いやいや、質などとはゆめ思わぬ。うむ。良き目付きをしている。儂の婿として岐阜城へ連れ帰りたい。それでも良いか?」
「そ……それは……」
思わず賢秀は絶句する。鶴千代は確かに文武に優れる器を見せ始めているが、それでも未だ十三歳の小僧っ子に過ぎない。いきなり婿に取り立てるなどという厚遇に賢秀も思わず目を白黒させている。
信長はそんな賢秀を見て楽しそうに笑う。
―――蒲生の忠義を我が身に向けさせられるのならば、娘の一人や二人易いものだ
それが信長の本心だった。信長にとっては鶴千代の才気がどうであろうと、蒲生家の嫡男ということそのものに価値がある。蒲生家の忠誠心を自分に向けさせられるのならば、異例の抜擢で一門衆に取り立てることなど何ら問題と思わなかった。
「嫌か?」
「い……いえ、身に余る光栄にございます」
一瞬不穏な顔をした信長は、賢秀の返答に再び満面の笑顔になって鶴千代に向き直る。
「そなたは我が婿となる。良いな?鶴千代」
「ハッ!身に余る光栄でございます。今後は織田家の為に精一杯尽くす所存にございます」
「うむ。期待している」
鶴千代の純真無垢な宣言に信長もますます上機嫌になり、思い出したように傍らの書状を取り上げた。
「これは本領の安堵状だ。日野に加え、小倉越前、小倉右近大夫の領地も蒲生左兵衛大夫の領地として安堵する」
「その……よろしいのですか?」
「うん?小倉家の領地のことか? 構わぬ。今も蒲生家が治めておるならば、蒲生の領地として安堵しよう」
意外そうな顔をする賢秀に対し、信長も少し居住まいを改めて賢秀に向き直った。
「ただし、小倉右近大夫の妻と子らは儂に預けてもらいたい。良いか?」
小倉賢治の正室であるお鍋は、長男と共に人質として中野城に入った後に男子を出産していた。紛れもなく小倉賢治の子だ。
織田信長としては、かつて自分を救ってくれた小倉賢治の遺児なのだから自分の側で取り立ててやりたいという気持ちがある。だが、小倉家の旧領を継がせれば蒲生が面白く思わないことは重々承知だ。その為、お鍋共々岐阜城で引き取るつもりでいた。
「上総介様がお望みであれば、すぐさま岐阜へ送り届けましょう」
「よろしく頼む。儂はこれから左馬頭様と共に上洛する。お主は軍勢を率いて儂の供をせよ」
「ハッ!一旦日野へ戻り、軍勢をまとめて改めて観音寺城へ馳せ参じまする」
賢秀は中野城に戻ると、町野繁仍に宰領を任せて鶴千代とお鍋、小倉の二人の男子を岐阜城へと向かわせた後、自身は五百の軍勢を引き連れて観音寺城の信長の元へと参じた。
永禄十一年(1568年)九月
蒲生家はついに六角家から離れて織田家臣へと転じた。定秀はなおも六角義賢と六角義治の身を案じていたが、賢秀は今後は何があろうとも織田家臣として振舞うと固く心に決めた。
左兵衛大夫… 蒲生賢秀 蒲生家当主
下野守… 蒲生定秀 蒲生家前当主 賢秀の父
蔵人大夫… 神戸具盛 織田家臣 蒲生左秀の娘を妻に迎える
上総介… 織田信長 織田家当主
左馬頭… 足利義昭 足利義輝の弟
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「織田上総介殿に降れと申すか」
日野中野城の広間では、蒲生家臣が居並ぶ中で織田信長からの使者を迎えていた。
使者の名は神戸具盛。
北伊勢で二度にわたって六角と戦った神戸利盛の弟で、利盛が死んだ際に子が無かった為に家督を継いだ男だ。
神戸家を継いだ具盛は六角家との関係改善に動き、蒲生定秀の娘を妻に迎えて縁戚関係を結んでいた。だが、この年の二月、織田信長の伊勢侵攻に対して抗しきれず、信長の三男である信孝を養子に迎えさせられていた。無論、神戸家を事実上乗っ取ろうとする信長の計略であり、具盛が望んで養子に迎えたわけではなかった。
だが、織田家の軍事力の強大さを肌で知った具盛は、蒲生賢秀が日野中野城に一千の兵を迎えて籠ったと聞き、蒲生家が神戸家と同じ轍を踏まぬようにと中野城に説得に来たのだった。
「和田山城にて上総介様を苦しめた蒲生の武勇は聞き及んでおります。それゆえにこそ、上総介様は蒲生が降ると聞けば喜ばれましょう。蒲生以外の主だった六角家臣は次々に織田に寝返っております。このまま籠城を続けても蒲生家は南近江で孤立致します」
「それは分かっている。昨日まで六角家の同輩であった者達が次々と織田家に鞍替えしているというのは聞いている。だが、それでも我が蒲生は六角家の忠臣である。六角家失くして蒲生家は無い。そのことを知らぬ蔵人大夫殿でもあるまい」
「無論、承知しております。なればこそ、上総介様は蒲生家を厚遇なさいましょう」
「……どういうことだ?」
賢秀は隣に座る定秀のチラリと視線を投げる。定秀は神戸具盛の話を目を瞑ってじっくりと聞き入っている。六角家から主家を変えることに関してはともかく、神戸具盛が蒲生家の為に真心を持って説得に来ていることはその言葉の端々から伺い知れた。
「上総介様は折に触れては蒲生家のことを聞かれます。蒲生はどういう家だ、蒲生下野守と蒲生左兵衛大夫は敵である儂をどう思っているか、などとしきりに某にお尋ねになりました。
恐らくは、先の観音寺騒動における義父上の行動を高く評価しておられるのでしょう」
再び賢秀が定秀をチラリと見ると、今度は目を見開いた定秀がしっかりと神戸具盛の顔を見据えていた。
「それならば、我が蒲生が六角家を裏切ることは決して無いということも上総介殿はご存知であろう。苦しいからと言って主家を裏切るは蒲生の家風に非ず。我らが降ったとして、いつまた六角家と共に反旗を翻すか知れた物では無いと上総介殿は思召さぬのか?」
「さて、そこです。蒲生家の忠義こそ本物である。なればこそ、その忠義を織田に向けさせたいと仰せでした。上総介様は蒲生の忠節こそ真の忠義と褒めておられまする」
再び定秀が瞑目してじっと考え込む態勢に戻る。
―――迷っておられるのだ
賢秀には父の心の動きが何となくわかった。このまま六角家を裏切ることはしたくない。だが、仮にこのまま織田に刃向かったとしても今度は日野が織田に蹂躙される。
今や六角家は力を失って甲賀の三雲を頼っている。日野は甲賀への盾となるべき場所だが、その盾は観音寺城の守りがあってこそのものだ。観音寺城が落城した今、蒲生だけが反抗しても日野の地が蹂躙されるだけに終わるだろう。
領地の民を無意味に死なせることは領主としてできない。
「義父上、義兄上、こうお考え下さいませんか。蒲生家が無事であればこそ、六角の御隠居様や御屋形様をお守りすることが出来る。このまま蒲生家そのものが滅べば、今後御両所に危機が訪れた時にお守りする者が居なくなります。その最後の盾となるために今は上総介様に降る……と」
―――そう簡単に割り切れれば苦労は無い
賢秀にも神戸具盛の説得は心に響く。今後甲賀に落ち延びた六角家が再起するとして、その時に蒲生が滅びていれば何の役にも立たない。だが、一度主家と仰いだ者を裏切ることは蒲生家の意地が許さない。
織田家に降るのであれば、以後何があろうとも織田家を裏切らぬと心に決めて仕えねば織田信長に対しても蒲生家累代の先祖に対しても申し訳が立たなくなるだろう。
賢秀がもう一度定秀に視線を投げると、定秀が今度は真っすぐに賢秀に視線を向けていた。
「お主が決めよ。今の蒲生家の当主はお主だ」
「仮に、某が織田に付くと申せば父上はどうなされます? 一度織田を主家と仰ぐからには以後何があろうとも某は織田家を裏切るような真似は致しませぬぞ」
「分かっている。それはお主が決めることだ。儂はただ、御屋形様とご隠居様の御命だけは守り通して見せると心に誓うだけよ」
「蒲生家が六角家と敵対することになろうともですか?」
「無論だ。お主が蒲生の当主なのだ。蒲生家の行く末はお主が決めるべきだ。だが、儂の思い、儂の行動は儂が決める。ただそれだけよ」
「例え某と敵味方に分かれたとしても……ですか?」
定秀がゆっくりと頷く。
賢秀にはその所作一つで父の覚悟のほどが十分に分かった。恐らく何があっても定秀は六角義賢と六角義治を見捨てることはしないだろう。だが、それでこそ我が父らしいとも心のどこかで思った。
再び神戸具盛に向きなおると、賢秀はゆっくりと両拳を突いて頭を下げる。
「蔵人大夫殿のお言葉、感謝申し上げる」
「……では!」
「ああ。蒲生家はたった今より織田上総介様を主君と仰ごう」
「ありがたい。よくぞご決断下された」
具盛が素直に喜ぶのとは対照的に、賢秀はどこか浮かない顔をしていた。賢秀は元来主家を裏切るといった器用なことが出来ない性格だ。六角家を裏切るのも日野の領民を守るためにやむを得ずという面が大きい。だが、一旦降った以上は今後再び六角家が起ったとしても二度と同調せず、織田家への忠節を尽くす覚悟でいる。それこそが蒲生家の生き方だと思い定めている。
そのことが、父の六角家への忠義といつかぶつかるのではないかという心配が賢秀の顔を曇らせている。
「では、早速に上総介様の元へご案内いたします」
