鶴が舞う ―蒲生三代記―

藤瀬 慶久

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序章 蒲生藤十郎

第6話 北近江平定

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主要登場人物別名

藤十郎… 後の蒲生定秀
弥五郎・民部少輔… 朽木植綱 朽木家当主
源左衛門… 香庄貞信 六角家臣 朽木家との交渉役を担当
藤兵衛尉… 蒲生秀紀 蒲生家現当主 定秀の従兄弟

――――――――

 

「藤十郎!よくやったな!」
 観音寺城の留守居役である池田高雄は、城内に蒲生勢の生き残りを収容すると藤十郎の所までやって来て褒めたたえた。
 外池兄弟も何とか生き残ってはいたが、すでに藤十郎達は戦う余力を失っていた。

「お味方の軍勢も到着した。その方が時間を稼いだおかげだ」
「お褒めの言葉ありがたく。されど、未だ黒橋口・島郷には敵勢が…」
「何、我らも明日は討って出る。城の守りは心配するな。お主が貴重な一日を稼ぎ出してくれたおかげだ」

 隊列を乱していた伊庭・久里勢も、再び黒橋口に集合して軍勢を整えていた。
 藤十郎達は必死になって戦ったが敵方の被害は百を少し下回るくらいで、本隊には何の痛痒つうようも与えてはいなかった。
 とはいえ、一日という時間を稼ぎ出したのは紛れもなく藤十郎の手柄だ。

 ―――しかし、速い…

 北からの援軍は明日になると藤十郎は計算していた。
 想定より一日早く援軍が到着したことが不可解だったが、高郷の言葉に納得した。

「御屋形様はお主の文よりも早くに事態を掴んでおられた。わしはこちらに戻る途中でお主の文を受け取ったのだ」

 定頼の持つ諜報の素早さと不測の事態への対応力に改めて藤十郎は舌を巻いた。


 翌日には蒲生勢は観音寺城の防備を任され、池田率いる留守居隊を含めた六角勢は、二千五百の軍勢となって黒橋口にたむろする敵勢と会戦を行った。
 陣借りにて一番槍を務めた杉山三郎兵衛一統が敵先陣の西川又次郎を討ち取るという活躍もあり、六角勢は散々に敵兵を打ちのめし、伊庭・久里の残党を再起不能にまで追い込んだ。
 杉山三郎兵衛は定頼から感状を与えられると共に定頼の直臣として取り立てられ、近江国内の旧領も安堵された。


 黒橋口合戦の翌、九月三日
 伊庭・久里の軍が大敗したことを受け、小谷城は朝倉の仲介で降伏。浅井亮政は城を明け渡すと美濃へ遁走した。
 九月六日には名目上の総大将だった京極高延は尾張に逃げ、弟の京極高吉は六角氏に降ってその庇護の元に入る事となった。
 佐々木道誉以来の名門・京極佐々木家は北近江の支配権を全て失い、六角家は晴れて近江一国を手中に収めた。



 ※   ※   ※



 九月二十五日
 美濃へ逃げた浅井が戻らぬようにと、未だ高野瀬に陣取って事後処理に当たっていた朽木植綱の元に、六角家臣香庄こうのしょう貞信さだのぶが訪問していた。
 事後処理の為に湖北に残っていた定頼も、この前日に観音寺城へ帰還していた。

「民部少輔殿には、先年の音羽城攻めに引き続き此度の浅井攻めの馳走、まことにかたじけないと主君弾正より言伝を預かっております」
「いや、何ほどの事は…」
 それなりの出費をして参陣しているのだから、何がしかの見返りはもらえる物なら欲しかった。
 だが、それを直接催促することは植綱のプライドが許さなかった。

「本日は、主からの書状を持参いたしました」
 そう言って香庄が奉書の包みを取り出す。
 中を開いて植綱は思わず二度見した。何かの間違いではないかと思った。

「源左衛門殿、これは一体…
 未だ戦陣にあるというのに、次は早々に若狭へ援軍に参れとは…
 朽木家は六角家の被官ではありませんぞ」
 植綱の口調が険悪なものになる。怒りで思わず手が震えていた。

