2 / 39
お茶出しの妙
しおりを挟む朝食が終わるといよいよ暖簾を出し、この日の営業を始める。大杉町の一角にある山形屋は、八幡堀沿いに店と蔵を並べ、八幡町の碁盤状の町割りの一番上座の位置を占めていた。通りを見渡すと魚屋町通りが正面に見え、右手に見える新町通りでは扇屋や大文字屋も同じように暖簾を出し始めていた。
「今日はぎょうさんの荷物を船に積んで出荷するさけ、甚四郎は茂七を手伝って荷積をやってくれ」
「へえい」
甚四郎は番頭の利右衛門の指示に従って商品の品出しを手伝いに行った。堀側の裏庭では茂七が明細を片手に商品の数を数えている。
「茂七さん。番頭さんからこっちを手伝えと言われました」
「お、そうか。ほな俺が数えるやつを掘に繋いだ船に乗せて行ってくれるか」
「へえい」
いつもの間延びした返事と共に、甚四郎は早速荷積みを始めた。
茂七は今年十七歳になる。
あばた顔ののっぺりとした顔つきの少年だったが、甚四郎たち年下の丁稚を可愛がってくれたし、理不尽な事は決して言わなかった。もっとも、手抜きをすればすぐにバレてしまい、その時はキツイ拳骨をくらった。丁稚の中には生真面目な茂七を煙たがる者も居たが、甚四郎はそうした茂七の仕事ぶりを好ましく思っていた。
「蚊帳を二百反、畳表が五十枚。数を勘定し終わったやつはこっちに分けとくさかい、こっちにおいてある奴をドンドン運んでいってくれ」
「たくさんありますねぇ」
「それだけ江戸で良く売れてるいうことや。商売繁盛で結構な事やないか」
それもそうだなと単純に納得し、甚四郎はせっせと立ち働いた。
蚊帳十反をひとまとめにして縄で縛り、それを肩に担ぐ。ずっしりと重みが肩にかかり、たちまち汗が噴き出した。周りにはがやがやとお客様と店の手代達の話す声に混じって、夏らしい蝉の声が聞こえてきていた。
「よし。ご苦労さん。あとは番頭さんに送り状をもらって来るから、ちょっと休憩やな」
休憩と聞いた瞬間、甚四郎は盛大に息を吐いてその場にへたりこんだ。
既に体中汗みずくになっている。
「はぁっ、疲れた」
「はははっ。多恵ちゃんに水もらって一休みしとき」
「へい」
茂七に言われた通り、甚四郎は厨に行って多恵を探した。
幸い、多恵は勝手口から一番近い流し台で洗い物の最中だった。
「多恵ちゃん。水一杯おくれ」
「はいはい。あら、ようけ汗かいて」
そう言うと多恵が腰に刺した手ぬぐいを抜いて、汗を拭ってくれた。
「ふぅ。生き返るわ」
多恵は”ふふふ”と笑うと、水瓶からもう一杯水を汲んで差し出してくれた。
「もう飲んだけど?」
「阿呆。それは茂七さんの分や。喉乾いてるはずやから、持って行っておあげ」
ああ、そうかと思い、多恵の気配りに感心する。多恵は甚四郎より二歳年上の十二歳だったが、しっかり者と評判で丁稚や手代から人気が高かった。
多恵から受け取った茶碗には水がなみなみと入っている。こぼさないように慎重に裏庭に持って行くと、ちょうど茂七も出荷が済んで一休みしている所だった。
「茂七さん。水もらってきました」
「お、ありがとう。多恵ちゃんから持たされたんやな」
「わかりますか」
「ああ。甚四郎にはまだこんな気配りは無いやろうしな」
すっかり見破られてしまっていることに一抹の恥ずかしさを覚えたが、笑っている茂七に抗議の声を上げる気にはならなかった。事実なのだから、抗議のしようもない。
やがて茂七が茶碗の水を飲み干すと、休憩は終わりとなった。初夏の陽気は容赦なく甚四郎の頭上に降り注ぎ、汗がひくどころか体中にじっとりとした暑さがこもって来ている。
蝉の声が益々大きくなってきていた。
「昼飯までにはまだ少し時間があるな。ちょうどええから、お茶出しの練習しよか」
「へい」
甚四郎は茂七に付き添われてお茶所へ行った。山形屋には大勢のお客が来るが、お客のランクによってもてなす方法が違った。
お客のランクを表すのには独特の符牒を用いた。最上級の客は天皇家の『菊』と呼び、その次が藤原氏の『藤』、橘氏の『蜜柑』、源氏の『竜胆』、平氏の『揚羽』と続き、一番下が豊臣の『桐』だった。徳川の葵はさすがに大問題になりかねないので遠慮していた。
菊の客には店主自ら接待し、場所も西町の上等の茶屋を使う。主に徳川御三家の使者や京の公家、江戸・大坂の大商人の店主が『菊』に位置した。
藤や蜜柑の客には店主自ら接待することは滅多に無く、ほとんどは店の番頭が対応する。
山形屋には三人の番頭が居て、一番格上の番頭が先ほど甚四郎に指示を出した利右衛門だ。