定秀は賢秀に向かって一つ頷くと、ゆっくりとした足取りで自室へと戻っていく。その後ろ姿を見つめる賢秀の心には不安がくすぶり続けていた。
※ ※ ※
「蒲生左兵衛大夫賢秀にございます」
「織田上総介信長である。よくぞ我が陣へ馳せ参じてくれた」
信長は蒲生賢秀が人質を伴って観音寺城を訪れたことに喜びを隠しきれなかった。
観音寺騒動や小倉の内乱を通じて蒲生家の動きはつぶさに知っている。そして、その忠義を高く評価していた。もっと有り体に言えばうらやましいと思っていた。
織田信長は幼い頃から常に人から侮られ、裏切られ続けて来た。
素行を直さないと嘆いた傅役の平手政秀は最後まで自分を信じてくれずに、自分を置いて腹を切って死んだ。母は自分を疎み、家中の者も弟の信行を織田家の当主とするために信長を裏切った。
義兄弟である斎藤義龍は岳父の斎藤道三をも裏切り、長良川の戦いで道三を敗死させた挙句に尾張を狙って何度も信長と戦った。
その信長にとって、傾きかけた主家を外様の身で一心に支える蒲生家の行動は自分の理解を超えていた。外様の家臣などはまず真っ先に裏切るものだと思っていたが、譜代の重臣が次々に六角家を見限っていく中で定頼の代からの外様に過ぎない蒲生家と三雲家が必死になって六角家の崩壊を防いでいる。
その様子をつぶさに見て来た信長にとっては、それだけの忠誠を尽くされる六角家に対して嫉妬に近いくらいの羨望があった。
それほどの忠義を自分に向けてくれるのならば、何としても召し抱えたいと痛切に思った。
「そちらの子は左兵衛大夫の子か?」
「ハッ!我が嫡子鶴千代にございます。質としてお預け致したく同道致しました」
「いやいや、質などとはゆめ思わぬ。うむ。良き目付きをしている。儂の婿として岐阜城へ連れ帰りたい。それでも良いか?」
「そ……それは……」
思わず賢秀は絶句する。鶴千代は確かに文武に優れる器を見せ始めているが、それでも未だ十三歳の小僧っ子に過ぎない。いきなり婿に取り立てるなどという厚遇に賢秀も思わず目を白黒させている。
信長はそんな賢秀を見て楽しそうに笑う。
―――蒲生の忠義を我が身に向けさせられるのならば、娘の一人や二人易いものだ
それが信長の本心だった。信長にとっては鶴千代の才気がどうであろうと、蒲生家の嫡男ということそのものに価値がある。蒲生家の忠誠心を自分に向けさせられるのならば、異例の抜擢で一門衆に取り立てることなど何ら問題と思わなかった。
「嫌か?」
「い……いえ、身に余る光栄にございます」
一瞬不穏な顔をした信長は、賢秀の返答に再び満面の笑顔になって鶴千代に向き直る。
「そなたは我が婿となる。良いな?鶴千代」
「ハッ!身に余る光栄でございます。今後は織田家の為に精一杯尽くす所存にございます」
「うむ。期待している」
鶴千代の純真無垢な宣言に信長もますます上機嫌になり、思い出したように傍らの書状を取り上げた。
「これは本領の安堵状だ。日野に加え、小倉越前、小倉右近大夫の領地も蒲生左兵衛大夫の領地として安堵する」
「その……よろしいのですか?」
「うん?小倉家の領地のことか? 構わぬ。今も蒲生家が治めておるならば、蒲生の領地として安堵しよう」
意外そうな顔をする賢秀に対し、信長も少し居住まいを改めて賢秀に向き直った。
「ただし、小倉右近大夫の妻と子らは儂に預けてもらいたい。良いか?」
小倉賢治の正室であるお鍋は、長男と共に人質として中野城に入った後に男子を出産していた。紛れもなく小倉賢治の子だ。
織田信長としては、かつて自分を救ってくれた小倉賢治の遺児なのだから自分の側で取り立ててやりたいという気持ちがある。だが、小倉家の旧領を継がせれば蒲生が面白く思わないことは重々承知だ。その為、お鍋共々岐阜城で引き取るつもりでいた。
「上総介様がお望みであれば、すぐさま岐阜へ送り届けましょう」
「よろしく頼む。儂はこれから左馬頭様と共に上洛する。お主は軍勢を率いて儂の供をせよ」
「ハッ!一旦日野へ戻り、軍勢をまとめて改めて観音寺城へ馳せ参じまする」
賢秀は中野城に戻ると、町野繁仍に宰領を任せて鶴千代とお鍋、小倉の二人の男子を岐阜城へと向かわせた後、自身は五百の軍勢を引き連れて観音寺城の信長の元へと参じた。
永禄十一年(1568年)九月
蒲生家はついに六角家から離れて織田家臣へと転じた。定秀はなおも六角義賢と六角義治の身を案じていたが、賢秀は今後は何があろうとも織田家臣として振舞うと固く心に決めた。
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