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第五章 蒲生定秀編 観音寺騒動

第61話 天下を二分す

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主要登場人物別名

下野守… 蒲生定秀 六角家臣
安芸守… 永原重澄 六角家臣

左京大夫… 六角義賢 六角家前当主 家督を譲った後も実権を握る
四郎… 六角義治 六角家現当主
次郎… 大原義定 六角義賢の次男 大原家の家督を継ぐ

修理大夫… 三好長慶 三好家当主
筑前守… 三好義興 長慶の嫡男
鬼十河… 十河一存 三好長慶の末弟
右京大夫… 細川晴元 細川京兆家当主 
細川次郎… 細川晴之 細川晴元の次男

――――――――

 
 六角家を野良田で退けた浅井長政だったが、その統治は相変わらず不安定だった。美濃との国境に近い坂田郡では未だ六角に従おうとする国人衆も残っており、小競り合いを含めた様々な戦が何度も起こっている。
 一方の六角家も六角義治の縁談はうやむやになったものの、既に取り決めを交わしてある同盟そのものは反故にすることは出来なかった。
 義賢は尚も不満気ではあったが、定秀達年寄衆の必死の取りなしもあってとりあえず斎藤との連携は維持することとなった。

 そんな中、永禄三年末には浅井長政と織田信長の妹お市の方との婚姻が成立する。ここで主に織田家との交渉役を務めたのは磯野員昌だった。
 浅井としては六角と斎藤の連携は下手をすると致命傷になり兼ねない。織田家にしても桶狭間で今川義元を討ち、尾張統一も成し遂げたことで満を持して美濃への侵攻を本格化する準備が整った。
 お互いに美濃斎藤家を敵とするという点で織田と浅井の利害は一致していた。信長の父の織田信秀は朝倉と連携して美濃を攻めたこともあったためにこの時点では後に織田と朝倉が敵対するとは誰も考えておらず、北近江国人衆も美濃の斎藤家への対応として織田信長との同盟を歓迎した。

 永禄四年(1561年)二月
 浅井は織田との同盟に基づいて美濃へと進軍する。その間隙を突いて六角が佐和山城を奪回し、斎藤を援護するといった乱戦模様を呈していた。
 だが、その四か月後。六角家の意識を再び京に向けさせる事件があった。


 五月になって田植えも終わった頃、蒲生定秀は六角義賢に呼び出されて隠居邸に伺候した。

「ご隠居様、お召しにより参じました。なんでも京から文が参ったとか」
「うむ。音に聞く鬼十河が亡くなったそうだ。河内の畠山から東西連携して三好を攻めたいと打診された」

 ―――またか

 河内の畠山政長はこの頃三好長慶と手を結んだかと思うと対立姿勢を取るなど一貫せず、三好長慶もほとほと手を焼いていた。
 六角家に対しても何度も同盟の要請は来ていたが、義賢は悉く断っている。義賢には三好と敵対する意図は無かった。

「またお断りなされるのでしょう?」
「いや、此度は要請を受けて京に進軍する」
「何ゆえにございますか?我らも北近江に手を焼いておる今、京に兵を割いている暇は……」
「細川右京大夫殿が三好修理大夫と和議を結んだそうだ」

 ―――なるほど

 その一言で定秀にも事情が分かった。

 六角定頼の婿として畿内情勢を散々に引っ掻き回して来た細川晴元だったが、この永禄四年の五月には三好長慶と和睦し、隠居料として摂津富田庄を宛がわれたうえで普門寺に腰を定めた。結果的にはこの普門寺が晴元の終の棲家となるが、ともあれ長く三好長慶と対立して流浪を続けた細川晴元はついに長慶に膝を屈した。

 だが、この細川晴元と三好長慶の和睦こそが六角家が三好家に敵対する原因となる。

 天文二十一年の和睦で人質交換が行われ、後に三好千熊丸は長慶の手元に返されたものの、細川晴元の長男昭元は三好長慶が養育し、次男の晴之は六角義賢が養育していた。つまり、細川京兆家の後継者候補を分けて養育することでお互いに政治的な均衡を保っていた。
 だが、細川晴元が三好長慶と和睦して隠居したことが細川京兆家の後継者問題へと発展する。

 現在管領は三好長慶に擁された細川氏綱が就任しているが、その後は細川京兆家の嫡流たる細川晴元の子が継ぐのが当然と見做された。であるならば、昭元と晴之どちらが細川京兆家を継ぐかによって三好と六角のパワーバランスが崩れる見込みが大きい。
 つまり、今回の六角義賢の京出陣は細川京兆家の家督を晴之に継がせるための軍事行動だった。

 皮肉なことだが、三好長慶を家臣に迎え、後に敵対することで散々に畿内情勢をかき乱した細川晴元は、長慶と和睦してさえもなお畿内情勢をかき乱す原因となった。

「此度の出兵は儂と共に四郎と次郎も連れて行く。お主も本陣で儂を支えて欲しい」
「しかし、某もすでに老い、若かりし日のような戦働きはとても……」
「謙遜するでない。我が父の代より六角の武を支え続けた蒲生下野守の戦、若造共にとくとみせてやってくれい」

 定秀としても六角義賢にこうまで言われては嫌とは言えない。今回の戦を最後に戦列から離れるということで出陣を承諾した。
 定秀も既に五十四歳。間もなく亡き主君定頼や師と仰いだ進藤貞治の享年に追いつこうとしている。野良田の敗戦に後悔の念を持ちはしても、体の節々に痛みを感じるようにもなっていた。



 ※   ※   ※



 六角義賢は一万の軍勢で吉田神楽岡に布陣し、神楽岡の後方に位置する将軍地蔵山城には細川晴之を据えて永原重澄を大将に一万の軍勢を駐留させた。京の東に六角軍二万が布陣したことを受けて三好長慶は嫡男の三好義興と松永久秀にそれぞれ七千を率いさせて京の西に布陣させる。
 京洛を挟んで三好軍と六角軍が対峙する形勢となった。

 大兵力であるがゆえにお互いに軽挙を控え、六角義賢と三好義興は四カ月の間矢戦ばかりに終始し、夏に始まった戦は気が付けば十一月に差し掛かっていた。だが、城普請の為に六角軍が地蔵山城周辺の木材を伐採し始めたことを受けて松永久秀が動き出す。
 普請途中の城は案外脆く、防備も十分に機能しないことが多い。久秀の乾坤一擲の大勝負だった。


 ―――なんだ?

 正面の矢戦の音に混じって後方から聞こえるかすかな音に振り向いた定秀の目には、白川口から続々と瓜生山に向かう松永の蔦の旗が見えた。
 聞こえた音は松永勢が上げる鬨の声だった。

「ご隠居様!後ろを取られました!白川口から松永勢が瓜生山に攻め寄せております!」
「何!」

 正面の矢戦を見ていた義賢も定秀に釣られて後ろを振り向く。正面からは三好義興の軍勢が昨日までと同じように矢を放ってくる。今日も昨日と変わらない戦況にやや飽き飽きしていた義賢は、後方で展開される光景に思わず軍扇を強く握りしめた。

「おのれ!松永が迂回しておったか!」

 将軍地蔵山城のある瓜生山は坂本へ抜ける山中越えの途次にあり、京都側からの登り口を白川口と言った。義賢の陣する神楽岡からはそれほど離れていないが、それでも正面の三好義興を抑えながら後方に援軍を出す事は難しい。仮に三好義興が正面から圧力を強めて来れば、神楽岡の義賢軍は前後に敵を受けて瓦解する恐れが大きい。

「三好筑前守を攻めるぞ!正面の圧力を強めて松永の気を逸らす!」
「ハッ!」

 各陣に使番が一斉に走り出す。今回の三好軍の総大将は当然ながら三好義興が務めている。仮に義興本陣が危機となれば松永も地蔵山城攻めを切り上げて本陣の援護に向かうしかなくなる。定秀も今は正面の三好義興を圧迫することで松永を牽制するのが上策と判断した。
 将軍地蔵山城も一万の兵が籠っているし、いくら松永が七千の兵力を傾けていると言ってもそう易々と落ちることはないだろう。逆に神楽岡の義賢本陣が落ちれば永原も兵の動揺を抑えることが出来なくなる。

 ―――安芸守殿に任せるしかない

 永原も六角の先陣を務めるほどの将だったが、いかんせん将軍地蔵山城は冬に備えて規模を拡張するために城普請に掛かったばかりだ。松永の果断さに歯噛みするしかない。

 ギッと奥歯を噛みしめた定秀は、視線を正面に戻して全体の戦況を見回す。各地では六角陣から積極的に長柄隊が出ており、白川口と合わせて京の東で一大会戦が始まっていた。

 ―――集中しろ!倅や各軍の動きを見て後詰を出すように進言せねばならん

 前方で広く展開される矢戦に混じって、各陣から大きな鬨の声が響き始めていた。


「中々しぶとい」

 開戦から一刻余りが経ち、神楽岡の戦況は一進一退を続けている。本陣で戦況を見つめる義賢にも苛立ちが募っていた。先ほどから永原勢の苦戦を伝える伝令がひっきりなしに本陣に来ている。だが、三好義興と正面から噛み合っている以上は義賢としても軽々に軍勢を回すわけにはいかない。
 本陣に控える六角義治・義定の兄弟は口数が少なくなっている。義賢や定秀らの放つ殺気に余計な口を挟めなくなっているのだろう。

