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第15話 五・一五事件
しおりを挟む帰って来た日は思案に沈んでいた隆だったが、翌日からは父の新次郎と共に野良仕事に出た。
「お疲れなのに、百姓仕事なんかしなくても」と千佳は隆を気遣ったが、当の隆はむしろ喜んで野良仕事を手伝っている。
「土をいじっていると、余計なことを考えなくて済みますので」
隆にそう言われると、千佳もそれ以上何も言えない。それに、昨夜の辛そうな隆の顔を見た後では、無邪気に笑って野良仕事に出かける隆を見るとほっとした。
今日は、田んぼの雑草取りをする予定だ。
周辺の家と協力して、ここら一帯の田植えは先週に終わらせてある。田植えの済んだ田には雑草やゴミが浮いているが、これを放っておくと植えた稲の上に被さって稲を腐らせてしまう。
それを防ぐため、熊手を使って水面に浮かぶ雑草などを取り去るのだ。
隆は股引を膝上までたくしあげ、上半身は裸になって一心不乱に熊手を動かした。
千佳も何度か手伝っているが、雑草取りは見た目以上の重労働だ。泥濘と化した田の土が足にまとわりつき、いつの間にか体力を根こそぎ奪い取っていく。軽快に田を動き回っていた隆もすぐに肩で息をし始めた。
その様子を微笑ましく見つつ、千佳は自分の仕事を片付けるために家に戻った。
昼になると、千佳は父と隆の分の昼飯を持って再び田んぼに向かった。大きく握った握り飯が二つに千佳が漬けたたくあんが添えてある。
「そろそろお昼にしませんか?」
千佳があぜ道から声をかけると、中腰で熊手を動かしていた隆が顔を上げた。
途端に千佳が噴き出す。
作業に夢中で気付かなかったのか、隆の顔はあちこちに泥が跳ねて随分賑やかになっていた。
「何か変ですか?」
「顔が泥だらけですよ。まるでやんちゃな子供みたい」
隆が慌てて顔を手の甲でこするが、手についていた泥が隆の頬に広がり、顔の泥がますますひどくなった。
「お風呂を沸かしておきますね」
そう言って千佳がまたクスクス笑うと、隆も照れたように後頭部を掻いた。頭を掻いたことで髪にも泥がべったりとつき、千佳は益々笑いが止まらない。初夏の田には、千佳と隆の楽しそうな笑い声が響いていた。
夕方になると、作業を終えた隆と父が家に帰って来た。二人は川で大雑把に泥汚れを洗い流した後、千佳が沸かした風呂に入った。
風呂上がりに縁側でゆっくりビールを飲む隆と父につまみの漬物を出す。後ろではラジオから流行りの音楽が流れていた。
だが、千佳は一緒にゆっくりしているわけにはいかない。母と一緒になって夕食の支度を整えなくてはならない。
再び台所に戻って煮物の具合を確認する。凍み豆腐には良い具合に味がしみ込み、中からじゅわっと旨味があふれ出て来た。
煮物の出来に納得した千佳がそれを器に盛ろうとした時、縁側の方から隆の驚いた声が聞こえた。
「どうしたんですか?」
煮物の器を持って居間に入った千佳は、ラジオにかじりつく隆の姿を目にした。
近頃普及し始めた小型のラジオは、以前の鉱石型と違ってスピーカーで聞くことができるが、音質は荒く音飛びも頻繁に起きる。その為、内容をしっかり聞き取るにはラジオの側に行かねばならない。
隆は、怖い顔をしながらラジオのスピーカーに耳を付けんばかりにしている。一体何事かと千佳の胸も騒いだ。
隆の迫力に気圧されて千佳が何も言えずに立ちすくんでいると、ラジオからニュースを読む声が聞こえてきた。
『ザッ……海軍中尉……ザッ……首相官邸を襲撃……ザザッ…犬養首相は……』
次々と流れて来る言葉に隆の顔が益々強張る。
昭和七年五月十五日午後六時にラジオから流れた臨時放送は、後に『五・一五事件』と呼ばれた、海軍将校によるクーデターの発生を告げる一報だった。
事件の発生を知った翌日、隆は慌てて呉の鎮守府に戻った。
戻った隆を待っていたのは、憲兵による尋問だった。
尋問官は中肉の中年で、丸眼鏡をかけている。鼻の下に生やしたちょび髭が妙に胡散臭さを感じさせる男だ。
窓にはカーテンがかかっており、頭上の電灯が唯一の光源だ。外の光が入らないため今が昼なのか夜なのかすら分からない。
「正直に言え。貴様は休暇中どこに居た?」
「滋賀県の自宅に居りました」
「それで、何をしていた?」
「田に浮かんだ雑草取りを――」
隆がそう答えた瞬間、憲兵が机を拳で叩いた。
隆の言葉を信用していないという態度だが、当の隆は何故こんな尋問をされるのかと理不尽に感じた。
「貴様が佐世保で藤井斉と密談をしていたことは分かっている! 何を話していたのか、正直に話せ!」
「藤井さんとは、挨拶をしただけです。私はすぐに上海に向かいましたし、藤井さんはその後上海の戦で亡くなられた。それだけです」
「嘘を吐くと承知せんぞ!」
一方的な尋問官の物言いに腹が立ったが、隆は務めて冷静に振舞った。
