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第三章 蒲生定秀編 木沢長政の乱
第41話 病魔
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主要登場人物別名
筑前守… 三好長慶 三好宗家当主 細川晴元家臣 三好元長の子
弾正… 六角定頼 六角家当主
但馬守… 後藤賢豊 六角家臣
道永… 細川高国 元管領 長慶の父三好元長に敗れて自害する
次郎… 細川氏綱 細川高国の養子 細川晴元に反旗を翻して挙兵する
右馬頭… 細川元常 和泉上守護 細川晴元家臣
宗三… 三好政長 三好一族の傍流 細川晴元の重臣 現在は宗家の長慶を押さえて権勢を誇る
宮内少輔… 朽木晴綱 朽木家当主 稙綱の子
――――――――
「道永の亡霊か……」
大和から和泉に至る進軍中に三好長慶は独りごちる。馬上にある長慶は大阪湾から吹く風の冷たさに思わず首を竦めた。
生駒山地を抜け、目の前には広々とした河内平野が広がる。既に冬に入っている平野部は稲の刈り取りも終わり、大地そのものが冬の寒さに耐えて次に来る春を思い、雌伏の時を過ごしているかのように見えた。
長慶は頭の中で現在の畿内情勢に思いを馳せる。
木沢長政は討ち取られて畿内西側最大の勢力は潰えたが、それが即ち三好長慶の武威の上昇につながったわけではない。
今回の太平寺の戦いでは、勝ったのは遊佐長教というのが世上でのもっぱらの評判だ。
―――このままでは俺は摂津の一守護代として終わることになるかもしれない
長慶の心にも焦る気持ちがある。
六角定頼の計らいによって幕府直臣として摂津半国守護代の地位を確かなものにしたはいいが、宿願である父元長の旧領回復は果たせていない。
何よりも河内十七箇所という一大荘園群の支配権を手に入れなければ、畿内第一の実力者と言われた父には追い付けない。
現在河内十七箇所を支配する三好政長に関しては、その依怙贔屓ぶりを指弾する声も高かった。木沢長政が太平寺の戦いの前にも言及していたが、元来三好政長は最初に細川高国を京から追い出した桂川原の戦い以後目立った戦功は無い。
にもかかわらず、細川晴元は三好政長を重用し、晴元の重臣として政権運営に口出しするまでになっている。
細川晴元によほど気に入られているのだろう。
―――このままでは俺はいつまでも宗三の風下に立たざるを得なくなる
今回の細川氏綱討伐は細川晴元政権下での存在感を出す好機でもある。
この戦で抜群の戦功を上げれば、あるいは亡き父の旧領を回復する足掛かりにもなるかもしれない。
細川晴元からの要請があったこともあるが、何よりも長慶は自分のために細川氏綱を討とうと決心していた。
「何やら騎馬が駆けてきますな」
隣の篠原長政の言葉に長慶も改めて正面に視線を向ける。篠原長政の言う通り、西から騎馬が三騎ほど駆けて来る。いずれも鎧兜に身を包んだ戦時体制だ。
「堺で何か変事があったかな?」
「さて、もしかすると戦端が開かれたのかもしれません。我らも進軍の足を速める必要があるかもしれませんぞ」
「あまりここで兵に無理をさせたくはないのだがな……」
篠原長政と話すうちにも騎馬の影がどんどんと近付き、軍勢の先頭の中に埋もれていった。
程なくして人波から出て来た騎馬は、やがて三好長慶の前に到着する。
「伝令!」
「申せ!」
「和泉槙尾寺に籠った細川次郎は細川右馬頭様の軍勢により撃退されました!次郎方の残党はまだ活動しており、筑前守殿には堺の治安回復にご協力頂きたいとのこと!」
―――戦が既に終わった?
長慶の顔には明らかな落胆がある。
今度こそ抜群の戦功を立てると密かに決意していたが、到着前に戦が終わってしまった。
これでは戦功を立てるも何もあったものではない。
「……ご苦労。某はこのまま堺に進軍致すとお伝えあれ」
「ハッ!」
再び騎馬が駆けて行く後姿を見送りながら、長慶は視線の先に見える河内平野の姿に自分の姿を重ねた。
―――俺の春はいつ来るのだろうな
自分も父の死後は長い雌伏の時を過ごしている。
少しづつ世間から認められてきたとはいえ、未だ畿内の情勢を左右できるほどの影響力は無い。
翻って、かつてはあの六角定頼と対等に対峙していた三好元長の後姿は、未だはるか遠くに霞んでいるように思える。
自らを不肖の息子と自嘲したくなった。
「冬は長いな……」
「……殿?」
長慶の内心を知ってか知らずか、篠原長政が気づかわしげな顔で長慶の顔を覗き込む。
「いや、何でもない。全軍に一旦休息を取らせろ。既に戦が終わったのなら、急いで行く必要もあるまい」
「……ハッ!」
―――俺は、本当に弾正をも超える男になれるのか?
