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第23話 期待を背に
しおりを挟む短い休暇も終わり、千佳は真知子を連れて隆の見送りに来ていた。
隆は千佳の体調を心配したが、千佳は駅まで見送りに行くと言って聞かなかった。
本堅田駅近くに植えられた桜は残念ながらまだつぼみの状態だったが、このところ日一日と暖かさが増している。この日も暖かな日差しが降り注ぎ、気持ちの良い天気だった。
「では、行ってきます」
軍服に身を包んだ隆がそう言って微笑む。
「ご無事のお帰りを、お待ちしています」
千佳は真剣な顔でそう言った。
隆は少し意外そうな顔をする。千佳の口調がまるで戦争に行くことを見越しているかのようだったからだ。
「……気付いていたのか」
「あら、私だっていつまでも世間知らずじゃありませんよ?」
「ははは。敵わないな」
不意に千佳の頬に隆の手が伸びた。
暖かく、大きな手だ。
「必ず帰って来る。留守の間、真知子を頼む」
「はい」
「千佳も、風邪などひかぬよう」
「……はい」
笑顔で見送るつもりだった。戦争に行く隆の足手まといにならぬように……。
だが、どれほど抑えようと思っても自然と涙が溢れそうになる。
――泣いたら、アカン
千佳がそう思った時、真知子が大きな声を上げた。
「おとーさん! 私も! ほっぺ!」
思わず隆と二人で笑った。真知子はどこまでも無邪気で、隆がこれからどこへ行くのか想像すらもしていないのだろう。
「はいはい」
隆がそう言ってしゃがみ、小さな真知子のほっぺに手を当てる。
真知子は気持ちよさそうに隆の手に自分の頬をすりすりしていた。三人の間に春の爽やかな風が吹く。
隆が再び立ち上がった時、千佳の涙は止まっていた。
「では」
隆がそう言って踵を返そうとした時、突然数人のおじさん達が隆の側に寄って来た。
「あ! あんた、秋川さんとこのお婿さんか?」
「頑張ってくれ! アンタはこの町の誇りだ!」
「戦争に勝って、米英を見返してくれ!」
おじさん達は口々に隆の出征を褒め称え、ついには周囲を巻き込んでの万歳三唱まで始まった。
千佳は戸惑いを隠せない。以前にも隆が町の噂になったことはあったが、それは男前のお婿さんという噂だ。このように軍人としての隆を褒めそやす声は、少なくとも千佳の記憶にはない。
隆は邪険にするわけにもいかずに笑顔で応じているが、千佳の方はこの光景に恐ろしさを感じた。
夫は戦場へ行くのだ。死ぬかもしれない場所へ行くのだ。
それを皆で褒め、まるで死んで来いと言わんばかりに喜び勇んで送り出す光景にはある種の異様さを感じる。
隆が汽車に乗り込んだ後も熱狂は続き、周囲では万歳三唱が未だ止まない。
真知子は大人たちが無邪気にはしゃいでいることを単純に楽しんでいるが、千佳の心には重苦しい雲がかかったままになっていた。
「えらい人気者やね」
突然後ろから声をかけられて振り向くと、そこには幼馴染の広明が居た。
「ヒロちゃん……」
「みんな期待してるんや。千佳ちゃんの旦那さんは、エリートの軍人さんやから」
「うん……分かってる」
千佳の曇った顔から何事かを察したのか、広明は未だ興奮冷めやらぬ群衆に向かって言った。
「皆さん。汽車や乗客の邪魔になるといかんので、このくらいでお願いします」
集まったおじさん達はブツブツと文句を言っている。
広明の言っていることは分かるが、一旦燃え上がった熱のやり場に困っているという感じだ。やがて「一杯やるか」という声と共におじさん達は町の方へと消えて行った。
――勝手な物だ
彼らは隆の出征を情熱的に見送る風で、結局は酒の肴にしているだけだ。勇ましく敵を蹴散らせと言うが、自分達は矢面に立つわけでもなく、後方から気勢だけを上げている。
千佳にすれば、その態度は無責任なものに映った。