 だが定秀が見る所、正面は徐々に六角に軍配が上がりつつある。あと一息で三好義興は軍を退かざるを得なくなるはずだ。

「ご隠居様!」
「うむ!」

 定秀と義賢が同時に三好義興方の右翼に乱れを見つけた。
 義賢の軍扇が大きく振り上げられる。

「敵の右翼に突撃だ!松山勢を打ち砕け!」

 義賢の下知に従って平井定武の軍勢が突撃し、三好軍の右翼は大きく崩れ始めた。

 ―――よし、これならば……

 そう思いながら後ろを振り返った定秀は、白川口から駆けて来る使番を目にした。
 先ほどから使番は何度も義賢本陣に来ていたが、今回は様子が異なる。使番の後ろに見える松永勢は明らかに義賢本陣へと向きを変えていた。

「伝令!」
「申せ!」
「瓜生山の永原勢は壊滅!細川次郎様、永原安芸守様、柳本様、薬師寺様は悉くお討死なさいました!松永勢は間もなくこちらの本陣へ攻めかかって参ります!」
「何ぃ!」

 義賢が思わず軍扇を投げすてて使番に詰め寄る。

「永原が討たれただと!」
「ハッ!永原安芸守様を始め、主だった方々が討死されております!」

 ―――間に合わなかったか

 三好義興を打ち崩すのがあと半刻早ければ結果は逆になっていただろう。松永久秀は優勢な戦場を放棄してでも総大将を救出に向かわねばならなかったはずだ。だが、義興に粘られ過ぎた。

「やむを得ん。松永勢を迎え撃つぞ!三雲の甲賀衆を呼べ!」
「ハッ!」



 ※   ※   ※



「かかれー!六角左京大夫の本陣を陥れよ!」

 松永久秀は地蔵山城には抑えを置かず、全軍を持って瓜生山を駆け下った。総大将の三好義興軍は既に崩れ始め、退却を余儀なくされようとしている。
 いかに永原重澄を討ち取ったと言ってもこのまま三好義興が敗走すれば三好軍は敗北する。この戦況を覆すには敵の総大将である六角義賢を討ち取る他無い。

 ―――永原に手間取りすぎた!

 久秀は久秀で充分すぎるほどに焦っていた。将軍地蔵山城を落としたとはいえ、六角にはまだ一万の兵が居る。永原勢の生き残りを収容すれば兵員はさらに増えるはずだ。
 永原勢を追い散らして数的優位を作り出した今この時でなければ六角軍に勝つ見込みは薄い。

「一息に掛かれ!六角左京大夫は陣幕の向こうに居る!功名を上げる好機ぞ!」

 周囲からは大歓声が上がる。松永軍は永原を討ち取ったことで意気盛んとなり、次は大将首を取ってやると燃えている。士気は最高潮に達していた。

 前方を見ると、先陣が六角本陣の陣幕を切り裂いて本陣に突入したのが見えた。
 だが、陣幕の向こうに現れたのは無人の六角本陣だった。

 ―――なんだ?何が起こっている?

 訝る暇も無いままに次々と松永久秀の視界が塗り替えられていく。気が付けば無人の六角陣に突入した松永勢は四方から射込まれる矢に次々と倒されていった。
 先陣の起こした土煙が収まった後、久秀の視界に入ったのは六角本陣を取り囲むように三方の高所から弓を構える三雲勢三百の姿だった。

 ”放てー”という大音声が聞こえたかと思うと、先陣に続いて勢いよく突入していった後続が同じように次々に矢に倒されていく。目の前では先ほどの再現のように全く同じ光景が展開されていた。

「待て!行くな!とまれ!」

 久秀の制止にも関わらず、武功に焦った松永勢は次々に突入しては矢の雨に倒れていく。ようやく松永軍が停止した先には累々たる味方の死骸が横たわっていた。

 ―――くそっ!音に聞く六角弓隊か!

「退くぞ!筑前守様の本陣まで戻る!」

 今までの勝勢から一転、気を削がれた松永勢は算を乱して逃げるように三好義興の本陣へと駆け込んだ。永原勢を打ち崩したとはいえ、これではどちらが勝ったか分からない。いや、全体の戦況を見れば負けたのは三好軍の方だった。

 ―――今回は負けたが、次は必ず六角に勝って見せるぞ

 引き上げる松永久秀の目には引き倒された六角家の馬印が見える。馬印は本陣の象徴でもあるのだから、馬印を倒せば普通は勝利となるはずだ。だが、それすらも囮として松永勢を誘引し、次の決戦に及ぶ兵力を奪い取ったのは見事な采配と言うしかない。

 永禄四年(1561年)十一月二十四日
 将軍地蔵山城の戦いと呼ばれた三好と六角の初めての大会戦は、辛くも六角軍の勝利に終わる。天下を差配した六角定頼亡き後の六角家は再び京洛にその武威を轟かせ、三好と天下を二分する実力者として六角義賢の名を天下に知らしめた。
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