長慶の声にならない問いは、冬の風と共に生駒山中へと消えて行った。
※ ※ ※
観音寺城下の六角定頼の屋敷では、進藤貞治と後藤賢豊が定頼を前に話し込んでいる。
「此度朽木から田中の乱暴狼藉があったと申し出がありました。朽木宮内少輔殿は田中を非を訴えておりますが、武力でこれを解決することは慎み、御屋形様の裁定に従いたいと申しております」
後藤賢豊が書状を前に定頼に状況を説明する。
六角の重臣として長く近江国内の調停役を務めてきた後藤高恒は二年前に亡くなり、若干二十歳の後藤賢豊が跡を継いでいる。まだ若年のため進藤貞治がその業務を補佐していた。
「そもそも、何故田中の乱暴狼藉が起こったのだ?」
「ハッ!
元々は朽木領の山中に田中領の者が無断で入り、竹木の伐採を行ったとのこと。朽木殿は無断侵入として狼藉人を召し捕りましたが、それを恨みに思った田中が報復として朽木領の商人の荷を強奪したとのことにございます」
定頼が眉間を指で押さえながら首を左右に振る。
そんなことをすれば朽木が怒るのも当たり前だ。むしろ、戦になるのをぐっと堪えて定頼に裁定を依頼してきた朽木晴綱の態度の方がはるかに冷静で大人の対応と言える。
「相談するまでも無いな。だが、一応田中の言い分も文書で確認しておいてくれ」
「ハッ!」
書状が文箱に戻され、次の文書が回される。
「次は永源寺領についてですが……御屋形様?」
文書から視線を上げた進藤貞治が慌てて定頼に駆け寄る。上座の定頼は胸を押さえて苦しそうに呻いていた。
「但馬守!すぐに医者を!それと御屋形様が横になれる場所を用意しろ!」
「ハ……ハハッ!」
慌てて後藤賢豊がバタバタと居室を出て行く。
進藤はひとまず定頼を横にならせ、体を楽な姿勢にさせる。定頼の額には玉のような汗が浮き、尚も苦しそうな表情をしていた。
「御屋形様!お気を確かにお持ちください!まだまだ死ぬるには早すぎますぞ!」
「うぐぐ……新助。大事ない。わしはまだ……うぐっ」
「今はお体をお休めください。すぐに医者が参ります」
やがて屋敷全体が慌ただしくなり、後藤賢豊の手配によってすぐに小姓が数名やって来た。
「進藤様。ご寝所の用意ができました」
「よし、お主らは御屋形様をご寝所までお運びしろ。くれぐれもお体に負担をかけぬようにな」
「ハッ!」
小姓数名が棒の間に布地を大きく張り、担架のような形にして定頼を横にしたまま運び出す。
進藤は定頼が寝所に移動したことを確認すると、急いで観音寺城に赴いて六角義賢に事の次第を報せた。
※ ※ ※
「御屋形様。心配いたしましたわ」
「志野。済まんなぁ。こんなに大袈裟に騒がずとも良いのだが」
涙を浮かべた志野が定頼の手を握って首を左右に振る。
定頼は四十九歳、志野は四十三歳。
当時としては老夫婦と言っていい年だったが、今もなお定頼は何かというと志野と共に出かけることが多かった。
「今はお心を安らかにお休みください。政は息子の左京大夫殿が滞りなく行いましょう」
志野の後ろには二人の息子である六角義賢の姿もある。
義賢の後ろには蒲生や進藤を始め、六角家臣の主だった者が勢ぞろいしていた。
「失礼いたします」
寝所の戸が開き、医師の吉田忠宗が定頼の側に来て脈を取る。
「容体はかなり安定してきておりますな。この分ならば、すぐにお命に関わることはないでしょう」
吉田の言葉に、一座にも安堵のため息が漏れる。
定頼は六角家を畿内随一の勢力に押し上げた名君だ。天下にとっても、今定頼を失う訳にはいかなかった。
「今はともかく体を休め、薬湯と滋養のある食事を採ることが肝要です。御家中の方々は一旦お下がり頂く方が良いかと」
