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いつか
しおりを挟む仁右衛門に続き、今度は利助が甚四郎に向けて口を開いた。
「甚四郎。今夜のこと、しかと見たな?」
「はい。勉強させて頂きました」
「武士を抑えるには上役と醜聞や。山形屋が武士の御用を務めるのも、そこの人脈をしっかりと確保するために他ならん。運上・冥加や御用金は決して捨て金にしてるわけやないぞ。ご公儀への貸しは、後々我らが困った時には店を守る力になり得る。
ただし、それをひねり出すためにはお前ら奉公人が死力を尽くして稼いでくる必要がある。金は湧いてくるモンやなく、死ぬ気になって稼いでくるモンや。奉公人が死ぬ気で稼いでくれた金を、効果的に使って店を強くするのが当主の仕事や。
当主の仕事と奉公人の仕事は、自ずからその方向が変わって来るということを理解しておいてくれ」
「はい」
甚四郎は力強く頷いた。今まで利助に対して抱えていたわだかまりも今は感じない。
今までの利助が何に苛立ち、何を考えていたのか、少しだけ理解できるようになったからだ。
この時初めて、利助は利助で必死だったのだと知った。
「お前は見込がある。全てを知った上で、正も邪も使い分けられる器量を身に付けて、山形屋を支える力になってくれるとうれしい」
「……はい。精進します」
そう言って甚四郎は静かに頭を下げた。
利助は一つ頷くと、少々気楽な顔になって言葉を継いだ。
「それから今後の事やけど、多恵には俺の妾になってもらう」
「旦那様!」「それは!」
多恵と甚四郎の叫び声が同時に響く。利助は面倒臭そうに手を振った。
「心配せんでも形だけや。代官にああ言うた以上、次の日にお前に嫁入りさせては嘘を吐いた事が露見する。形だけでも本当に俺の妾として扱っておかんとならんのや。
……まあ、あと三年言う所ですかな? 父上」
「うむ。あと三年もすれば、代官の交代を言上できるくらいにはなろう」
仁右衛門がニヤリと笑う。つまり、尾張藩にも言う事を聞かせられるほどに八幡町や山形屋への依存が進むと見ているのだろう。
「と、言う事や。あと三年我慢せぇ。馬場が交代したら、その時は好きにしたらええ」
「ははは。その時はわしが世話人になろう。今回の詫びも含めてな」
仁右衛門が朗らかな笑顔でそう言った。
「ありがとうございます!死ぬ気で気張ります!」
「おう。期待しているぞ」
利助の私室を辞した後、甚四郎と多恵は日牟禮八幡宮の椋の根元に座っていた。
左義長の火はすっかり消え、人気も無く辺りは闇に包まれていた。八幡宮の提灯だけが微かに辺りを照らしている。
「左義長、終わっちゃったね……」
多恵が俯きながら寂しそうに言うが、甚四郎の顔は明るかった。
「また来年も再来年も左義長の季節は来る。三年後にはまた一緒に見に来よう。約束や」
甚四郎がそう言うと、暗闇の中で多恵は首を横に振った。
「ううん。約束はせえへん」
「……え?」
「ウチは一度約束を破ったから、もう約束はできひん」
「……」
「だから、早い事迎えに来てね」
「そんなん……」
代官が変わらないと迎えに行けないのだから、甚四郎は返答に窮するしかない。
「早くせんと、本当に利助さんのお妾さんになっちゃうかもよ?」
甚四郎は思わず苦笑した。利助から多恵を取り返すのは、ある意味代官から取り返すよりも困難なことに思えた。
「それは困るなぁ。旦那様から奪い取れる気はせんわ」
「じゃあ、今のうちに奪い取ったら?」
悪戯っぽい口調で多恵が甚四郎の耳元で囁く。言葉の意味を悟って甚四郎は思わず顔を赤くした。
暗闇で見えていないはずなのに、多恵が幾分か楽しそうに笑う。
「相変わらずやな。アカンたれ(注:意気地なしの意味)」
「そ、そない言われても……」
「ああ、焦れったいなぁ。もう」
突然、甚四郎の口に暖かい感触が重なった。鼻腔の奥に乾いた涙の匂いが広がり、思わず甚四郎は多恵の背を抱き寄せた。しばらく暗闇の中で抱き合っていた二人は、やがてゆっくりと身を横たえた。
甚四郎は翌日に八幡町を発ち、京の兄の店へと向かった。
「甚四郎。よく来たな」
長兄の甚一は父の名を継いで今は中村甚左衛門を名乗っていた。
「親父に手合わせに来た。お袋は?」
「まだ元気が無い。無理もないけど」
甚四郎は仏壇に手を合わせると、後ろで控える兄の甚左衛門に向き直った。
「なあ、兄さん。親父は本当に堅崎藩を恨んでなかったんやろうか?」
「……さあな。そやけど、最初は困窮した人たちの為になるんやったらと言って御用金を差し出してた。その後、待てど暮らせど藩がお救い米を出す気配は無かった。やがて、ご家老が不正に私財を蓄えているという噂が立つようになった。
その噂を聞いてから、親父は御用金の返済を求めて訴え出るようになった。
……俺が知ってるのは、そこまでや」
「そうか……」
堅崎藩は父を騙した。それを許すことは出来ない。
ただ、父が私財を投げうってまで救おうとした堅崎の民が苦しむのを見たくはないと思った。今更自分が堅崎藩に対して何ができるのかはわからない。
だが、新しい目標は出来た。
――いつか、人々の役に立てるような商人になりたい
これから行く道の長さを思い、甚四郎は頭を振った。
だが、それでこそやりがいがあるという物だ。
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