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第五章 蒲生定秀編 観音寺騒動

第62話 栄光の近江守護家

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主要登場人物別名

下野守… 蒲生定秀 六角家臣
安芸守… 永原重澄 六角家臣
江雲寺殿… 六角定頼 六角家前々当主 六角家の最盛期を築く

聡明丸… 細川昭元 細川晴元の嫡男
細川次郎… 細川晴之 細川晴元の次男

――――――――

 
 松永久秀の六角本陣急襲が失敗した後、洛中を通り越して山城梅津へと撤退していく三好の旗を眺めながら蒲生定秀は夕日に目を細めた。
 馬上にあって神楽岡の高台で夕焼けを眺めていると、不意に諸々の指示を出し終えた六角義賢が馬を寄せてくる。

「下野守。まことに追撃はせぬで良かったのか?」
「ええ、あのまま追撃に移ればこちらにも相応の被害が出たことでしょう。小勢と侮ってはこちらが痛い目を見ることになり申す。永原安芸守殿が討たれた今、我らもこれ以上の被害を出すわけにはまいりません」
「うむ……」

 松永久秀の急襲を三雲の弓隊によって退けた六角義賢は、敗走する三好軍の背を討つべく直ちに軍勢を揃えようとした。だが、定秀は追撃よりも永原勢の敗残兵を収容すべしと主張し、結局は義賢も定秀の言を容れて追撃を断念して生き残りを収容し、将軍地蔵山城へと撤収を始めている。

「しかし、松永にしてやられたな。永原を失ったことも痛いが、細川次郎も討ち死にしてしまったことで細川の家督は聡明丸が継ぐことになろう」

 夕日に照らされた義賢は厳しい顔をしている。だが、定秀はそれほど深刻に考えてはいなかった。

「どのみち細川家はこれまでにございましょう。聡明丸殿も今や三好から知行を宛がわれている現状では、細川家が当家に味方したとしても何程の力にもなりますまい」
「それもそうだが……」
「六角は三好に勝った家にござる。その事実があれば、今は十分といたしましょう」

 定秀の言葉に、義賢も一つため息を吐くと洛中に視線を移す。日はすでに半分ほどが山際に沈み、洛中にも灯明の明かりがボツボツと灯りだしていた。

「しばらくは地蔵山城で再び三好と睨みあうか」
「左様ですな。我らがこれ以上戦を仕掛ける理由はございませぬ」
「よし、我らも地蔵山城へ引き上げるぞ」
「ハッ!」

 宵闇が迫る中、二騎の影が馬廻衆の待つ平野へと駆け出して行った。



 ※   ※   ※



 年があけて六月。
 定秀は一軒の商家で茶を振舞われていた。

「この度は徳政免除を頂き、ありがとうございます」
「いや、江雲寺殿の頃より角倉には何くれと世話になっているからな。ご隠居様も角倉には格別に計らうようにと仰せだ」
「まこと、ありがたきことにございます」

 商家の主――吉田宗桂は穏やかに笑いながら茶碗を差し出す。定秀も懐かしさと一抹の寂しさを感じながら茶碗を受け取って一口飲んだ。

「お父上には随分と世話になった。雪も墓に参りたいと申しておったが、今はまだな……」
「ありがたいお言葉でございます。亡き父も喜びましょう」

 京で名医と評判を取っていた吉田宗忠は六角定頼に先立って亡くなっており、今は宗忠の長男が医院を継ぎ、次男の宗桂が土倉業を継いでいた。
 嵯峨の角倉といえば京でも指折りの商人として知られており、他に呉服商の中島明延などが有名だった。ちなみに、中島明延の屋敷には将軍足利義輝もしばしば立ち寄って茶を所望したため、中島の呉服店は『茶屋』と呼ばれていた。

 将軍地蔵山城の戦いの後も三好と六角の小競り合いは断続的に続いていたが、永禄五年三月には和泉国の久米田寺周辺で三好と畠山の会戦があった。
 この久米田の戦いで雑賀・根来衆の鉄砲隊によって三好長慶の弟である三好実休が討ち取られ、三好軍は総崩れとなって阿波や飯森山城へと敗走し、京の戦線も放棄して勝竜寺城まで軍を退いた。

 これにより、六角家は再び京を勢力下に置き、徳政令を出して軍政を敷いた。だが、定頼の全盛期から六角家と良好な関係を築いていた角倉家は徳政免除の特権を与えられた。

「ところで、月が明ければもう近江へ戻られると伺いましたが?」
「うむ。畠山が敗れた以上我らが京を抑えておく理由もない。細川次郎殿は討ち死にされたし、三管領も悉く没落した。
 ……時代が変わろうとしているのだろうな」

 定秀は茶碗に残った最後の茶を楽しむと、少し寂しそうな顔で吉田宗桂に茶碗を返した。

「馳走になったな」
「たいしたおもてなしも出来ませぬで」
「いや、十分だ。もう少し落ち着いたら改めて雪と共に宗忠殿の墓に参ろうと思う」
「お待ち申し上げております」

 角倉屋敷を辞した定秀は、相国寺に戻って義賢と共に帰国の途に就いた。


 久米田の合戦に敗れた三好長慶は、敗残兵を再び参集させると共に京から戻った三好義興・松永久秀などと合流して軍勢を立て直し、五月には飯森山城を囲む畠山軍と河内国教興寺村付近にて再び対峙する。
 長慶は三好実休を討ち取った雑賀の鉄砲隊を警戒し、雨を待って決戦に及んだ。総兵力で劣勢に立ち、頼みの鉄砲衆が雨で役に立たなくなった畠山高政は終始劣勢に立たされ、早朝から始まった戦は夕刻になって畠山の総崩れとなって決着した。