竜胆以下の客は茶屋ではなく店の座敷で接待する。そして、竜胆と揚羽の客にはお茶とお菓子が振る舞われ、桐の客にはお茶だけという決まりだ。
お茶出しは丁稚の重要な仕事の一つで、万に一つも粗相があってはいけない。その為、お茶出しを務めるのはしっかりと訓練された者に限られた。当然、甚四郎はまだお茶出しをさせてもらったことは無い。
「お湯の熱さはこれくらいや。熱すぎても温すぎてもいかんから、きちんと肌で覚えや」
出されたお湯を軽く口に含む。
夏の熱さ故に随分とぬるく感じるが、これが程よいお茶の温度というものなのだろうか。お茶などろくに飲んだ事のない甚四郎にはよくわからなかった。
「一回自分で熱さを調節してみ」
「へい」
見よう見真似で釜から湯を注ぎ、水を足して調節する。
「アカン。温すぎる。もうちょっと湯の熱さを確認してからやった方がええな」
――難しいもんやな
お茶出しをまともに出来ない者はそれ以上の事を教えてはもらえない。ここが頑張りどころと甚四郎は何度も熱さを確認した。
「うん。これくらいやな。これでお茶を淹れるとちょうどええ熱さになる」
茂七の指導を受けていると先輩丁稚の平太がお茶所へやって来た。
「ちょっとお茶淹れさせてもろてええか?」
「おお、平太か。ちょうどええさけ、甚四郎にお茶淹れさせてやってくれ。おい、甚四郎。一回お茶淹れてみ」
「ええ!?いいんですか?」
「はよやらんか。やらんといつまでもお茶出し出来るようにならんぞ」
「へえぃ…」
先ほどのお湯の熱さを思い出しながら温度を調節し、大きな茶碗に茶葉を入れて湯を注ぎ、しばらく待ってからそれを小ぶりの客用の茶碗に移す
蓋で茶葉が漏れ出るのを抑えながら、丁寧にお茶を注いだ。使う茶葉は日野の茶農家から買い求めた上級品の煎茶で、注ぐと濃い深緑色の液体からふくよかな香りが広がる。香りを逃がさないように茶碗に塗の蓋をかぶせ、茶托に乗せて平太に渡した。
「へえ。ちゃんと出来てるやん」
心配そうに見ていた平太だが、ぎこちなくも正確な手順でお茶を淹れる甚四郎を感心したように見ながら、お茶を受け取って客室へ向かった。
「よし。次は出し方やけど…」
茂七が言いさすと、帳場から番頭さんの“旦那様にお茶を持って行ってくれ”という声が聞こえた。
「ちょうどええ。旦那様にお茶をお出ししてみ」
「ええ!?」
いきなりの事に甚四郎は大げさに驚いた。
店主の利助はあまり怒鳴ったりする性格ではないが、それでも甚四郎にすれば恐ろしい相手と映る。
だが、茂七は容赦なかった。
「阿呆。ええから早うやれ」
「へぇい…」
先ほどの手順に則ってお茶を淹れると、お盆に乗せて奥の店主の私室に向かった。
「すり足で足音を出さんように歩け。本番はお菓子が乗ることもあるから、お盆は左手を底に置いて右手は横で添えるだけや」
――右手は添えるだけ。右手は添えるだけ。
言われたことを心の中で反芻しながら、甚四郎はぎこちなく廊下を進む。まるで体中の関節が無くなってしまったかのような滑稽な所作だった。
「失礼いたします」
茂七が廊下から声を掛けると、中から利助の”入れ”という声がした。
「旦那様。お茶出しの練習として甚四郎にお茶を淹れさせました。所作を見てやって下さいませ」
「ほう。甚四郎がな……ええやろ。見してみ」
利助は相好を崩すと甚四郎の所作をじっくりと見た。
甚四郎は緊張しながら茶托ごと茶碗を文机に運ぶ。カタカタと音を立てながら、それでも大きな失敗はせずに利助の前にお茶を持って行った。
「まだまだぎこちないな。もうちっと流れるように出さなアカンぞ。そうでないとお客様の意識が丁稚の方に向いてしまう。商談の邪魔になってはいかん」
「へい。勉強になります」
「それと、音は出来るだけ立てんようにしろ。音が出るんはあまり品のええもんではない」
「へい」
「明日から毎日、ええと言うまで甚四郎がワシにお茶を出せ。ええな」
「え!?」
突然のことに甚四郎は目の前が暗くなる思いだった。
確かにお茶出しは覚えなければならないが、よりによって利助に毎日お茶出しをするなど緊張でどうにかなってしまいそうだ。
「お前は運がええな。旦那様自ら見て下さるやなんてそうそうない事やぞ。せいぜい褒めてもらえるように精進せいよ」
利助の前を下がると、茂七が笑いながら甚四郎の背を叩いた。有難いとは思いつつも、甚四郎の心はずんと重たくなった。
