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旦那様
しおりを挟む甚四郎が江戸に来てすでに一年が経った。正月の松も取れたが、相変わらず忙しい日々を送っている。
もっとも、梅の香りが漂う頃になれば、甚四郎も最初の年季が明けて『初登』の日を迎える。久しぶりに八幡町に帰れると思えば、毎日の忙しさなど屁でもなかった。
元来、登は里帰りだ。頭に浮かぶのは懐かしい父母の顔や故郷の山河のはずなのだが、甚四郎の脳裏には久々に再会する多恵の笑顔だけがあった。
「甚四郎さん。この蚊帳はどこに置きましょうか?」
甚四郎の一年後輩にあたる伊助が甚四郎の指示を仰ぐ。
「ああ、それは注文に応じて寸法を仕立てるから、今は奥の蔵に仕舞っておいてくれ」
甚四郎も日本橋店の先輩として、伊助に様々に指示を与えていた。
伊助は八幡の本店でも甚四郎が行儀作法を教えた後輩だった。それが昨年末に甚四郎と同じく江戸に来ていて、それ以来甚四郎の後をくっついて回っている。思えば、甚四郎も江戸に来た当初は茂七の後ろにくっついて回っていた。かつての自分と同じように振舞う伊助を見ていると、懐かしさと若干の気恥ずかしさを覚えてしまう。
その茂七も今は外回り役を言い渡されて忙しく走り回っており、店内では甚四郎以外に教える者がいないという事情もあった。
だが、甚四郎自身の仕事もある。
夕暮れ時には明日の商談の予定を嘉兵衛から聞いて手配りをする。主にはお客にお出しするお茶菓子の注文だ。
「え~と、竜胆が三件に揚羽が二件。それと桐が五件か」
注文用の紙に明日届けてもらう饅頭の数を書き出して、日本橋通り二丁目の『さね屋』に注文書を届ける。
八幡町では住み込み下男の庄兵衛が茶菓子を作っていたが、江戸店にはそんな者は居ない。そのかわりに商売用の上菓子を商っている菓子屋がごまんとあった。
山形屋日本橋店では『さね屋』の栗饅頭を定菓子としていつも提供している。さね屋の主人も心得ていて、注文書を届けると翌日の巽の刻には注文した数量を店に届けてくれた。
お客様にお出しするべきお菓子を切らしてしまっては一大事なので、甚四郎はいつも注意深く件数を数える。以前に一度甚四郎の不手際でお菓子が出せなかった時には、嘉兵衛から算盤で脳天を一撃された。
八幡町で食らった利右衛門の一撃よりも強烈で、甚四郎は思わず頭を抑えてうずくまってしまった。
「数勘定は命懸けでやれ」
それが嘉兵衛の口癖であり、商人として忘れてはならない心構えでもあった。
翌日
いつものように甚四郎と伊助が小舟からの荷を店内で整理していると、店先から嘉兵衛がひょいと顔を出した。
「甚四郎。月が変われば旦那様がこちらに来られるそうだ。なんでも、ご老中様からお呼び出しがあり、御城に伺候されるらしい。
お前、二か月後には初登だろう?
丁度いいから、旦那様が八幡町に帰られる時にご一緒させてもらえ」
「ええ!旦那様と八幡町までご一緒に……ですか?」
甚四郎は眉間に皺を寄せ、小鼻を膨らませて大げさにのけぞった。
その反応を見て嘉兵衛の顔がからかう時のそれになる。
「嫌か? 旦那様とご一緒に十日以上も旅が出来るなんて、大した果報だぞ」
「それは……そうなんですが……」
いわばペーペーの平社員が社長と一緒に旅をするようなものだから、嫌だとかどうだとかの問題ではなく、気疲れすることこの上ない。
気楽な里帰りの旅がそんな苦行になるなど、考えただけでぞっとした。
その辺は嘉兵衛も充分承知している。してはいるが……。
「旦那様はああ見えて店員の教育に熱心なお方だ。お前も旅の間みっちりしごいてもらえ
ああ、年季明けの生まれ変わった甚四郎の姿が今から楽しみだなぁ」
そう言って笑うと、鼻唄混じりに嘉兵衛は帳場へ戻って行った。
あれは、面白がっているようにしか見えない。
――旦那様と道中か……
正直に言えば気が重い。
折角の心浮き立つ初登が台無しだと思いながら、甚四郎はそのまま日々の忙しさに埋もれて行った。
月が明けると、嘉兵衛の予言通り店主の利助が旅装束で日本橋店に現れた。長旅に疲れた主人の元に、嘉兵衛以下店員一同が挨拶に伺う。
「旦那様。さぞやお疲れでありましょう。、今湯をお持ちします」
言われる前に動いていた甚四郎は、広めの桶に温かい湯を張って主人の足元に持っていく。
利助が腰かける上がり框の前の三和土に桶を置くと、草鞋を脱いだ利助が足を漬けて心地よさそうな顔をした。
「年のせいかな。最近は江戸の寒さが殊更にこたえる」
「なんの、まだまだ我らを導いて頂かねば困りますぞ」
「そうだな。せめて嘉兵衛が別家するまでは現役でおらぬとな」
「左様ですとも。旦那様に責任持って店を持たせていただかねば、ここまでお仕えした甲斐がありませぬゆえ」
利助と嘉兵衛がそんな軽口を叩いて笑いあっている。甚四郎もチラリと利助を窺った。
一年ぶりに見る主人は、心なしか鬢の辺りに白い物が増え、髷もごま塩になっているように見える。正確な年齢は知らないが、もう五十は過ぎているはずだ。
――いずれ
自分が嘉兵衛のようになる頃には、山形屋の旦那様は宗十郎が継いでいるのだろう。
甚四郎は八幡町で共に過ごした宗十郎の面影を思い出していた。別段、他の奉公人と差別されるわけではないが、言葉の端々に棘があるというか、どうにもしっくりいかない物を感じる事が多い。
今和やかに笑いあっている利助と嘉兵衛のように、自分もいつか宗十郎と笑いあっているのだろうかと思ってみるが、どうにも想像が付きにくかった。
「甚四郎も久しぶりやな。伊助は送り出したんはついこの前やから、久しいという程でもないけど」
「へい。ご無沙汰いたしております。嘉兵衛さんや皆さんに可愛がってもろてます」
「はっはっは。嘉兵衛と利右衛門。どっちの算盤が痛かった?」
「………嘉兵衛さんです」
下を向いて消え入りそうな声で告げると、利助は大声で笑った。
「利右衛門さんよりも算盤が冴えているとは、これは嬉しい誉め言葉ですな」
嘉兵衛も頭を掻きながら苦笑している。つられて甚四郎以外の全員が笑った。もっとも、日頃から算盤を食らう甚四郎にすれば笑いごとでは無かった。
この時、甚四郎はあることに気が付いた。
店主の利助は江戸で他の地域の奉公人やお客と話すときには江戸弁を話しているが、甚四郎達に話すときは江州弁に戻る。
言葉を器用に使い分ける利助の姿に感心し、何気ない事だが自分にはなかなか出来ていない事だと恥じ入った。
挨拶が終わると、旅装を解いた利助と嘉兵衛は帳場に座って何やら話し込み始めた。それを合図にしたように、銘々が自分の仕事に戻って行った。
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