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第一章 蒲生定秀編 両細川の乱

第16話 箕浦河原の合戦

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主要登場人物別名

藤十郎… 蒲生定秀 六角家臣
三郎… 池田高雄 六角家臣 宿老格

京極五郎… 京極高延 京極高吉と家督争いをする 六角家と敵対している

公方… 足利義晴 十二代足利将軍

――――――――

 
 享禄四年(1531年)も三月に入り、眩しい春の日差しが京に降り注ぐ頃、蒲生定秀は進藤貞治に呼び出されて東寺の六角本陣に出向いていた。

「おお、藤十郎か。洛中の警備ご苦労だな」
「いえ、それより御用の向きはどういった…?」
 総大将として六角上洛軍を取りまとめる進藤は浮かない顔で本陣に座している。
 進藤の手元には一枚の書状があり、今の今まで難しい顔をして書状を睨みつけていた。

「実は坂本まで一旦陣を退いてもらいたいのだ」
「はあ… それは、本陣を京から引き揚げるという事で?」
「いや、蒲生勢と永原勢だけ坂本に退いてもらう」

 ―――何かあったな…

 定秀は妙に胸が騒いだ。こういう感じを受ける時は大抵ロクな事がない。

「京極五郎が動いた。高島郡に軍を進め、滞在されている公方様をとりこにする為に朽木谷を攻める構えを取っておるそうだ」
「!!!」
 定秀の顔にも驚きがあった。定頼が観音寺城で睨みを利かせている以上、小谷城を留守にするのは危険すぎる賭けだからだ。

 京極高延は当然ながら六角定頼と細川晴元の密約を知らない。
 その為に細川高国方として軍勢を出している六角定頼を東西から挟撃するべく、細川晴元の支援を表明している。
 だが京極高延自身には自由に動かせる軍勢が少なく、必然的に北近江の実権を握る浅井亮政が京極軍の主導権を握っていた。
 今回の朽木攻めも浅井を中心とした国人衆の軍勢が動いていた。


「公方様は我らの手勢によって朽木谷を脱出し、今は桂川を下っておられる。堅田に出た後、明日には坂本に参られよう。
 藤十郎には公方様を坂本でお迎えし、永原の軍勢に警護を引き継いだあと急いで鎌刃城へ向かってもらう」
「と、いうことは……」
「ああ、御屋形様は今度こそ浅井と決着をつける御心積もりだ」

 ―――いよいよか

 定秀は北河又五郎の姿を思い出していた。
 日輪をかたどった前立ての兜を被り、紺糸威こんいとおどしの鎧をまとった又五郎とは鎌刃城での対陣で何度も対戦したが、そのたびにあわや防陣を食い破られそうな程に激烈な突撃を見せていた。
 あの騎馬の用兵はたくみと言う他ない。
 まだ定秀とさほど変わらぬ年に見えるが、いつ向き合っても油断ならない相手だった。

「三雲勢も今頃は伏兵の準備をしていよう。そなたを呼ぶという事は、それだけ御屋形様は本気だという事だ」

 昨年の十一月に共に先陣として上洛した三雲勢は、進藤の進出と前後して定頼から観音寺城に呼び戻されていた。
 今頃は資胤の指示の元で定持が戦場になりそうな場所に伏兵を置く拠点を作っているのだろう。
 決戦はそれほど先の事ではないという確たる予感があった。



 ※   ※   ※



 享禄四年(1531年)四月三日
 六角定頼は居城観音寺城を発ち、鎌刃城の南にある鳥居本の佐和山城に陣を進めていた。

「三郎。首尾はどうか」
 佐和山城の評定の間には戦を前にした緊張感がみなぎっている。
 主君六角定頼を前に、六角家の年寄衆が集結して軍議を開いていた。上座に座る定頼に対し、宿老の池田高雄が副将格として隣に控えている。

「はっ。後藤・平井・目賀田・馬淵・高野瀬・三井・青地の各隊は鎌刃城にて出陣の準備を整え終わりました。三雲は多和田山中に拠点を構築し、兵を伏せております」
「蒲生はどうだ?」
「藤十郎も明日にはこちらに到着しましょう。昨日坂本を発ったと伝令が参っております」
「うむ」

六角の動きに対して浅井も軍勢を北近江に引き返している。
決戦は数日中に行う事になるだろう。蒲生勢が決戦に間に合いそうな情勢に定頼も心強さを覚えた。


 定頼には心中深く期するところがあった。
 先年の小谷攻めでは京極高清・高延親子と浅井亮政の降伏と国外追放によって事を収めた。伊庭・久里の残党軍を徹底的に討伐するため、北近江の決着を焦ってしまったという反省がある。

 だが、他国に追い払った所で支援する勢力があれば簡単に再起してしまう事が良く分かった。
 まして周辺には朝倉だけでなく美濃の土岐頼芸や尾張の織田氏一統などもいる。六角氏の――言い換えれば幕府守護職の権威が届かない相手が、それぞれの思惑で守護や守護代を相手に争っている。
 何かのきっかけで浅井を支援して近江に侵攻するという事も充分にあり得た。