翌日から甚四郎は毎日利助の居室にお茶を運んだ。利助は時に帳簿を前に難しい顔をしていたが、甚四郎がお茶を出すといつもチラリと目線を向けた。利助曰く、『チラリとも見られなくなったら合格』という事だった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説

大航海時代 日本語版
藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった―――
関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した
それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった
―――鎖国前夜の1631年
坂本龍馬に先駆けること200年以上前
東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン
『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです
※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します
1333
干支ピリカ
歴史・時代
鎌倉幕府末期のエンターテイメントです。
(現在の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』から、100年ちょい後の話です)
鎌倉や京都が舞台となります。心躍る激しい合戦や、ぞくぞくするようなオドロオドロしい話を目指そうと思いましたが、結局政治や謀略の話が多くなりました。
主役は足利尊氏の弟、直義です。エキセントリックな兄と、サイケデリックな執事に振り回される、苦労性のイケメンです。
ご興味を持たれた方は是非どうぞ!
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

瓦礫の国の王~破燕~
松井暁彦
歴史・時代
時は戦国時代。
舞台は北朔の国、燕。
燕は極北の国故に、他の国から野蛮人の国として誹りを受け続け、南東に位置する大国、斉からは朝貢を幾度なく要求され、屈辱に耐えながら国土を守り続けていた。
だが、嫡流から外れた庶子の一人でありながら、燕を大国へと変えた英雄王がいる。
姓名は姫平《きへい》。後の昭王《しょうおう》である。
燕国に伝わりし王の徴《しるし》と呼ばれる、宝剣【護国の剣】に選ばれた姫平は、国内に騒擾を齎し、王位を簒奪した奸臣子之《しし》から王位と国を奪り戻し、やがて宿敵である斉へと軍勢へ差し向け、無二の一戦に挑む。
史記に於いて語られることのなかった英雄王の前半生を描いた物語である。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
平安ROCK FES!
優木悠
歴史・時代
2024/06/27完結
――つまらねえ世の中をひっくり返すのさ!――
平安ROCK FES(ロックフェス)開幕!
かつての迷作短編「平安ロック!」が装いも新たに長編として復活。
バイブス上がりまくり(たぶん)の時代ライトノベル!
華やかな平安貴族とは正反対に、泥水をすするような生活をおくる朱天と茨木。
あまりの貴族たちの横暴に、ついにキレる。
そして始まる反逆。
ロックな奴らが、今、うごめきはじめる!
FESの後にピリオドがいるだろう、って?
邪魔なものはいらないさ、だってロックだもの!
時代考証も無視するさ、だってロックだもの?
部分的に今昔物語集に取材しています。

夢占
水無月麻葉
歴史・時代
時は平安時代の終わり。
伊豆国の小豪族の家に生まれた四歳の夜叉王姫は、高熱に浮かされて、無数の人間の顔が蠢く闇の中、家族みんなが黄金の龍の背中に乗ってどこかへ向かう不思議な夢を見た。
目が覚めて、夢の話をすると、父は吉夢だと喜び、江ノ島神社に行って夢解きをした。
夢解きの内容は、夜叉王の一族が「七代に渡り権力を握り、国を動かす」というものだった。
父は、夜叉王の吉夢にちなんで新しい家紋を「三鱗」とし、家中の者に披露した。
ほどなくして、夜叉王の家族は、夢解きのとおり、鎌倉時代に向けて、歴史の表舞台へと駆け上がる。
夜叉王自身は若くして、政略結婚により武蔵国の大豪族に嫁ぐことになったが、思わぬ幸せをそこで手に入れる。
しかし、運命の奔流は容赦なく彼女をのみこんでゆくのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる