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第32話 そういえば、こいつとはウマが合わなかったな
しおりを挟む隆の乗る巡洋艦多景は、暗い海を滑るように進んでいた。
隆は副長として夜間当直の任に当たっていたが、狭い艦橋に籠ったままでは息が詰まるような気がして、気分転換に甲板で夜風に当たっていた。
辺りには僚艦の微かな明かりの他は何も見えない。隆はその闇の中で、静かに波の音を聞いていた。
甲板には当直の見回りの他には誰も居ない。安全圏まで撤退したことで、見張り番以外にはひとまず休息を取らせている。この後横須賀に入港して艦を修理し、その後に再び南方戦線へと向かう予定だ。
束の間の休息と言うにはあまりにも辛い、敗走の最中でのことだった。
海風が隆の頬を撫でる。だが、それを心地よいと思える余裕は今の隆にはない。
隆の脳裏には先日行われたミッドウェー海戦の様子が何度も繰り返されていた。
――ひどい有様だった
日本海軍の虎の子だった主力空母六隻のうち四隻が沈められ、多くの航空機とパイロットを失った。多景の甲板にも敵の爆弾が命中し、数名の負傷兵が出ている。
日本海軍の完膚なきまでの敗北だった。
目を閉じれば今にも飛来するアメリカ航空機の姿が見える気がする。
ミッドウェー海戦において日本はアメリカの航空兵力によって敗れた。アメリカ海軍は、日本が証明してみせた航空主兵による艦隊制圧を見事なまでに実践していた。
日本の戦術も不味かったと思う。
アメリカの機動部隊を軽視していた日本軍は、付近にアメリカの空母が居るとは考えず、最初にミッドウェー島を空爆する攻撃機を発進させた。その上、第二攻撃隊にも陸上爆弾を搭載していた。
間もなくミッドウェー基地を空爆した第一攻撃隊が戻って来る。よりにもよってそのタイミングでアメリカの空母が付近を航行中であることが発覚した。
このまま対陸上装備で出撃すべしという意見もあったが、艦隊司令の南雲中将は対艦魚雷装備に換装してからの出撃を決定した。
結果的に、この判断が日米機動部隊の明暗を分けた。
日本の零式戦闘機の性能はアメリカのグラマンF4Fに決して劣る物では無いが、後手に回った状態で艦攻爆弾や対艦魚雷を積んだアメリカの爆撃機を完全に排除することはできず、結果として日本は主力空母の半分以上を失うという敗北を喫した。
――もはや軍艦の時代ではない、か
今回の海戦で際立ったのは、大和を始めとした戦艦の無力さだ。
海戦はそのほとんどが航空機と空母の戦いに終始しており、軍艦が出る幕は無かったと言っていい。無論、軍艦の対空砲火は航空機に対して脅威になり得るが、航空機に比べて足の遅い軍艦では、もはや航空機同士の戦闘スピードについて行くこと自体が困難と言える。
いかに軍艦の対空砲火が強力でも、戦場にたどり着けなければ意味がない。
隆の乗る多景も友軍の救出中に多少の爆撃機と戦っただけだ。そして、たったそれだけの戦闘で多景は甲板に大きな傷を負った。
隆は悔しさの余り船の欄干をぎゅっと握った。
これで今までの優劣は逆転する。元々軍艦の数ではアメリカの方が多いのだ。日本が唯一勝っていた空母機動部隊の戦力も削がれた今、日本にはアメリカに対抗できる海軍力が無い。
敗戦の二文字が、隆の脳裏に強く浮かんできた。
「見回りか?」
突然声をかけられて振り向くと、すぐ近くに蒲生が立っていた。
隆は思わず敬礼したが、蒲生は特に気にした様子も無く隆の隣まで来て海に視線を投げた。
「申し訳ありません。一昨日の敗北のことを考えておりました」
「そうか……」
「蒲生大佐は、休まれないのですか?」
「貴様と一緒だ。負けた悔しさで眠れんのよ」
薄明りの中で蒲生が口の端を歪める。その顔には深い憂鬱が刻まれていた。
「とうとう、負けてしまったな」
「……まだ、日本は戦えます」
「……そうだな。まだ日本は戦えてしまう。それが不味い」
蒲生の言った意味が分からず、隆はポカンとした。
戦えることの何が不都合なのだろうか。
「そもそも、緒戦で鮮やかに勝ちすぎたのが悪かった。あれで大本営にも国民にも『欲』が出てしまった。
博打は引き際こそが肝心。山本さんもそれは分かっているはずなのだが、どうにもアメリカとの講和交渉が進んでいる様子が無い。
これはちと不味いかなと思っていた矢先、この敗北だ」
「講和の目は潰れたと?」
「まだ目はある。が、一旦こちらが負けた以上、大きく譲歩する必要に迫られる。
今から講和に持ち込む為には、思い切ったことをする必要があるだろう」
隆にも蒲生の言わんとすることがようやく分かった。
アメリカにも国民が居て世論がある。日本が優勢であった今までならともかく、今後はアメリカが優勢になる見込みが高い。
そんな中で講和となれば、アメリカ政府も大きく吹っ掛けてくるだろう。でなければアメリカの国民が納得しない。
そして、アメリカが大きく吹っ掛けるということは日本が大きく譲歩するということだ。日本の国民を納得させるのには苦戦する。
果たしてそれだけの胆力が軍の上層部にあるかどうか……。
「秋川。ワシは横須賀に入港したら、少し艦を抜ける。留守の間を頼むぞ」
蒲生の行き先は隆にも見当がついた。『思い切ったこと』をしに行くのだろう。