 ―――今度こそ浅井を屈服させる

 浅井を追い出しても意味が無いのであれば、浅井が膝を屈して六角の旗の元に頭を垂れるようにするのが上策だ。近江一国が六角の『隅立て四ツ目すみたてよつめ』の旗の元にまとまれば、他国の干渉は大部分が避けられる。干渉する理由が無くなるからだ。
 畿内の騒乱はまだ収まる気配を見せない。今この時にいつまでも北近江に足を取られるわけにはいかなかった。


「浅井の動きはどうか」
「はっ。我らが佐和山に進出した事を受けて小谷に取って返しているようです」
「朽木には攻めかかってはおらんのだな?」
「はい。公方様の居ない朽木を攻めても無意味なのはよくわかっておりましょう」
「……そうだな」

 ―――弥五郎殿を巻き込まずに済んだか

 定頼にしても今回の浅井の動きは想定外だった。
 細川晴元に味方することは分かっていたが、それが即ち将軍義晴奪取に向けての動きになるとは予想していなかった。
 現実に浅井が朽木を攻める事になれば朽木植綱に申し訳ない事になる。
 その点では一安心だった。


「皆聞け。此度は城攻めなどという事はせぬ。野戦で浅井を正面から打ち破り、屈服させる事が目的であると心得よ」
「「ハッ!」」

 一つ頷いた定頼は、蒲生勢の来着を待って佐和山城を出陣した。


 急いで坂田郡に軍勢を戻した浅井亮政は五年前と同じく顔戸ごうどの地に本陣を構え、各将を箕浦みのうらに密集して布陣させた。『魚鱗ぎょりんの陣形』で六角を迎え撃つ構えだ。
 頼みの朝倉は加賀の一向一揆の動きに対応するために越前を離れることが出来ず、敦賀郡司の朝倉景紀率いる一千の援軍を出すのが精一杯だった。

 一方の六角定頼は太尾山ふとおやまに本陣を構え、副将の池田高雄は湖水沿いの朝妻あさづまに陣を取る。浅井の裏手には三雲率いる甲賀の伏兵が密やかに陣を張り、魚の鱗を包み込むように『鶴翼かくよくの陣形』を取った。

 蒲生定秀は岩脇いおぎに陣を張り、天野川を挟んで最前線で浅井軍と対峙した。
 翼を広げた鶴の頭に位置する蒲生勢は、合戦で最も多くの敵を迎える最激戦地の受け持ちだった。


 そして、享禄四年四月六日
 遂に合戦の火蓋が切って落とされる。

 六角軍 一万三千
 浅井軍 八千

 世に言う『箕浦河原の合戦』が始まった。



 ※   ※   ※



「又九郎!小四郎の後詰をしろ!前を破られれば後ろはないと思え!」
 蒲生陣から森又九郎の率いる兵百が前線へと飛び出す。
 早朝の開戦から矢戦を交えた後、予想に反して浅井軍は前線を積極的に押し上げてきた。

 ―――くそっ!守りの陣形に入ったのではないのか!このままでは池田軍が後ろを突く事が分からんはずはあるまい!

 心中の焦りを押し隠し、必死になって前線を維持する。開幕は浅井が守りで六角が攻めに出ると予想していたが、ものの見事に裏切られた。

 定秀の予想は決して的外れではない。戦力差がある時の魚鱗は堅く守りながら戦況を見極め、機を見て相手の弱い所に兵力を集中するのが定石だ。
 後年の関ケ原の戦いにおいても魚鱗の陣を敷いた徳川家康に対し、鶴翼の陣で臨む石田三成は当初優勢に合戦を展開している。
 その意味で浅井の初手からの攻めは掟破りもいい所だった。

「殿!右翼の和田新三郎隊が押し込まれております!」
「宗衛門を出せ!中央は将監が抑える!」
 伝令を受けて西田宗衛門が兵百を引き連れて前線に向かう。集団で前線を押し上げて来る浅井軍に対し、蒲生勢だけで前線を維持するのは限界があった。

「本陣に後詰の要請を出せ!敵は正面から圧力を掛けて来ている!翼に包まれる前に正面突破を図るつもりだ!」
 定秀の言葉を受けて使番が三騎、後方の太尾山に向けて走り出す。
 先ほどから兵の戦う声がうるさく響いてきていた。


 蒲生勢の右後方に当たる岩脇山からは平井の弓隊が援護の矢を次から次に射かけてくれているが、今蒲生が押し込まれれば平井勢が前線に立つ破目になってしまう。
 何としても持ちこたえねばならない場面だった。

 半刻(一時間)ほど戦況を眺めた定秀は、兵の士気が徐々に下がっている事に目が行った。
 日野の生え抜きの地侍も損耗し、一部は足軽を金で雇っている。その足軽兵が徐々に下がり始めていた。