 永禄五年(1562年)六月
 元々畠山高政に請われて出陣していた六角義賢は、畠山軍が崩壊したことで京を抑えておく理由も無くなり、三好長慶と再び和睦を結んで近江へと帰国した。
 足利将軍家を擁して天下に覇を唱えるという意志は六角義賢には無い。かつて天下人となった定頼にもそのつもりは毛頭無かった。ただ将軍家から請われて後見役を務めていただけに過ぎない。
 京の隣に本拠地を構え、天下を圧する武威を誇りながらも、あくまでも『近江守護』であるというのが六角家の家風だった。

 だが、細川京兆家も三好から知行を宛がわれる存在へと変わり、斯波氏もすでに織田信長によって同様の立場に立たされている。そして、畠山の没落によって畿内の室町体制を支えた三管領の制度は完全に崩壊した。

 管領だけではなく、今や畿内近国で守護としての実権を保っているのは六角家のみになってしまっている。下剋上という時代の波は次々に群雄を生み出していたが、管領・守護体制が崩壊したことによって近世へと至る流れが決定的になる。
 中世を生きた定秀にとって、新たな時代の到来は自分の生きた時代を古い時代へと押し流す寂しさを伴うものでもあり、そしてその波は『最後の守護』というべき六角家をも飲み込もうとしていた。



 ※   ※   ※



「此度は父上にもご迷惑をお掛けし、申し訳ありませんでした」
「いや、平井殿が事前に報せてくれたおかげで内々で処理することができた。あまり気に病まぬで良い」

 観音寺城下の蒲生屋敷には小倉実隆が実父の蒲生定秀を訪ねていた。
 事の発端は『小倉家が寺領を横領している』と永源寺から六角家に訴えが起こされたことだ。永源寺は六角氏の建立した寺であり、六角高頼の時代から様々に寺領を寄進している。また近江国内に徳政が出された時も永源寺領だけは徳政免除という特権を付与されていた。
 その永源寺領を事もあろうに小倉家が横領としているとなれば、定秀の進退にも関わりかねない大問題だった。

 実のところ、永源寺領を横領していたのは庶流である小倉西家の小倉右近大夫だった。
 右近大夫は六角定頼から与えられた文書を持っているとして永源寺領の検注帳の作成を一方的に請け負い、その代わりに代官として勘料を徴収するという挙に出ていた。
 検注帳とは土地の管理台帳であり、言い換えれば寺が独自に整備している住民の戸籍簿の役割を持つ。これを勝手に作成するということは即ち寺領として寄進された土地を横領して年貢を勝手に集めるということだ。

 訴えを受けて調べたところ、小倉右近大夫が所持しているという定頼の文書は右近大夫の主張とは真逆の内容だった。定頼が天文十五年に発行した文書は、それまで小倉家が保有していた領地の権利を停止し、その土地を永源寺領として寄進するという内容だったが、定頼が死んだことを逆手に取って定頼から直々に永源寺領の管理を任されたと嘘を吐いて小倉家の旧領を取り戻すという暴挙に及んでいた。
 小倉右近大夫が定頼から代官として認められたと主張する領地は小倉家の旧領以外の分も含まれており、はっきり言えば小倉右近大夫が小倉実隆に対抗するために領地を得ようと画策したことだった。

 無論、そんなことをされて永源寺が黙っているはずもなく、永源寺は六角家に寺領の返還を求めて訴えるという事態になった。

 永源寺は六角家が深く帰依する特別な寺だが、一方で小倉家は六角家重臣の蒲生定秀の縁に続く家であることも周知の事実だ。現当主小倉実隆は定秀の三男でもあるし、ことによっては蒲生家が六角家に対して叛意ありと見做されてもやむを得ない事態でもある。
 訴えは公事奉行(裁判官)を務める平井定武の元に届けられたが、平井定武は定秀の人柄を知悉していたのでにわかには信じられず、密かに定秀に問い合わせたことで事件が発覚した。

「右近大夫にはすぐさま寺領を永源寺に返還するようにとの裁定が下される。お主にも何らかの叱責が行くと思うが、くれぐれも小倉家中を動揺させぬように頼むぞ」
「はい。重ね重ね、ご迷惑をお掛けいたします」

 定秀は息子である小倉実隆を労わる眼差しになった。
 実隆を養子として小倉家に送り込んだのは当の定秀であるし、今回の右近大夫の横領騒ぎもそのことが影響していることは明らかだ。小倉右近大夫は蒲生家による小倉家の支配を良しとせず、小倉実隆に代わって小倉家の実権を握るために仕掛けたのだろう。

 小倉実隆は本来ならば蒲生定秀の息子として近習などに取り立てられていても少しも不思議ではない。このような家中の騒ぎなどとは無縁の人生もあったかもしれない。そのことを思うと、それが六角家や蒲生家のためには最善であったとはいえ実の息子をそのような苦しい立場に追い込んだ定秀にも自責の念がこみ上げてくる。

「そう気に病むことはない。困ったときはいつでも相談してくると良い。父の立場を利用するくらいの気持ちで構えておってよいぞ」

 定秀が柔らかく笑えば笑うほど実隆は己の不甲斐なさを責めるような面持ちに変わっていく。妙に生真面目なところは若いころの定秀にそっくりだった。

 ―――家中の統率も少し不穏な空気が出始めているな

 譜代の重臣である後藤賢豊は六角義治の身勝手さに辟易しており、独自に家中での婚姻を進めると共に近頃では居城の佐生城の普請を行っているという風聞がある。
 定秀も今一度家臣団の結束を高めなければならないと思い始めていた。
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