もどろきさん

藤瀬 慶久

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第11話 二度目の初夜

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 観劇の後、二人は近くの洋食屋に入って一息ついた。遅めの昼食となったため、千佳のお腹もペコペコだ。

 千佳は近頃流行りのオムライスを注文し、隆はライスカレーを注文した。

「お好きなんですか? ライスカレー」
「ええ。いつも食べてはいるんですが、ついつい食べたくなってしまって」

 そう言って隆は無邪気に笑う。千佳は、隆の表情が以前に会った時よりも随分と柔らかくなっていると感じた。

 待つほども無くカレーとオムライスが運ばれてくると、二人の食卓は一気に彩豊かになった。特にオムライスの卵とケチャップの色どりの対比は目に楽しく、隣に添えられたパセリの緑がいかにも美味しそうな色合いを演出している。
 隆の前に置かれたカレーからも美味しそうな匂いがした。

 隆は早速スプーンを取り上げてカレーの皿に差し込んだ。

「うん。美味い」

 スプーンを口に運んだ隆は、そう言って舌鼓を打つ。

「軍艦のカレーも美味いですが、ここのカレーもなかなか美味しい」
「船ではいつもカレーを食べるのですか?」
「いつもでは無いですが、海兵はカレー好きが多いですからね。調理人達も好きなものですから、調理人ごと軍艦ごとに様々な工夫を凝らしています。
 ある将校などは、新しい船に配属されると新しいカレーが食べられるから楽しいと言っていました」

「まあ、まるで子供みたい」と千佳がクスクス笑う。

 隆の方も「いや、でも実際、海の上では食べる事は最大の娯楽です。月月火水木金金でヘトヘトになっていても、昼食にカレーを食うと『よし、午後も頑張ろう』という気になるのが軍人の単純な所ですよ」と言って笑った。

 帝国海軍の猛訓練は有名で、『艦隊勤務は月月火水木金金』というのは一種の自虐ネタとして海軍内で冗談めかして言われていた。
 いつの頃からかその諧謔かいぎゃくは民間にも広まり、千佳の耳にも届くほどになっている。

 一週間を月月火水げつげつかすい木金金もくきんきんと読む。土日は無い。つまり、一旦訓練に入ると海軍には休日は無いのだ。
 無論、何の意味も無くそのような制度を採用しているわけでは無い。日露戦争に勝利した東郷平八郎提督は、『連合艦隊解散の辞』においてその末尾を『勝って兜の緒を締めよ』と結び、軍人が戦勝におごって鍛錬を怠ることを厳に戒めた。
 加えて、一度出航すれば洋上では常に不測の事態に備える必要がある。嵐は日曜だからと船を避けてはくれないのだから、洋上勤務では常に休日返上で働く心構えが要求される。
 そういったことから生まれた標語だった。

「やっぱり、大変なお仕事なんですね……」

 隆はその辛い艦隊勤務を昨日まで勤めていた。本当ならば、今すぐにでも眠りたいほどに疲れているはずだ。にもかかわらずこうして誘い出してくれる気遣いが嬉しかった。

「いや、でも飯は美味い。カレーもそうですが、鮭と刻んだ大葉の混ぜ飯なんかは絶品です。他にも鮎のバター焼きとか……なんだか、食う事ばっかりですね」

 突然千佳がしんみりしたことに慌てたのか、隆が務めて明るく振舞う。その様子が可笑しくて、千佳は思わず笑ってしまった。

 千佳もオムライスにスプーンを差し込む。
 黄色い卵の中からケチャップで赤く染まったチキンライスが顔を覗かせ、立ち昇った湯気からはケチャップの甘酸っぱい匂いがした。
 口に入れると、最初にケチャップの濃厚な味を舌に感じた。だが、その上から卵のふんわりとした味が重なり、思ったよりもくどくなくあっさりと食べられる。

「美味しい」

 もう一口食べると、次は鶏肉のプリプリとした食感があった。鶏肉ならば千佳も普段から食べていたが、こんなに美味しく味付けされた鶏肉は初めてだった。

「それにしても、初めて行きましたが宝塚少女歌劇とはあれほどに盛況な物なんですね。付き合わせてしまって申し訳なかったかな」

 会話の空白を埋めようとしたのか、隆が唐突に話題を変えた。だが、その隆に言葉に千佳は疑問を持った。
 そもそも隆は何故千佳が宝塚に憧れを持っていると知っていたのだろうか。千佳が宝塚を好きなことは隆はおろか父にも話したことは無い。あるいは志保叔母から聞いたのかとも思っていたが、今の話しぶりからは隆が狙って宝塚をデート場所に選んだようには思えない。

「いいえ。とても楽しかったです。でも、どうして宝塚に誘って下さったんですか?」
「いえ、その……先日お話した時に千佳さんが『これで人生が決まってしまった』と言っていたので」
「……それで?」

 千佳は少し顔を傾けて続きを促した。隆が何を言いたいのかまだよく分かっていない。

「つまり、その……結婚したからと言って、もうどこにも行けない訳では無いと伝えたくて。私の休暇の度にこうしていろいろな町を見て歩くことは出来ます。泊まりがけで旅行に行くことだって出来ます。
 私は船乗りなので、多少不自由はさせてしまいます。ですが、半舷上陸の際には、また二人でどこかに遊びに行きましょう」

 ようやく千佳も隆の言いたいことを理解した。と同時に、そこまで自分を大事に思ってくれていることが嬉しかった。大げさに言えば、愛されていると感じた。

 ――まだ出会ったばかりなのに

 つい三か月前まではこんな風に誰かと神戸でデートしていることなど想像も出来なかった。だが、今はこうして二人で食事をしていることが至極当たり前のことのように思える。千佳自身も隆に惹かれていく自分を強く意識するようになっていた。
 隆と一緒に食べたオムライスは、甘酸っぱくて美味しかった。


 昼食を食べ、神戸の町並みを堪能した後、千佳と隆の二人は宿へと戻った。
 明治以来開発の進んでいる神戸には、格式あるオリエンタルホテルや、開業間もない摩耶観光ホテルなど、様々な洋式ホテルが各所に点在していた。だが、隆が取ってくれたのはそれらのホテルでは無く、ごく普通の宿屋だった。

「新任少尉の給料では、このくらいが限度でした」

 隆はそう言って頭をかいたが、千佳には何の不満も無い。そもそも旅行をして宿屋に泊まるという経験そのものが新鮮で非日常と言える。そのことに喜びこそすれ、不満などあるはずも無かった。

 宿に着いて風呂に入ると、あっと言う間に夕食の時間となった。
 夕食と一緒に隆が注文したビールが部屋に運ばれてくる。
 千佳が自然にビール瓶を取り上げて差し出すと、隆は少々驚きながらグラスを差し出した。

「驚きました。千佳さんに御酌をして頂けるとは思っていませんで」

 隆の驚いた顔を見て千佳がクスリと笑う。

「父もよく家でビールを飲んでいますから。小さい頃は、こうしてグラスにビールを注ぐのが面白くて。
 ですから、母が台所に立っている間、父に御酌をするのは私の役目のになっていたんですよ」

 そう言いながら千佳がビール瓶を傾けると、グラスの中に黄金色の液体がゆっくりと注がれる。隆の手は少し震えていて、女性に慣れていないという隆の言葉を裏付けるかのようだ。

 隆は注がれたビールを口に運ぶと、そのままグラスの半分ほどを飲んだ。ゴクゴクという音に合わせて隆の喉ぼとけが大きく上下に動く。訓練で鍛え上げられた隆の首には余分な脂肪がほとんどなく、その分だけ喉ぼとけの動きがはっきりと見て取れた。

 千佳の顔が赤く染まる。何故かは分からないが、隆の喉を見ていると恥ずかしさを覚える。あるいは、これがときめくという事なのかもしれない。
 壁際には隆の軍服と千佳のワンピースが並び、浴衣姿で二人で夕食をとる。昼間に食べたオムライスも美味しいと思ったが、二人きりで食べる食事はより美味しく感じた。

 やがて食器が下げられ、もう一度風呂に入っている間に仲居さんが布団の用意をしてくれた。当然のように布団は一組であり、枕だけが二つ並んでいる。千佳が湯上りの体を布団に横たえると、隆も隣に入って来た。

 ――来た

 今日は、千佳も覚悟を決めている。これから隆と本当の『夫婦』になるのだと理解している。とはいえ、胸の鼓動が早くなることを抑えることは到底出来そうにない。

 湯上りのせいか、耳の先まで真っ赤になった千佳は、隆の顔をまともに見ることも出来ずにいた。両腕を自分の胸の前に置いて隆に背を向けて横になっている。
 このまま隆が眠ってしまったらどうしようかという思いもあったが、だからと言って自分から隆に抱きつくような真似も出来ない。自分の心臓の音を聞きながら千佳が固まっていると、不意に背中越しに隆の腕が千佳の両腕の前に回って来た。

 今振りむけば、目の前に隆の顔があるはずだ。

 少しの逡巡の後、意を決して千佳が振り向くと、予想以上に近い位置に隆の顔があった。隆の吐息からは強いお酒の匂いがしたが、それを不快に感じる余裕すらも無い。
 不意に隆が口を開いた。

「あの……自分もこういったことは初めてで……なので、千佳さんに……その……」

 真っ赤な顔で口ごもる隆を可愛いと思った。顔が赤いのはお酒のせいか、それとも……。

「ふ、不快な思いを、さ、させてしまうかもしれません。だから……その……も、もし痛かったら――」

 そこまで聞くと、千佳は自分から唇を寄せて隆の口を塞いだ。
 初めての時は痛いという話は千佳も聞いた覚えがある。それを不安に思わないわけではなかったが、それ以上に隆が可愛い、とこの時は思った。
 千佳より七歳も年上の軍人さんで、堂々とした体躯を持つ大人の男性。でも、今この時だけは、そうしたことは頭から綺麗さっぱり無くなっていた。

 千佳がゆっくりと唇を離すと、今度は隆の方から唇を寄せて来てくれた。
 今までよりも濃く、深く、熱烈な口づけをし、隆は千佳の首の後ろに両腕を回した。そのまま隆が体を起こすと、自然と千佳が仰向けになる。
 上を見上げる千佳の正面から隆が覆いかぶさって来た。怖いという気持ちは、既に意識しなくなっていた。
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