「槍を持て!」
 馬上から前線を睨みつけていた定秀が突如槍持の小者に声を張り上げる。
 慌てた外池弥七が定秀の馬首を掴んだ。

「殿!何を!」
「知れた事!俺自ら前線に出る!」
「危険です!今我が軍は前線を維持するので精一杯です!殿を討たれては六角軍そのものが崩壊しかねませんぞ!」
「それ故、青地勢に後詰を頼んだ!今は俺自ら前線で槍を振るい、兵を鼓舞せねばならん!」

 弥七と彦七が顔を見合わせる。頷き合うと、それぞれ自分の槍を受け取った。

「では、我らもお供いたします!」
「おお!続け!」

「殿が出るぞ!皆続けぇぇぇぇ!」
 彦七の声に合わせて馬廻衆が鬨の声を上げる。
 最小限の後詰兵三百を町野将監に預け、蒲生勢二千二百は全員で前線に躍り出た。



 ※   ※   ※



 太尾山の本陣で立って戦況を眺める六角定頼は、軍扇をてのひらもてあそびながら対い鶴の旗を見つめていた。

 ―――藤十郎。今しばし耐えよ

 最大の激戦地から視線を左に移すと、池田軍の先鋒を務める後藤高恒隊が間もなく正面の敵を攻め破るかに見える。
 池田軍が浅井の横腹を突けばこの戦は勝ちだ。それまで蒲生が前線を維持できるかどうかが勝負の分かれ目だった。

 開戦からすでに一刻(二時間)が経過している。定頼にとっても浅井の出方は予想外だったが、開幕から積極的に前に出ている浅井軍にとってはそろそろ疲労が出て来る時間帯だ。

 ―――来た!

 後藤隊の先頭が敵陣の後ろに出たのが見えた。間もなく池田軍は浅井の前線を圧し潰して鶴の翼を閉じるだろう。包囲陣形の完成だ。

「法螺貝を鳴らせ!三雲勢を攻めかからせよ!ここで一気に勝負を決めるぞ!」

 定頼の合図に法螺貝が箕浦河原に響き渡る。
 今まで伏兵として取って置いた三雲勢が一斉に姿を現して攻めかかる手はずになっている。
 三雲に対応した頃合いに池田軍が反対側の側面を突く。

 定頼は勝利を確信した。



 ※   ※   ※



「セァァァァ!」
 正面の敵の首筋に定秀の槍が深々と突き刺さる。相手も名のある武士のようだが、お互いに名乗りあっている余裕もない。
 兜首を放置して次の敵に向かう。

「ハァッ!」
 馬の足を払おうとしてきた長柄足軽の胸を貫く。胴丸を軽々と刺し貫いた槍は、定秀の引き手に合わせて素早く手元に戻って次の刺突に備えた。

「くそっ!池田軍はまだ前線を突破できんのか!」
 周りを見回しながら近寄る敵を突き、薙ぎ払ってゆく。
 定秀自身も数カ所の手傷を負い、全体の戦況を見る余裕はとっくに無くなっていた。

「殿!しばしお下がりあれ!ここは某が!」
 そう言って定秀の前に彦七が立ちふさがって敵兵を突いていく。弥七は前線で息が切れだしている兵の補強に向かっている。

 定秀も馬廻衆も槍はおろか鎧兜まで自身の血と返り血で真っ赤に染まっていた。

 ―――くそっ!キリがない!

 浅井軍は魚鱗の密集陣形の強みを活かし、兵の疲労が溜まると交代して後ろから新たな兵が攻めかかって来る。
 対して蒲生勢は一刻の間戦いっぱなしで、ようやくその疲労の差が出始めていた。
 後詰に来てくれた青地勢も既に前線に投入され、正面は三井勢が新たな後詰として前線近くにまで出てきている。
 三井を抜けば定頼本陣までは障害物は無くなる。
 六角軍の正面が先に息切れを起こしそうな気配だった。

「ハァッ!」
 再び前に出た定秀の槍先で足軽頭らしき兜首が血しぶきを上げながら倒れる。
 既に何人討ち取ったかわからなくなっていた。

 ―――まだか!池田軍はまだか!

 その瞬間、定頼本陣から法螺貝の音が響く。包囲完成の合図だった。

「我らの勝ちだ!浅井は囲まれて陣を乱すぞ!」
「オオオ!」
 定秀の激に周囲の者が歓声を上げて再び正面の敵に攻めかかる。
 あと一息で浅井軍は崩壊するはずだ。


 その時、どこからともなく三十騎ほどの騎馬の一団が飛び出した。
 定秀の激に全員の目が正面に集中している中、定秀と弥七だけがその異様さに目を引かれた。

 騎馬の一団は旗指物を差さずに密やかに前へ出てきている。その静かさは血で血を洗う合戦の中にあって一種異様な迫力を持っていた。

 先頭を駆ける騎馬武者の兜には日輪の前立てが輝いている。
 定秀は背中に悪寒を感じてその一団を追跡し始めた。





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