もちろん、隆は軍人なのだから真っ先に矢面に立つのはやむを得ないし、軍を維持するために国民が重税を引き受けているという事実は承知している。
だが、現に夫を戦地に送り出す身としては、せめて静かに見送って欲しかった。
汽車に乗った隆は、先ほどの狂騒を振り返って暗鬱たる気分になった。
彼らとて悪気があるわけではないのは分かっている。満州に対する米英の干渉は日本国民を苛立たせ、その分だけ陸軍の快進撃に拍手喝采を送っているのだ。
だが、大陸全土で戦争をするとなれば相当な軍備を必要とする。はっきり言えば、今の日本の軍備では大陸全土に軍団を展開することは困難を極めるだろう。
重税や徴兵など、今後も民間の負担は大きくならざるを得ない。
重い負担を強いられれば、それだけ大きな見返りを求めたくなるのが人情というものだ。日露戦争の折、東京の日比谷にてロシアから賠償金を得られなかった政府の無能を責める暴動事件が起きたのは、ほんの三十年前の話なのだ。
『落としどころが難しくなるな』
不意に蒲生の声が脳裏に蘇る。
ここまで期待されている以上、その期待を越える成果を得ることができなければ、民衆の怒りの矛先は軍へと向く。だが、日本がそこまで大陸で戦い抜けるかというと、隆も疑問に思わざるを得ない。
アメリカが日本への干渉を強めれば、その困難は益々大きくなるはずだ。
――本当に、難しくなるな
窓の外の景色を眺め、隆の心は益々重く沈んだ。
堅田を出て呉に到着した隆は、兵舎の廊下で懐かしい顔に出会った。
「秋川大尉! お久しぶりです!」
溌剌とした声に呼び止められて振り向くと、そこにはかつて『月進』で共に過ごした横井俊明が立っていた。まだ少年の面影を残してはいたが、今はもう立派な大人の顔立ちに変わっている。
「横井! 横井二水(二等水兵)か! 三年ぶりか」
そう言ってから隆は横井の軍服の変化に気がついた。
横井の腕には二本の善行章が並び、襟元には航空隊を示す襟章が付いている。
海軍航空隊に所属する下士官の制服だ。
「いや、二水は失礼だったな。横井三空曹(三等航空兵曹)」
隆の敬礼に対し、横井も敬礼を返す。
舞鶴で海兵の服務期間を過ぎた後、横井は飛行予科練を志望し、飛行機乗りとしてのキャリアをスタートさせていた。
「秋川大尉もお変わりなく! この度、予科練を卒業して呉航空隊に配属されることが決まりました」
「そうか。元気そうで良かった」
隆はそう言って横井の肩に手を置いた。
当初隆は自分と仲良くしていることで横井が虐められないかと心配していたが、横井がすぐに大村飛行予科練に採用されたことでその心配も杞憂に終わった。
「秋川大尉こそ、駆逐艦『栃』に副艦長として乗務されると聞いております。ご栄転おめでとうございます」
「なに、俺は相変わらずの雑用係さ」
「大尉と共に便所掃除をしたのは、自分にも良い思い出です」
「こいつ、俺は忘れたい思い出だというのに」
「それは失礼しました」
横井が大げさに謝った後、たまらずに隆も横井も噴き出した。
あの頃は隆も甲板士官として、横井と共に様々な艦内のトラブルに走り回ったものだ。
「あの時秋川大尉にお会いしていなければ、自分は海軍に残ろうとは思わなかったはずです。秋川大尉との思い出は、自分にとってどれもかけがえのないものです」
「そう言ってくれるのは、貴様だけだな」
隆にしても特別横井だけを可愛がっていたという意識はない。規律違反で殴ることもあったし、他の海兵同様に接してきたつもりだ。
それでも、こうして慕ってくれる下士官が居るということは、それだけで嬉しかった。
「せっかくの再会だが、俺はしばらく上海勤務だ。上海から戻ったら、一緒に酒でも飲もう」
「はい! 楽しみにしております」
このところ心が晴れないことが多かったが、横井との再会は久しぶりに心が晴々とした。
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