32 / 39
多恵(2)
しおりを挟む――甚ちゃん。悲しそうな顔してた
多恵はとぼとぼと歩きながら、別れ際の甚四郎の顔を思い浮かべていた。覚悟を決めて会いに行ったはずだった。だが、実際に会うと決心が鈍りかけた。
――これでいいの。ウチは平気
甚四郎に言った言葉をもう一度心の中で唱えた。
滲んだ涙を振り払うように正神町の尾州家代官屋敷に向かうと、代官屋敷の門前で仁右衛門が待ち構えていた。
仁右衛門と共に代官屋敷のくぐり戸を抜け、奥の部屋へと向かう。屋敷の奥では祭りの賑わいに気を良くした尾州家代官の馬場丈右衛門が見慣れぬ女達と楽しそうに酒を飲んでいたが、仁右衛門と多恵が入室するとそれらの女を下がらせた。
「おお、よう来た、よう来た。待っておったぞ」
好色そうにだらしなく垂れ下がった目尻に寒気を覚えながら、多恵は言われるままに隣に座って酒を注いだ。
「以前に町でそなたを見かけてな。今日ようやく会えることになった。いや、間近で見てますます惚れたぞ。ささ、そなたも飲むが良い」
勧められるままに一口飲む。正直、お酒を美味しいと感じたことはない。酒の匂いが口中に充満して気持ち悪かったが、一口だけ飲み込むとすぐに杯を返した。
代官の合図で仁右衛門が下がると、一人置き去りにされた心細さが急速に広がっていく。だが、ここまで来て逃げるわけにはいかなかった。
――これでご恩返しが出来るなら
その想い一つだった。どうせ遊女屋に売られていた身だ。この身一つなどは惜しくもない
多恵は覚悟を決めると、甚四郎の事を頭から追い出した。思い出すと逃げ出したくなりそうで怖かった。
しばらくの間、相変わらず馬場丈右衛門に酌を続け、何度も飲むように勧められては一口飲んで杯を返すことを繰り返した。もう一刻(二時間)は同じやり取りを繰り返し、下らない話を聞かされ続けている。多恵も少々ウンザリしていた。
するなら、早くして欲しかった。目を瞑っていれば終わると聞いた。これから一生目を瞑り続けてゆくのなら、せめてその時間が早く終わって欲しい。それだけが今の多恵の願いだった。
そう思いながら一つため息を吐いた時、丈右衛門の視線がふと多恵の髪に向いた。
「んん? そなたの簪は壊れておるな。そんなもの捨てよ捨てよ。ワシが新しい物を買ってやろう」
そう言うと、丈右衛門はギヤマンの簪を髪から引っこ抜いて部屋の端に投げ捨てた。
「あっ!」
思わず多恵は簪を追いかけ、拾い上げると胸元に握った。
一筋の涙が頬を伝った。
見えてしまったら、もう駄目だった。思い出すまいとしていたのに、思い出してしまった。
――泣いたら、アカン
駄目だと思っても次から次に涙が伝い落ちる。こんな姿を丈右衛門に見せてはいけないと思いながらも多恵は涙を止める事ができなかった。
きっと丈右衛門は不機嫌な顔をしているだろうと思ったが、予想に反して丈右衛門は少し嬉しそうな目をしている。しかし、その目には残忍そうな光もあり、多恵は知らずのうちに恐怖心を覚えた。
「フン。大方前の男からの贈り物といったところか」
そう言って丈右衛門が近づくと、多恵の顎を持ち上げ視線を合わせてくる。丈右衛門を恐れる心を強引に抑え込み、負けるもんかと真っすぐに視線を返した。
「ふふ。気の強い娘だ。そういうのを屈服させるのも楽しみだな。忘れるなよ。そなたはもうワシのものだ」
そう言うと丈右衛門が強引に小袖の肩をはだけさせた。
とうとう来たかと思って多恵は目を瞑って身を固くした。
その瞬間、遠くから足音が聞こえる気がした。もしかしてという思いと、そんなはずはないという思いが交錯する。
だが、そう思った瞬間に襖がターンと大きな音を立てて開いた。
多恵が視線を向けると、襖の向こうから利助が切れ長の目で丈右衛門を睨んでいた。
疑問を抱く暇も無く後ろからもう一つ人影が出てくる。甚四郎だった。
――なんでここに
喜びと羞恥に駆られて、多恵は思わず袖で顔を隠した。着飾って別の男に酌をしている姿を、甚四郎にだけは見られたくなかった。
「お代官様ですな。お初にお目に掛かる。山形屋の当主、利助と申します」
抑揚を抑えた利助の声が響く。しかし、次の利助の言葉に場の空気が凍り付いた。
「ところで、私の妾に一体何をしておられたのですかな?」
――え?