「聞いた通りだ。今は父上に安らかに休んでいただくことが第一。皆も心配ではあろうが、一旦下がってそれぞれの役目に戻ってくれ」
義賢の言葉に、家臣達は一礼して座を下がっていく。定秀も一礼して座を下ると、控えの間で進藤と共に難しい顔をして話し合っていた。
「今後は御屋形様に無理をさせるわけには行かぬ。若殿の御器量はどうだ?」
「若殿は決して暗愚なお方ではありません。政務の大部分は若殿の裁可を頂き、これ以上御屋形様にご負担をかけぬようにしていくべきかと」
「そうだな。そろそろ若殿にも御家を支える風格を持って頂くべきかもしれん」
進藤も今後は義賢を積極的に政務に関わらせるべきという気持ちがある。
既に義賢も二十三歳。一人前と言ってもいい年ごろだ。
若い頃の義賢は何かといえばすぐに体調を崩すことがあり、線の細さが気になっていた。だが、近頃では日置流の弓の訓練のおかげか、体も丈夫になり滅多なことでは体調を崩さなくなっている。
―――わしも御屋形様も、そろそろ若い者に道を譲る時かもしれんな
目の前に座る蒲生定秀はますますの男盛りを迎えている。もう老人の出番は終わったということかもしれない。
定頼は認めたがらないだろうが、次世代に道を譲る時が来ているのだろうと思う。
「吉田殿はしばらくお屋敷に滞在してくださるとのことだ。京のことはご子息に任せて駆けつけてくれた。
御屋形様がお元気を取り戻すまでの間、政務はお主や若殿を中心に行うようにしよう」
「ハッ!」
京で定頼病むの報せを聞いた義晴は動転し、幕府お抱えの名医として評判を取っている吉田忠宗を遣わして治療に当たらせた。
吉田忠宗は医者として得た財を元に土倉業(貸金業)も営んでおり、通りの角地に倉を構えたことから『角倉』と呼ばれていた。
忠宗は近江下向に際して長男に土倉業を、次男に京の患者を任せて来ている。
天文十二年(1543年)二月
その武威によって将軍足利義晴を支え、天下人として幕府を差配した六角定頼は病に倒れた。
だが、木沢長政の乱が鎮圧されたことで畿内はある程度静謐を取り戻したとはいえ、摂津や河内の内紛はまだ完全に終結したわけではない。
時代はまだ六角定頼を必要といていた。
筑前守… 三好長慶 三好宗家当主 細川晴元家臣 三好元長の子
弾正… 六角定頼 六角家当主
但馬守… 後藤賢豊 六角家臣
道永… 細川高国 元管領 長慶の父三好元長に敗れて自害する
次郎… 細川氏綱 細川高国の養子 細川晴元に反旗を翻して挙兵する
右馬頭… 細川元常 和泉上守護 細川晴元家臣
宗三… 三好政長 三好一族の傍流 細川晴元の重臣 現在は宗家の長慶を押さえて権勢を誇る
宮内少輔… 朽木晴綱 朽木家当主 稙綱の子
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「道永の亡霊か……」
大和から和泉に至る進軍中に三好長慶は独りごちる。馬上にある長慶は大阪湾から吹く風の冷たさに思わず首を竦めた。
生駒山地を抜け、目の前には広々とした河内平野が広がる。既に冬に入っている平野部は稲の刈り取りも終わり、大地そのものが冬の寒さに耐えて次に来る春を思い、雌伏の時を過ごしているかのように見えた。
長慶は頭の中で現在の畿内情勢に思いを馳せる。
木沢長政は討ち取られて畿内西側最大の勢力は潰えたが、それが即ち三好長慶の武威の上昇につながったわけではない。
今回の太平寺の戦いでは、勝ったのは遊佐長教というのが世上でのもっぱらの評判だ。
―――このままでは俺は摂津の一守護代として終わることになるかもしれない
長慶の心にも焦る気持ちがある。
六角定頼の計らいによって幕府直臣として摂津半国守護代の地位を確かなものにしたはいいが、宿願である父元長の旧領回復は果たせていない。