「何故嘘だと断定するのですか?」
「貴様が呉に居なかったからだ!」
「休暇中、家に帰ることはそんなにいけないことなのでしょうか」
「本当に家に帰っていたのか? 正直に言え。貴様は休暇中どこに居た?」
もう何度目かも分からないほど繰り返したやり取りにいい加減うんざりしてきたが、相手が何と言えば納得するのかが皆目分からない。それに、帰宅していたのは本当のことなのだから嘘の吐きようもない。
隆が先ほどと同じ答えをもう一度言おうとした時、突然尋問室のドアが開いた。
ドアから差し込んだ陽光に目がくらみ、隆は思わず目を細めた。誰かが入口に立っているのは分かったが、それが誰かは逆光で見えない。
徐々に明るさに目が慣れて来た隆は、入り口に立つ男の顔を見て驚きの声を上げた。
「蒲生中佐……」
蒲生喜八郎は隆に一つ頷くと、尋問官の男に向かって言った。
「ウラは取れた。秋川は今回の件に関与していない」
尋問官は大げさに驚いたが、それに構わず蒲生は続けた。
「秋川少尉の身柄は、ワシが預かる」
「し、しかし――」
「司令長官の許可は取った。それとも、憲兵隊は中村中将と喧嘩するつもりかね?」
「……いえ、失礼しました」
尋問官がアゴをしゃくって隆に退出を促す。
随分と腹が減っていたが、それよりもようやく解放されたという安堵感の方が大きかった。
廊下を歩きながら、隆は改めて蒲生に礼を言った。
「蒲生中佐。ありがとうございました」
「なに、感謝されるいわれはない。貴様が藤井と事を諮っていたなどと、あまりに荒唐無稽な話だからな」
「その藤井さんですが、今回の件と何か関係があるのですか?」
隆はそこが疑問だった。
恐らく自分は先日の首相官邸襲撃事件について取り調べられたのだろうと想像はついていた。確かに今回の事件は藤井あたりがやりそうなことではあったが、当の藤井は上海事変で戦死している。
藤井と話していたからと言って、何故自分が疑われなければならないのか。そこが理解できずにいた。
「ふむ……。
確かに藤井は上海の空に散ったが、今回事を起こした三上中尉や古賀中尉は藤井の同志だったそうだ。その三上は、五月十四日に呉を出て東京に向かったと自白している」
五月十四日と言えば、隆が帰郷の為に呉を離れた翌日だ。
隆にもようやく合点がいった。
「分かるだろう? 憲兵隊はお前も藤井の同志であり、三上に先立って呉を出立し、東京に向かったのではないかと疑っていたのさ。
三上達は既に東京の憲兵隊に自首した。だが、お前は命惜しさの為に素知らぬ顔で呉に戻って来たのだと奴らは考えたんだろう。
……まあ、運が悪かったな」
蒲生の説明でようやく隆にも事情が呑み込めた。
だが、藤井との立ち話がそんな風に捉えられるとは思ってもみなかったというのが本音だ。
隆はそのまま蒲生の執務室に連れて行かれ、そこで握り飯を御馳走になった。
空腹に任せて一心不乱に握り飯を頬張る隆に対し、蒲生は意外な一言を放った。
「ところで秋川。お前、舞鶴に行く気は無いか?」
「舞鶴……ですか?」
まだ口の中に残っていた飯粒を飲み込みながら、隆が驚いた顔で聞き返す。
舞鶴と言えば軍縮によって鎮守府から要港部に格下げとなった軍港であり、出世の為にはあまり旨味があるとは言えない。
「ああ。ワシも百武《ひゃくたけ》中将に呼ばれていてな。蒲生ごときはこれ以上偉くならんでも良かろう、ということらしい」
そう言って蒲生は心から可笑しそうに笑った。
当時の舞鶴要港部司令長官は百武源吾中将だが、この百武は大層偏屈な男で、当時海軍の大物だった加藤寛治大将に私的な理由で喧嘩を売り、それが遠因となって出世街道を外れた変わり者だった。
百武に呼ばれたということは、蒲生喜八郎も海軍の出世コースからは外れるということだ。その蒲生に呼ばれるのだから、隆の今後の立身も推して知るべしというところだ。
「今回の件は中村サンが収めてくれたが、お前の経歴にミソが付いたことは否めん。東郷元帥も今回の事件には痛く立腹しているという話が漏れ聞こえてくる。気の毒だとは思うが、出世していくには少々苦しいところだな。
どうせ苦しい立場なら、いっそのことワシと一緒に舞鶴へ行かんか?」
蒲生は気の毒そうな顔をしたが、出世欲の薄い隆にしてみればどうでもいいことのように思えた。それよりも、今回の件で蒲生に救われたという思いの方が強い。
蒲生喜八郎が舞鶴へ来いと言うのなら、喜んで行こうと思った。
「呼んで下さるのなら、喜んで。それに、自分は元々出世には興味がありません」
「そう言えばそうだったな。わっはっはっは」
その一言で隆の今後はおおよそ決まったと言ってもいい。
舞鶴なら、滋賀も近い。
――帰郷もしやすくなるかもしれないな
そう思って隆は少し笑った。
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