隆は蒲生に敬礼すると、持ち場である艦橋に戻った。
蒲生は多景が横須賀に入港するや、戦隊参謀には何も告げずに東京へと向かった。
目指す先は霞が関の海軍省だ。
本省の廊下を歩き、見慣れた一室の前で立ち止まってノックした。だが、室内からは何の返事も無い。
疑問に思った蒲生は、返事を待たずにドアを開けた。だが、室内には誰も居ない。訝しんでもう一度部屋番号を確認するが、間違いなく百武源吾の執務室の番号だ。
ちょうどその時、廊下の向こうから肩を怒らせた男が歩いて来た。
大本営海軍参謀の神重徳大佐だ。
「蒲生さん。なんでアンタがここに居る?」
「神か。百武さんにどうしても申し上げたいことがあってな」
「おめおめと負けておいて、百武大将に泣き言を進言か?」
神は口の端に皮肉な笑みを浮かべている。その物言いは、いかにも現場が情けないからミッドウェー海戦に負けたのだと言わんばかりだった。
蒲生は苛立ちながら神を睨みつけた。
神には己が誰よりも頭が良いと信じている節がある。事実として神の頭脳のキレは常人をはるかに上回るが、天才ゆえの独善的思考に陥るところも目立つ。
人間は誰しも愚かな生き物だと考える蒲生とは、ウマが合うはずが無かった。
「日本の為だ。今こそ百武さんに働いてもらわねば、日本が滅びかねん」
「馬鹿なことを言う。百武大将は、既に御実家のある九州へ帰られた。来月には予備役に勇退される。今更何を働いてもらうのだ? 軍艦で大砲でも撃ってもらうつもりか?」
神の言葉に蒲生は一瞬虚を突かれた。
「勇退!? 貴様ら、百武さんを追い出したのか!?」
言いながら蒲生は神に掴みかかっていた。
艦隊派の若手として、開戦強硬派の急先鋒として、神はこれまで蒲生と悉く対立してきた。いわば蒲生の宿敵と言える。
だが、神に対して蒲生がこれほどの激情を表に出すのは初めてだった。
対する神も蒲生を正面から睨み返す。
「フン……迷惑なのだよ。事ここに至って尚、アメリカと講和すべきなどと陛下の御前で述べられてはな。
蒲生さんもこんな所に来る暇があるなら、役立たずの将兵のたるんだ精神を叩き直したらどうだ?」
「貴様らも分かっているだろう! この戦は、そもそもが博打だ!
博打に負けたのならば、何を於いても損失の拡大を抑えねばならん! どんな不利な条件であっても、今はアメリカとの講和こそ第一に為さねばならんのだ!」
「かつては『海軍一の切れ者』とまで言われた蒲生さんらしくない物言いだな。まるで日本が負けたような口ぶりじゃないか」
「まるで……だと? 貴様も知っているだろう! 日本は、ミッドウェーで負けたのだ!」
言いながら、蒲生の胸には嫌な予感が急速に湧き上がった。
そう言えばここに来るまでに敗戦を報せるニュースを耳にした覚えがない。
「ミッドウェーは負けではない。戦略的な転進だ。その証拠に、我が海軍は敵の空母を沈めている」
「詭弁を弄するな! 日本は負けたのだ!」
「負けてなどおらん! 現に国民はミッドウェーの戦勝に湧いている」
蒲生は一瞬神が何を言っているのか理解できなかった。蒲生の脳が理解することを拒絶していた。
やがて神の言葉の意味が脳に染みて来ると、蒲生は掴みかかった手を外してヨロヨロと二、三歩後退した。嫌な予感は、今や確信に変わっている。
「き、貴様ら……国民を騙したのか!? 日本は勝ったと嘘を吐いて……」
「何度も言わせるな。ミッドウェーは負けではない。戦略的転進だ。
現に、戦艦は一つも沈んでいないではないか」
乱れた襟元を直しつつ、神がしてやったりという顔で笑う。
その笑顔を見た蒲生は、急速に足元の地面が崩れるような感覚に襲われた。
ミッドウェーで負けた以上、講和の為には日本が大きく譲歩する必要がある。だが、当の国民が負けたことを知らなければ、どうしてその譲歩を納得させることができようか。
今講和を言い出せば、軍が国民から袋叩きに遭いかねない。
「私も迷惑しているのだよ。アンタ達がミッドウェーで無様を晒すから、私まで前線に出張ることになった」
「何?」
「ミッドウェーの尻を拭くため、我が海軍は新たに第八艦隊を編成した。私は第八艦隊司令部参謀として赴任する。
次は精々、足を引っ張らないように頼みますよ」
哄笑を残して去ってゆく神の後姿を蒲生は半ば放心したように見つめていた。
自分の見込みが甘かったことを痛感せざるを得ない。蒲生が側を離れ、軍令部が強硬派に占められた後、百武が強引に引退させられることを予見していなかった。
まさか、そこまでやるとは思っていなかった。
今後の戦いは日本にとって苦しい物になるだろう。
アメリカの優勢が強まるほど、講和条件は日本にとって厳しい物になる。国民がそれを受け入れられなければ、劣勢の中でますます敗北を重ね、講和条件がますます厳しくなってゆくという悪循環だ。
こうなれば、日本はまだ戦い続けるしかない。国民がはっきり『負けた』と認識するまで、軍は死力を尽くして戦い抜くしかない。例えそれが破滅への道だと分かっていても、だ。
――やはり、開戦すべきでは無かった
百武の言葉が正しかったことを今になって思い知らされた。
蒲生は、山本の博打に乗ろうと思ってしまった己の不明を心から愧じて、涙を流した。
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