何よりも河内十七箇所という一大荘園群の支配権を手に入れなければ、畿内第一の実力者と言われた父には追い付けない。
現在河内十七箇所を支配する三好政長に関しては、その依怙贔屓ぶりを指弾する声も高かった。木沢長政が太平寺の戦いの前にも言及していたが、元来三好政長は最初に細川高国を京から追い出した桂川原の戦い以後目立った戦功は無い。
にもかかわらず、細川晴元は三好政長を重用し、晴元の重臣として政権運営に口出しするまでになっている。
細川晴元によほど気に入られているのだろう。
―――このままでは俺はいつまでも宗三の風下に立たざるを得なくなる
今回の細川氏綱討伐は細川晴元政権下での存在感を出す好機でもある。
この戦で抜群の戦功を上げれば、あるいは亡き父の旧領を回復する足掛かりにもなるかもしれない。
細川晴元からの要請があったこともあるが、何よりも長慶は自分のために細川氏綱を討とうと決心していた。
「何やら騎馬が駆けてきますな」
隣の篠原長政の言葉に長慶も改めて正面に視線を向ける。篠原長政の言う通り、西から騎馬が三騎ほど駆けて来る。いずれも鎧兜に身を包んだ戦時体制だ。
「堺で何か変事があったかな?」
「さて、もしかすると戦端が開かれたのかもしれません。我らも進軍の足を速める必要があるかもしれませんぞ」
「あまりここで兵に無理をさせたくはないのだがな……」
篠原長政と話すうちにも騎馬の影がどんどんと近付き、軍勢の先頭の中に埋もれていった。
程なくして人波から出て来た騎馬は、やがて三好長慶の前に到着する。
「伝令!」
「申せ!」
「和泉槙尾寺に籠った細川次郎は細川右馬頭様の軍勢により撃退されました!次郎方の残党はまだ活動しており、筑前守殿には堺の治安回復にご協力頂きたいとのこと!」
―――戦が既に終わった?
長慶の顔には明らかな落胆がある。
今度こそ抜群の戦功を立てると密かに決意していたが、到着前に戦が終わってしまった。
これでは戦功を立てるも何もあったものではない。
「……ご苦労。某はこのまま堺に進軍致すとお伝えあれ」
「ハッ!」
再び騎馬が駆けて行く後姿を見送りながら、長慶は視線の先に見える河内平野の姿に自分の姿を重ねた。
―――俺の春はいつ来るのだろうな
自分も父の死後は長い雌伏の時を過ごしている。
少しづつ世間から認められてきたとはいえ、未だ畿内の情勢を左右できるほどの影響力は無い。
翻って、かつてはあの六角定頼と対等に対峙していた三好元長の後姿は、未だはるか遠くに霞んでいるように思える。
自らを不肖の息子と自嘲したくなった。
「冬は長いな……」
「……殿?」
長慶の内心を知ってか知らずか、篠原長政が気づかわしげな顔で長慶の顔を覗き込む。
「いや、何でもない。全軍に一旦休息を取らせろ。既に戦が終わったのなら、急いで行く必要もあるまい」
「……ハッ!」
―――俺は、本当に弾正をも超える男になれるのか?
長慶の声にならない問いは、冬の風と共に生駒山中へと消えて行った。
※ ※ ※
観音寺城下の六角定頼の屋敷では、進藤貞治と後藤賢豊が定頼を前に話し込んでいる。
「此度朽木から田中の乱暴狼藉があったと申し出がありました。朽木宮内少輔殿は田中を非を訴えておりますが、武力でこれを解決することは慎み、御屋形様の裁定に従いたいと申しております」
後藤賢豊が書状を前に定頼に状況を説明する。
六角の重臣として長く近江国内の調停役を務めてきた後藤高恒は二年前に亡くなり、若干二十歳の後藤賢豊が跡を継いでいる。まだ若年のため進藤貞治がその業務を補佐していた。
「そもそも、何故田中の乱暴狼藉が起こったのだ?」
「ハッ!
元々は朽木領の山中に田中領の者が無断で入り、竹木の伐採を行ったとのこと。朽木殿は無断侵入として狼藉人を召し捕りましたが、それを恨みに思った田中が報復として朽木領の商人の荷を強奪したとのことにございます」
定頼が眉間を指で押さえながら首を左右に振る。
そんなことをすれば朽木が怒るのも当たり前だ。むしろ、戦になるのをぐっと堪えて定頼に裁定を依頼してきた朽木晴綱の態度の方がはるかに冷静で大人の対応と言える。
「相談するまでも無いな。だが、一応田中の言い分も文書で確認しておいてくれ」
「ハッ!」
書状が文箱に戻され、次の文書が回される。
「次は永源寺領についてですが……御屋形様?」
文書から視線を上げた進藤貞治が慌てて定頼に駆け寄る。上座の定頼は胸を押さえて苦しそうに呻いていた。
「但馬守!すぐに医者を!それと御屋形様が横になれる場所を用意しろ!」
「ハ……ハハッ!」
慌てて後藤賢豊がバタバタと居室を出て行く。
進藤はひとまず定頼を横にならせ、体を楽な姿勢にさせる。定頼の額には玉のような汗が浮き、尚も苦しそうな表情をしていた。
「御屋形様!お気を確かにお持ちください!まだまだ死ぬるには早すぎますぞ!」
「うぐぐ……新助。大事ない。わしはまだ……うぐっ」
「今はお体をお休めください。すぐに医者が参ります」
やがて屋敷全体が慌ただしくなり、後藤賢豊の手配によってすぐに小姓が数名やって来た。
「進藤様。ご寝所の用意ができました」
「よし、お主らは御屋形様をご寝所までお運びしろ。くれぐれもお体に負担をかけぬようにな」
「ハッ!」
小姓数名が棒の間に布地を大きく張り、担架のような形にして定頼を横にしたまま運び出す。
進藤は定頼が寝所に移動したことを確認すると、急いで観音寺城に赴いて六角義賢に事の次第を報せた。
※ ※ ※
「御屋形様。心配いたしましたわ」
「志野。済まんなぁ。こんなに大袈裟に騒がずとも良いのだが」
涙を浮かべた志野が定頼の手を握って首を左右に振る。
定頼は四十九歳、志野は四十三歳。
当時としては老夫婦と言っていい年だったが、今もなお定頼は何かというと志野と共に出かけることが多かった。
「今はお心を安らかにお休みください。政は息子の左京大夫殿が滞りなく行いましょう」
志野の後ろには二人の息子である六角義賢の姿もある。
義賢の後ろには蒲生や進藤を始め、六角家臣の主だった者が勢ぞろいしていた。
「失礼いたします」
寝所の戸が開き、医師の吉田忠宗が定頼の側に来て脈を取る。
「容体はかなり安定してきておりますな。この分ならば、すぐにお命に関わることはないでしょう」
吉田の言葉に、一座にも安堵のため息が漏れる。
定頼は六角家を畿内随一の勢力に押し上げた名君だ。天下にとっても、今定頼を失う訳にはいかなかった。
「今はともかく体を休め、薬湯と滋養のある食事を採ることが肝要です。御家中の方々は一旦お下がり頂く方が良いかと」
「聞いた通りだ。今は父上に安らかに休んでいただくことが第一。皆も心配ではあろうが、一旦下がってそれぞれの役目に戻ってくれ」
義賢の言葉に、家臣達は一礼して座を下がっていく。定秀も一礼して座を下ると、控えの間で進藤と共に難しい顔をして話し合っていた。
「今後は御屋形様に無理をさせるわけには行かぬ。若殿の御器量はどうだ?」
「若殿は決して暗愚なお方ではありません。政務の大部分は若殿の裁可を頂き、これ以上御屋形様にご負担をかけぬようにしていくべきかと」
「そうだな。そろそろ若殿にも御家を支える風格を持って頂くべきかもしれん」
進藤も今後は義賢を積極的に政務に関わらせるべきという気持ちがある。
既に義賢も二十三歳。一人前と言ってもいい年ごろだ。
若い頃の義賢は何かといえばすぐに体調を崩すことがあり、線の細さが気になっていた。だが、近頃では日置流の弓の訓練のおかげか、体も丈夫になり滅多なことでは体調を崩さなくなっている。
―――わしも御屋形様も、そろそろ若い者に道を譲る時かもしれんな
目の前に座る蒲生定秀はますますの男盛りを迎えている。もう老人の出番は終わったということかもしれない。
定頼は認めたがらないだろうが、次世代に道を譲る時が来ているのだろうと思う。
「吉田殿はしばらくお屋敷に滞在してくださるとのことだ。京のことはご子息に任せて駆けつけてくれた。
御屋形様がお元気を取り戻すまでの間、政務はお主や若殿を中心に行うようにしよう」
「ハッ!」
京で定頼病むの報せを聞いた義晴は動転し、幕府お抱えの名医として評判を取っている吉田忠宗を遣わして治療に当たらせた。
吉田忠宗は医者として得た財を元に土倉業(貸金業)も営んでおり、通りの角地に倉を構えたことから『角倉』と呼ばれていた。
忠宗は近江下向に際して長男に土倉業を、次男に京の患者を任せて来ている。
天文十二年(1543年)二月
その武威によって将軍足利義晴を支え、天下人として幕府を差配した六角定頼は病に倒れた。
だが、木沢長政の乱が鎮圧されたことで畿内はある程度静謐を取り戻したとはいえ、摂津や河内の内紛はまだ完全に終結したわけではない。
時代はまだ六角定頼を必要といていた。
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