もどろきさん

藤瀬 慶久

文字の大きさ
上 下
13 / 43

第12話 戦争の時代

しおりを挟む

 伊香立村に戻ったのは翌日の昼になった。

 千佳が育てたスイカは残念ながら食べごろを少し過ぎてしまっていたが、隆はうまいと言っていくつも食べ、父の新次郎を呆れ返らせた。世の中は不景気だったが、隆のおかげで秋川家の収入はある程度安定している。こうしてスイカやトウモロコシなどを呑気に育てていられるのも、隆が給料を家に入れてくれているからだった。

 千佳は隆の給料を自分の家の収入不足に充てている現状を申し訳なく思ったが、当の隆はあっけらかんとした物で、「軍艦に乗っている間は、給料を使うヒマもないですから」と言って笑うだけだった。

「それにしても、満州は大変なことになりましたな」

 夕食の時、父の新次郎が出し抜けにそう言った。もっとも、事は隆にも無関係ではない。
 満州を支配下に置いていた張作霖は親日家として知られていたが、その政治姿勢は必ずしも日本に都合の良い物では無かった。そして、四年前にはその張作霖が蒋介石に敗れ、敗走中に列車ごと爆殺されるという事件が起こっていた。この事件は後に関東軍の仕業と判明し、張作霖の後を継いだ張学良は反日政策へと大きく舵を切り、父を破った蒋介石の国民政府と結び、またアメリカなどとも協力して満州鉄道の利権を日本から奪い取ろうと活動していた。

 満州鉄道は、日露戦争やシベリア出兵を通じて日本が守り育てて来た重要な権益であり、血と鉄で獲得した枢要の地と言える。その満州鉄道周辺地の開発は恐慌に喘ぐ日本の最後の希望であり、日本政府や軍にとっても、張学良やアメリカに易々と渡せる代物ではなかった。

 そして、その父祖の血と引き換えに勝ち取った権益を守り抜くことこそが軍に課された至上命題だ。陸軍と海軍という違いはあれど、身内からそうした話題を振られるのも軍人の宿命と言える。

「関東軍のお偉方はカンカンに怒っているようですね。国内から満州に移住している人も大勢居ますし、軍としても向こうの良いようにさせるわけにかいかんという所でしょう」

 ビールを飲みながら父と隆がそうした話をしているが、千佳には難しすぎてほとんど理解できない。唯一分かるのは、満州が不穏になってきているということだけだ。海軍に所属している隆の身にも何事も無ければ良いが、と思わずにはいられなかった。


 半舷上陸が終わり、呉へ戻った隆は、再び上海へと向かう途中に佐世保に寄港した。艦隊の中に佐世保の海軍工廠で修理中の船があり、その船と合流するためだ。

 佐世保に降り立った隆は、突然「佐々木!」と声を掛けられた。
 声のした方を向くと、見知った顔が隆の目に入った。

「お久しぶりです!藤井中尉!」

 隆が敬礼で応じる。声の主は、隆の三期上の先輩である藤井ふじいひとし中尉だった。

「聞いたぞ。貴様、その若さでさっさと所帯を持ったそうだな」
「恐れ入ります! 良縁に恵まれ、身を固めました。今は秋川と姓を改めております」
「そうか。奥方は、農家の出だと聞いたが?」
「はい。義父は滋賀で先祖伝来の農地を守っておられる、立派な方です」
「そうかそうか。貴様はてっきり豪商の御令嬢でも娶るのかと思っておったから、正直意外だな」

 藤井の言葉にも悪気は無い。隆の実家である佐々木家は京都でもそこそこ名の知れた商家であり、海軍での出世を目指さないのであれば、実業家の娘と結婚して将来は自身も実業家になるというのが分かりやすい道だ。隆と実家の事情を知らない者ならば、そう思うのも無理はない。

 顔見知りではあるが、藤井とそこまで親しくも無い隆は、挨拶だけで会話を切り上げようとした。だが、藤井は周囲を軽く見回すと、突然隆に顔を近付けて声を潜ませた。
 あたりに人影はまばらだが、どうやら人目を憚る話があるようだ。

「時に、貴様の奥方の家では、近頃どうだ?」
「どうだ……と仰いますと?」
「近頃の不況だ。百姓は思うように米が売れず、売れても安値で買い叩かれ、泣く泣く娘を身売りに出して食いつないでいると聞く。政府は金持ちばかりを優遇し、そうした庶民の苦しみを分かろうともしない。
 実に嘆かわしいとは思わんか?」

 突然の話に驚いたが、隆は務めて冷静に返した。

「確かに暮らしは楽だとは言えません。ですが、私の知る限りでは義父も義母もつつましく、穏やかに日々を過ごされております」
「貴様は、今の世を変えねばならんとは思わんのか?」