「あ、いや、しばらく。こちらも合わせてご披見下されますよう」
 そう言って包みを差す。中にはもう一通の奉書が入っていた。
 不機嫌を隠そうともせずに書状を開くと、少しだけ植綱の表情が緩んだ。

「援軍は振りだけで十分にございます。出陣の用意だけで、実際に軍を動かして頂く必要はございませぬ。
 我が主も今回は御免被ると申しております」
「左様か…」
 バツの悪さを隠そうと殊更不機嫌を装いつつ、植綱は内心で安堵した。

 もう一通の方には、武田から朽木にも文を回せと言われたからやむなく回すが、援軍に出陣する振りだけでいいと書かれてあった。
 六角家は出陣しないとも書いてある。

 近江国内の事であれば大汗をかきもするが、『他国よその事まで面倒を見ていられるか』と、まるで定頼のうんざりした声が聞こえてきそうな文だった。
 もっとも、奉書の花押は貞信の花押になっている。

 一応若狭武田家とは同盟関係にあり、仮にこの書状が武田に見られでもしたら外交問題に発展する。
 その為、一家臣の言う事とするための措置だった。

「時に、我が主は先年来の民部少輔殿の馳走に何とかして報いたいと申しておりまして…
 いかがでござろう?どこかお望みの所領などはおありですか?」
「いや、某はそのような催促などは…」

 香庄は、強がりながらも鼻の穴を広げて無理をする植綱を見ると可笑しかった。

 ―――なんとも可愛かわゆい御仁だ。御屋形様がお側に呼びたがるのも分かる気がするな

 内心は貰える物なら欲しいはずだ。朽木家も身代は豊かとは言い難い。
 度々馳走していれば、台所は苦しくなっているに違いない。
 それに、戦に出て知行を欲しがらぬ武士などは居ないだろう。

 世話の焼ける植綱に内心の可笑しさを噛み殺しながら誘い水を向けた。
「では、高島郡の善積庄よしづみのしょうなどはいかがでしょう?そちらからの年貢を民部少輔殿に納める事とされては…」
「む…。霜台殿がそこまで言われるのならば…」
「ははは。では、戻ったら主にその旨申し伝えまする」

 強がっていても、所作の端々に愛嬌を漂わせる。
 本人は散々に悪態を吐きながらも、何故か植綱は六角家内部で人気のある男だった。


 ※   ※   ※



 北近江から戻った定頼は、観音寺城の私室に藤十郎を呼び出し、その奮闘を褒めた。
 もっとも、戦果としては手勢二百を率いて敵勢を百も討ち取れぬ結果となっており、杉山と違って感状などを出すわけにはいかなかった。

「藤十郎。よくやったな」
「いえ、結局私の使者が到着したのは御屋形様が援軍を進発させられた後だったと聞きます。
 京からの援軍も既に手配しておられたとか…
 私の働きなど…」

 諜報によって情報を得た定頼は、援軍の進発に先立って京の細川高国へと文を送り、細川の援軍は大津まで出張って来ていた。
 自分のしたことは無駄に家臣を死なせただけだったのかと藤十郎は落ち込むばかりだった。

「なに、一命を投げ打ってでも観音寺城を守ろうとしてくれたことには礼を言う。褒美として、これを遣わそう」
 そう言って刀掛けから太刀を取り上げると、藤十郎の前に差し出す。

「雲次だ。これでもそちの働きには及ばぬが、わしの気持ちとして受け取ってくれ」
「雲次といえば御屋形様が公方様より拝領された刀!そのような大切なものを…」
「なんの。そちが命を懸けて一日を稼ぎ出してくれなんだら、充分に態勢を整えて戦ができんかったかもしれん。最悪の場合、わしは今頃ここを攻める破目になっていたかもしれんのだ。
 それを思えば、何ほどの事もない」

「……ありがたく、頂戴仕りまする」
 藤十郎は思わず涙を流して太刀を拝領した。
 自分の働きをここまで認めてくれる。若い藤十郎は生涯を懸けて定頼に尽くすと誓った。

「大儀であった。だが、決して死に急ぐなよ。わしにはお主が必要だ」
「……ハッ!」


 ※   ※   ※



 日野中野城では、高郷が密書を手にプルプルと怒りに震えていた。
 人払いをした一室は静かで、夜の闇に灯明の光だけが揺れている。
 正面では、息子の藤十郎が灯明の薄暗い光の中で神妙な顔をしていた。

 高郷が手にしているのは、伊庭・久里の残党が留守を狙って蜂起する事を蒲生家が手引きした。という例の証拠の密書だった。

「これを、あの秀紀アホウが…」
「はい…」
 高郷は密書を投げ捨てると、刀を掴んで荒い足取りで立ち上がった。

「父上、お待ち下され!」
「止めるな!藤十郎!あのものをすぐにでも斬り捨てねば気が収まらん!」

 このまま鎌掛城に押しかけそうな勢いの高郷を、藤十郎が体を張って引き留める。
 気持ちは分かり過ぎるくらいに分かった。密書を見た瞬間は自分も同じことを思った。

 だが…
「このままお家騒動など起こしては、御屋形様にご迷惑になりまする!ここは家中を割ることなく家督を奪わねば…」
「くっ… しかし…」
「手立てを考えまする!どうか今は気をお鎮めくだされ!」

 体を張った説得で、なんとか高郷はその場に腰を下ろす。
 激しやすい性格の高郷に打ち明けるか散々迷ったが、しかしこれから起こそうとすることを知らせぬ訳にもいかんと思い定めて、今日密書を見せたのだった。

「それで、手立てとは何だ?一体どうするつもりなのだ?」
「はい。藤兵衛尉とうひょうえのじょう様には、死んで頂きます」
「しかし、それではお家騒動に…」
「表立って我らと争う訳ではありません。毒を盛らせて頂く」

「……暗殺する。と、申すか」

 事も無げに言い放つ息子の目を見ながら、高郷は寒気を覚えた。
 自分ならば今すぐに押しかけて斬り捨てることしか考えなかっただろう。
 だが、確かに斬り捨てて家督を奪えば、家中を割る事にも成り兼ねない。
 蒲生家が荒れれば、定頼にも迷惑がかかるのだ。


 既に六角家は京の政情に影響を及ぼし、伊勢や美濃・越前・若狭からその軍事力を注目されている。
 定頼が望むと望まざるとに関わらず、天下の仕置に無関係では居られなくなるのは自明の事だった。

 しかし、今後その定頼を支えていくのは自分ではなく目の前の息子であるべきだ。
 自分は戦しか出来ない。そして今後求められるのは戦以外の能力だろう。
 そのくらいは高郷にも分かった。

「よし。ならばそれはわしが行う。お主は一切口を出すな」
「いや、しかしこれは…」
「お主はこれからの蒲生家を率いて行かねばならん。当主が暗殺などをすれば家中は疑心暗鬼に陥ろう。いつ、自分も殺されるかわからぬ。とな」

 ―――確かに、その恐れはあるが…

「それ故、汚名はわしが背負う。わしが家督を継承し、すぐにその方へと譲ろう」
「それでは父上が…」
「なに、御屋形様の元で蒲生の『対い鶴』が羽ばたくのならば、わしには何も異存はない」

 高郷の決然とした物言いに、藤十郎は何も言えなかった。


 大永六年(1526年)三月
 蒲生家当主秀紀は、二十六歳でこの世を去る。蒲生家の家督は叔父の高郷が継ぎ、翌大永七年(1527年)九月には息子の藤十郎定秀へと家督を譲った。

 隠居後に高郷は内池に別宅を構え、自ら手にかけた甥の秀紀の為に毎日念仏を唱えながら過ごし、三年後の享禄三年(1530年)に四十九歳でこの世を去る。

 全ての汚名を一身に背負った高郷は、激しい性格ゆえに情も深く、戦乱の世に家を保つ器量無しと秀紀を見限りつつも甥としては憐れにも思ったのだろうか。

 ともあれ、これ以後の蒲生家は六角家の宿老の一人としてその家中に重きを為していく。
 二十歳の新当主、蒲生がもう定秀さだひでの誕生だった。

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