もどろきさん

藤瀬 慶久

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第34話 南太平洋海戦

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 昭和十七年も終わりが近づいた十月下旬。

 隆は多景の艦橋に立ってすっかり明るくなった空を見つめていた。隣では蒲生が同じく厳しい顔で前方の海を見つめている。

 ガラス越しに見える甲板では大勢の乗組員があちらこちらに動き回り、甲板の上に砂を撒いたり土嚢を積み上げて爆風対策を行ったりしている。間もなく戦闘海域に達する為、艦全体に殺気立った空気が満ち満ちていた。

 恐らく隣を航行する僚艦も同じような物だろう。

「そろそろ……か」

 蒲生がそう言って帽子をかぶり直した。気持ちを切り替える時の蒲生の癖だ。

「防空指揮所に行かれますか?」
「ああ。ここは頼んだ」

 蒲生はそう言って隆の肩を軽く叩くと、艦橋の梯子を上って行った。
 戦闘が始まると艦長は防空指揮所に上り、対空戦闘や魚雷をかわすための操艦を行う。対して副長は艦橋に残って乗組員達の指揮を執る。そうした役割分担をしていた。

 蒲生を見送った隆は、伝声管に向かって怒鳴り声を上げた。

「各員! 戦闘準備よいか!」

 機銃座や機関室、主砲塔などから「戦闘準備よし」の声が次々に帰って来る。間もなく敵航空機が見えるはずだ。その後ろにはアメリカの艦隊が居る。
 隆の緊張も高まり、体の芯から湧き上がって来るような震えが肌を粟立たせる。心臓を素手で掴まれたような圧迫感と同時に、奇妙な高揚感もあった。
 間もなく敵の航空機が見えるはずだ。

 目深にかぶった帽子の隙間から双眼鏡を覗き、空と海の青に混じって豆粒のような影を探した。一瞬の後、雲の隙間から十機ほどの豆粒が確認できた。
 先行する偵察機からの報告通りだ。

「敵機発見! 総員戦闘準備!」

 再び伝声管に怒鳴った隆は、先ほどまでの高揚した気分とは裏腹にひどく落ち着いて行く自分を感じていた。



 八月から始まったソロモン諸島を巡る戦いは、三か月が過ぎてもまだ終わりが見えなかった。

 中でも一番の激戦となったのは、ソロモン諸島の一つガダルカナル島を巡る戦いだ。このガダルカナル島には日本海軍が飛行場を建設していたが、未だアメリカの反攻作戦は遠いと見ていた日本軍の油断により、僅か六百名足らずの海軍陸戦隊が警備に当たっているのみだった。そこへ、アメリカ海兵隊一万名余りが上陸し、完成間近だった飛行場を含む日本軍の拠点を占拠した。

 慌てた海軍は、陸軍にも協力を要請してガダルカナル島奪還作戦を開始する。その中で最も重視されたのは、アメリカの輸送艦を撃破することだ。

 アメリカの海兵団が上陸したとはいえ、その海兵が使うべき武器や弾薬、食糧は輸送艦で運んで来なければならない。人だけ上陸しても戦争には勝てないのだから、敵の輸送部隊を叩いて上陸したアメリカ軍を干上がらせるというのが連合艦隊の作戦だ。

 だが、緒戦では神重徳の『艦隊殴り込み作戦』が功を奏して敵の重巡洋艦四隻を沈める戦果を上げたものの、肝心のアメリカ輸送艦隊にはほとんど損害を与えることなく引き上げてしまった。
 これは神の所属する第八艦隊に『敵輸送艦隊を叩く』という作戦目的が充分に共有されていなかったことで起きた過誤だったが、この夜襲で警戒心を強めたアメリカ軍は、ガダルカナル周辺の制空権が確保されるまでは大規模な輸送船団の派遣を控え、駆逐艦による小口輸送をメインとした。

 一方、アメリカ空母による攻撃で輸送艦隊を散々に叩かれた日本も大型輸送艦によるガダルカナル島揚陸を諦め、駆逐艦による小口輸送に終始した。

 ガダルカナル島を巡る戦いは膠着状態に入ったかに見えたが、アメリカ軍が奪取した飛行場が完成すると状況は一変する。

 ガダルカナル島周辺の制空権はアメリカ優勢となり、これに対抗する日本軍は千キロ以上も離れたラバウル航空基地から発進する航空機に頼らざるを得なかった。
 ラバウルを発進した日本軍機は片道四時間もかけてガダルカナル島へ飛来し、わずか十分余りの戦闘を終えると、また四時間かけてラバウルに戻るという地獄のような日々をパイロットに強要せざるを得なかった。

 しかし、そうしたラバウル航空隊の必死の献身にも拘わらず九月にはほぼ制空権を確保したアメリカが輸送艦隊による大型輸送を実施しはじめる。
 特に重火器類の補給を受けたアメリカ軍は、小口輸送でロクな補給を受けられない日本陸軍を圧倒し始めた。

 日本海軍も対抗して輸送艦を送り込んだが、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場から発進した航空機の爆撃によってほとんどが撃沈され、上陸した日本陸軍にはまともに物資を届けられずにいた。

 そうした情勢下で海軍の取るべき作戦は一つだ。

 敵空母を撃滅し、しかる後艦砲射撃によってヘンダーソン飛行場を破壊し、アメリカに奪われた制空権を取り返す。その使命を帯びた海軍の大規模な艦隊がガダルカナル島に向かっている。
 隆の乗艦である多景もその艦隊の一部だった。

 多景の後ろ40キロメートルほどの海域には日本の空母『隼鷹』が航行している。
 多景の任務は、味方空母の盾となって敵航空機を引きつけ、対空砲によって敵航空機を撃ち落とす『前衛部隊』だ。
 任務の性質上、敵の攻撃を受ける可能性は低くない。隆にとってもここが正念場と言えた。


 豆粒ほどだった敵機が見る見る大きくなり、同時に隼鷹を発艦した直衛の零戦が敵機制圧に飛来する。
 航空機同士の戦闘が始まったと思いきや、すぐに直衛機の攻撃を抜けた敵機が飛来した。

『対空砲! 仰角45度、右20度!』

 伝声管から聞こえる蒲生の声に従い、多景から対空機銃が発射された。
 数発に一発の割合で混ざった光弾が機銃の弾道を教えてくれる。多景の機銃は敵機の翼の先端に命中し、飛行速度が落ちた敵機は反転した零戦に撃墜された。

 艦橋は歓声に包まれたが、隆は無言で海に落ちる敵機を見ていた。
 戦争なのだ。やらなければこちらがやられる。だが、今撃墜されたパイロットにも自分と同じように家族が居ただろう。
 そう思うと、数時間後には撃沈されて海の底に沈む自分を想像せずにはいられなかった。

 感傷に浸る間も無く蒲生の声が聞こえた。

『仰角30度、右35度!』

 今回の銃撃は外れたが、こちらの機銃を嫌ったのか敵機が多景目掛けて真っすぐに飛来した。その腹には対艦用爆弾が張り付いている。

 突然、多景が急激に反転した。
 魚雷や爆弾をかわすため、戦闘時の軍艦はジグザグに舵を切って敵の狙いを絞らせない動きをする。敵機の接近に伴って蒲生がジグザグ航行を実施しているのだろう。

「来るぞ! 総員耐爆撃態勢!」

 機関員や砲撃手は艦の外の状況が分からない。
 こうして敵の攻撃を艦内に報せ、耐ショック態勢を取らせなければ衝撃で怪我人が出ないとも限らない。

 幸いにも敵の爆弾は狙いが逸れ、多景の横十メートルほどの海上に落下した。大きな水柱が上がり、多景の甲板にも水しぶきがかかる。

「艦内被害状況知らせ!」

 隆の問いかけに艦内各所から「問題なし」の返答が来る。
 外に目を移すと敵の第一次攻撃隊は既に通り過ぎた後だった。

「敵機の反転攻撃に注意せよ!」

 航空機による対艦戦では、何度も上空を往復して反復攻撃を加えるのが定石だ。一度攻撃を凌いだからと言って、次の攻撃まで間があるとは誰も考えていない。

『後方銃座! 仰角40度、左35度!』

 艦の後ろに付いた機銃に蒲生からの指示が飛んだ。隆の位置からは敵機が見えないが、恐らく敵の反復攻撃が来ているのだろう。
 機銃の発射音と共に再び艦近くで水柱が上がる。今度は先ほどよりも近い。
 再び艦内の被害状況を確認すると、隆は再度の反復攻撃に備えて視線を正面に固定した。

 目の前の空を敵機が前方に飛び、その後ろから味方の零戦が追っていく。
 双眼鏡を覗くと、敵機を追っているのはどうやら横井の乗る零戦のようだった。

 隆の目の前で横井が敵機を撃墜した。
 再び艦橋に歓声が上がる。今度は隆も内心で快哉を叫んだ。

 ――いい腕だ

 横井の操縦はさすが歴戦のパイロットと思わせる物だった。
 敵機の後ろに付いたかと思うと、銃撃を浴びせてあっと言う間に敵機を火だるまにした。ガダルカナル島を巡る戦いでは日本軍も多くのベテランパイロットを失ったが、未だにしぶとく生き残っている横井は、もはやエースと言っても差し支えないだろう。

 騒がしい艦橋に突然通信兵が駆け込んで来た。

「艦隊司令より入電! 敵第一次攻撃隊の撤退を確認。第二次攻撃に備えよ。以上です!」

 通信兵の報告を受けて、隆が再び伝声管に叫んだ。

「敵第一次攻撃隊は撤退! 各員弾薬を補給せよ!」

 しばらくすると第二次攻撃隊が来る。
 今は歓喜を忘れ、それに備えなければいけない。隆の言葉を聞き、今まで喜びを露わにしていた周囲も再び引き締まった顔に戻った。戦いはまだ、始まったばかりなのだ。


 その後、敵の第二次攻撃隊もしのいだ多景に前進の指示が入った。
 日本の攻撃隊の奮戦により、敵空母一隻が航行不能、一隻が大破という戦果を得たとのことだ。
 これにより太平洋で行動可能なアメリカ空母はゼロとなる。日本にとって空前のチャンスと言えた。

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