 そこまで言葉を交わしたことで、隆は藤井の言わんとすることを察した。
 軍内部では、陸軍の青年将校を中心に政府首脳を打倒して天皇親政を樹立し、大地主や財閥中心の政治から脱却するべきだという思想が広まっている。海軍内部にもその思想に共鳴する者は少なくない。
 隆の同期や先輩らがそうした考えを持ち、過激な実力行使に及ぶべく密かに同志を募っているという話も耳にしていた。おおかた、藤井もそうした国家改造主義者の一人なのだろう。

「今の不況は、何とかせねばならんとは思います。ですが、実力を行使してまでも、とは自分には思えません。政府だって無策なわけではないはずですし、何より日本国をそうした物騒な話に巻き込むことには到底同意できません」

 隆の脳裏にあるのは秋川家での日々だ。
 決して楽な生活ではないだろう。だが、千佳たちはそれにも不平を言わず、日々つつましやかに、穏やかに過ごしている。懸命に土を耕し、米やスイカ、トウモロコシなどを植え、足りない分は自分達で賄おうと努力している。
 そうした人々の穏やかな暮らしを守ることこそ、軍人たる自分の使命であろう。

 仮に革命騒ぎが起これば、そうした人々はどう思うだろうか。彼らが血生臭い事件を本心から望んでいるとは、到底思えなかった。
 だが、隆の返答に対して藤井は憎々しげに顔を歪めた。

「栄達を望まずに農家に婿入りしたというから、あるいは我らの同志になれる人物かと思ったが、とんだ腰抜けだったようだな」
「ご期待に沿えず、申し訳ありません」

 丁寧に腰を折った隆を睨みつけ、藤井は去って行った。
 長引く恐慌は世間に暗い影を落とし、ややもすれば日本国そのものが物騒な空気に包まれていくように錯覚してしまう。だが、隆の見る限り、当の庶民はそんなことは望んではいない。ただ、日々穏やかで、出来れば少しだけ余裕のある暮らしがしたいだけだ。その為に人を殺すことを果たして彼らが望むだろうかと疑問だった。

 だが、佐世保を離れて上海に着任した隆は、その地で驚くべき報せを聞いた。
 満州の中国人の間で日に日に反日思想が高まり、日本人と中国人の間で度々喧嘩沙汰などが起きているという。ピクニック中の女学生数十人が強姦されるという事件や青島の日本人居留民に対して大規模な暴行が加えられる事件も起きている。

 それらの事実は日本の民衆の怒りを誘発し、新聞を中心に『支那人の横暴許すまじ』という世論が優勢になっているという。

 確かにそれらの事件を聞いて腹を立てる気持ちは分かる。仮に千佳たちがそんな目に遭えば、隆も自分を抑えられる自信は無い。
 だが、そうやって怒る民衆と自分の知っている農村の人達の姿が隆の中で上手く重ならなかった。それらの世論は日本国内のほんの一部の世論であり、新聞などがそれらを大きく取り上げているだけではないのかという疑念が残る。

 そんな中、ついに日本全土を揺るがす事件が起きた。

 昭和六年九月十八日、奉天郊外の柳条湖付近を走る南満州鉄道の線路が何者かに爆破された。これを契機とし、関東軍は満州の直接支配を行うべく満州諸都市の占領を開始する。
 いわゆる、『満州事変』の始まりだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妖刀 益荒男

地辻夜行
歴史・時代
東西南北老若男女 お集まりいただきました皆様に 本日お聞きいただきますのは 一人の男の人生を狂わせた妖刀の話か はたまた一本の妖刀の剣生を狂わせた男の話か 蓋をあけて見なけりゃわからない 妖気に魅入られた少女にのっぺらぼう からかい上手の女に皮肉な忍び 個性豊かな面子に振り回され 妖刀は己の求める鞘に会えるのか 男は己の尊厳を取り戻せるのか 一人と一刀の冒険活劇 いまここに開幕、か~い~ま~く~

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

黄昏の芙蓉

翔子
歴史・時代
本作のあらすじ: 平安の昔、六条町にある呉服問屋の女主として切り盛りしていた・有子は、四人の子供と共に、何不自由なく暮らしていた。 ある日、織物の生地を御所へ献上した折に、時の帝・冷徳天皇に誘拐されてしまい、愛しい子供たちと離れ離れになってしまった。幾度となく抗議をするも聞き届けられず、朝廷側から、店と子供たちを御所が保護する事を条件に出され、有子は泣く泣く後宮に入り帝の妻・更衣となる事を決意した。 御所では、信頼出来る御付きの女官・勾当内侍、帝の中宮・藤壺の宮と出会い、次第に、女性だらけの後宮生活に慣れて行った。ところがそのうち、中宮付きの乳母・藤小路から様々な嫌がらせを受けるなど、徐々に波乱な後宮生活を迎える事になって行く。 ※ずいぶん前に書いた小説です。稚拙な文章で申し訳ございませんが、初心の頃を忘れないために修正を加えるつもりも無いことをご了承ください。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

処理中です...