聞こえた声に混乱して顔を上げると、甚四郎とまともに目が合った。甚四郎は真剣な顔でゆっくりと首を横に振る。何も言うなということだろうか。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
呪法奇伝ZERO~蘆屋道満と夢幻の化生~
武無由乃
歴史・時代
さあさあ―――、物語を語り聞かせよう―――。
それは、いまだ大半の民にとって”歴”などどうでもよい―――、知らない者の多かった時代―――。
それゆえに、もはや”かの者”がいつ生まれたのかもわからぬ時代―――。
”その者”は下級の民の内に生まれながら、恐ろしいまでの才をなした少年―――。
少年”蘆屋道満”のある戦いの物語―――。
※ 続編である『呪法奇伝ZERO~平安京異聞録~』はノベルアップ+で連載中です。
江戸情話 てる吉の女観音道
藤原 てるてる
歴史・時代
この物語の主人公は、越後の百姓の倅である。
本当は跡を継いで百姓をするところ、父の後釜に邪険にされ家を出たのであった。
江戸に出て、深川で飛脚をして渡世を送っている。
歳は十九、取り柄はすけべ魂である。女体道から女観音道へ至る物語である。
慶応元年五月、あと何年かしたら明治という激動期である。
その頃は、奇妙な踊りが流行るは、辻斬りがあるはで庶民はてんやわんや。
これは、次に来る、新しい世を感じていたのではないのか。
日本の性文化が、最も乱れ咲きしていたと思われるころの話。
このてる吉は、飛脚であちこち街中をまわって、女を見ては喜んでいる。
生来の女好きではあるが、遊び狂っているうちに、ある思いに至ったのである。
女は観音様なのに、救われていない女衆が多すぎるのではないのか。
遊女たちの流した涙、流せなかった涙、声に出せない叫びを知った。
これは、なんとかならないものか。何か、出来ないかと。
……(オラが、遊女屋をやればええでねえか)
てる吉は、そう思ったのである。
生きるのに、本当に困窮しとる女から来てもらう。
歳、容姿、人となり、借金の過多、子連れなど、なんちゃない。
いつまでも、居てくれていい。みんなが付いているから。
女衆が、安寧に過ごせる場を作ろうと思った。
そこで置屋で知り合った土佐の女衒に弟子入りし、女体道のイロハを教わる。
あてがって来る闇の女らに、研がれまくられるという、ありがた修行を重ねる。
相模の国に女仕入れに行かされ、三人連れ帰り、褒美に小判を頂き元手を得る。
四ツ谷の岡場所の外れに、掘っ立て小屋みたいな置屋を作る。
なんとか四人集めて来て、さあ、これからだという時に……
てる吉は、闇に消えたのであった。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
永遠より長く
横山美香
歴史・時代
戦国時代の安芸国、三入高松城主熊谷信直の娘・沙紀は「天下の醜女」と呼ばれていた。そんな彼女の前にある日、次郎と名乗る謎の若者が現れる。明るく快活で、しかし素性を明かさない次郎に対し沙紀は反発するが、それは彼女の運命を変える出会いだった。
全五話 完結済み。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる