近江の轍

藤瀬 慶久

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十一代 甚五郎の章

第87話 松方デフレ

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 1879年(明治十二年) 六月 東京府 三井物産会社 応接室



 三井物産の応接室では重苦しい空気が漂っていた。

 三井物産社長の益田孝は、集まった面々を改めて見回す。
 井上馨・渋沢栄一に加え、農商務大輔の品川弥二郎。
 この年の十一月には外務大臣となる榎本武揚。
 石炭コークスやコールタールの売買で巨額の富を築き、後に浅野セメントを創業し、京浜工業地帯の父と呼ばれた浅野総一郎。
 益田を含め、日本の政財界の大物が極秘裏に会合を持っているという事そのものが穏やかではなかった。

「皆さん。本日はお集まりいただいてありがとうございます」
 益田が口火を切る。全員が今日の会合の用件を承知しているので険しい顔をしていた。
 だが、益田は気にした様子も無く続ける。

「実は先日二度ほど三菱の岩崎弥太郎さんが私を訪ねて来られました。三池炭鉱のビジネスを本格的に行うにあたって、三菱でも石炭を大量に使うから一つよろしくと。
 また、船荷も回してくれと笑っておられましたが…」

「ふん。三菱など国賊企業ではないか」
 品川が憤懣やるかたないと言った顔で憤然と吐き出す。三菱は明治七年の台湾出兵及び明治十年の西南戦争で大久保利通や大隈重信の要請に応えて軍事用物資の運搬で政府御用達を務め、そのおかげで日本随一の海運会社として日本の海運をほぼ独占していた。
 もちろん、外国の海運会社にシェアをとられるよりも国内の企業が独占していたほうがマシではあるのだが、独占市場に気を良くした岩崎は運賃を値上げして利益を独占し、各地の物産会社から怨嗟を籠めて『海坊主』と呼ばれていた。

「ええ、我が三井物産も一石五円の米を運ぶのに二円だの三円だのの高い運賃を取られます。
 それだけでなく、相手の機嫌を損ねるような時には運搬を引き受けられないと突っぱねられる事もある。
 これでは、日本の富は三菱に吸い取られる事になる」

「益田君、回りくどい話はよそう。率直にこれからやろうとすることを提案してはどうかね?」
 井上馨が益田に視線を投げて寄越す。井上の視線をまっすぐ見返した益田は、一つ頷くと全員の顔を見回して本題を切り出した」

「問題は、三菱に対抗できる海運会社が無い事です。であるならば、我々で海運会社を作りませんか?」
 品川・榎本・浅野の顔に驚きが広がる。井上と渋沢は事前に話を知っていたので涼しい顔だった。


「しかし、あの海坊主の力は侮れません。郵便蒸気船すら崩壊させたのです。半端な会社をこさえても…」
 浅野が実業家らしい現実的な問題点を指摘する。だが、益田もその点は井上や渋沢とさんざん話し合った事だった。

「半端なものでなければいい。我が三井物産が出資し、渋沢子爵にも協力をいただく。皆様方にもご賛同頂けると信じております。
 今や大久保さんは居られないのです。三菱は大隈(重信)さんの子飼いと言ってもいい。三菱の横暴を許せば、それは大隈さんが日本経済界の実権を握る事にも繋がり兼ねません」

 益田の言葉に品川と榎本がチラリと井上馨を見るが、井上は尚も涼しい顔だった。


 この年の五月には維新三傑の一人である大久保利通が暗殺される事件があった。
 事件後、明治政府の実権は伊藤博文が握る事になったが、井上は工部卿として伊藤政権を支える重鎮となる。
 だが、一方の大隈重信も大蔵卿として会計検査院の設立に尽力するなど、財政面から伊藤政権を支える重鎮であった。
 つまり、三菱と三井の争いは大隈と井上の代理戦争という側面があった。
 三菱が大隈の子飼いならば、三井は井上の子飼いとも言うべき関係にある。事実、井上の懐刀と呼ばれた渋沢栄一と三井物産の益田孝は、終生肝胆相照らす仲だった。


「競争相手が居れば、三菱もあまりに横暴な事は出来なくなる。日本の為にも益田君の提案を受け入れるべきと思うが?」

 井上馨のこの言葉によって会合は全員一致でまとまった。

 三井と渋沢の協力により翌年には東京風帆船会社が設立され、三菱の海運独占に楔を打ち込む事になる。
 三菱もこれに対抗して海運運賃のたたき売りを始め、体力の差で三井の海運を打ち崩す構えを見える。
 だたの一発も銃弾は飛んでこないが、まさに生き残りを賭けた商人同士の熾烈な戦いの幕開けだった。



 1879年(明治十二年)九月  兵庫県 神戸港



 西川貞二郎は神戸―横浜間の汽船に乗って上機嫌で甲板に立っていた。
 今回で四回目の北海道行きとなるが、今回は神戸から横浜まで汽船で行き、横浜から北海道に行く予定だった。
 もちろん、ただ汽船に乗りたいがためだけに横浜へ行くのではない。

 貞二郎は北海道の海産物を東京に持ち下る船を建造していた。
 三菱の荷船はやはり運賃が高い。それに北海道の鮭は東京でも人気があり、直接東京に運ぶ航路を独自に持てばそれだけ利益を上げられると見込んでいた。
 今回は東京の造船会社に西洋式帆船を発注しているが、その建造の視察のために東京に寄っていくつもりだった。

 しかし、元来が子供のような所のある男で、仕事とはいえ汽船での船旅に素直に興奮していた。

 ―――甚五郎さんもグチグチ悩まずに潮風に揺られてみればいいのに…

 西川甚五郎は国立銀行の設立願いが却下された事を未だに気に病んでいた。
 だが、筆頭発起人である貞二郎は国立が駄目なら私立銀行にすればいいと呑気に構えていた。


 この当時に日本中に乱立する国立銀行はそれぞれが独自に紙幣の発行権を持っていた。
 これはバンク・オブ・ジャパン構想を日本に持ち込んだ伊藤博文が、その模範としてアメリカの国立銀行制度を真似たからだ。
 これはアメリカが本来的に小国家の連合である連邦国家=合衆国だったことに原因がある。
 要するにアメリカの各州はほぼ完全に独立国家の要件を備えており、金融制度においても各州が独自に中央銀行を持つという制度だった。
 アメリカが合衆国として統一した金融政策を行う連邦準備銀行を設立するのは大正四年の事だ。

 この国立銀行制度をそのまま移植した日本では、統一国家にも関わらず複数の国立銀行がそれぞれ独自に金融政策を行うというアンバランスさを持っていた。
 例えば、西南戦争の戦費調達の為に第十五銀行の紙幣を借上げ、それを第三銀行の発行した紙幣で買い戻すと言った奇妙な通貨制度となっていた。
 国立銀行が容易に設立を認められなくなったのはこの制度によって金貨との兌換が出来ない不換紙幣が広く出回るようになった為だ。

 私立銀行ならば通貨発行権は無い。そのため、要件を満たすための資金さえあれば設立は比較的簡単に認められた。


 ―――カネを作る必要はない。皆のカネを集めて一つの大きなカネにすれば、それで八幡町は復活するはずだ

 貞二郎には確信に近いものがあった。
 自身が長く北海道の開拓事業を行って来た近江商人の出自である為に、近江商人が日本各地にどれだけ深く根を張っているかを良く理解していた。
 産物を仕入れるルートもあるし、売捌く販売網も既にある。それは甚五郎の西川商店も例外ではない。
 もっと自分達の力を信じて行けば必ずうまく行くと楽観的に考えていた。

「そうだ!今度行くときは甚五郎さんも一緒に汽船に乗ろう」

 甚五郎もこの潮風の心地よさに揺られれば、きっと小さな悩みなど吹き飛んでしまうと思った。
 二十二歳になる貞二郎は、当時としては立派な大人になる。
 しかし心の奥底にいつまでも少年の心を持ち続けているのが西川貞二郎という男だった。



 1880年(明治十三年) 九月  東京府 大隈重信私邸



「今の日本の実体経済は通貨発行量に近い。それだけ日本は経済的に強国となってきたんだ。
 外債を発行して外国から調達した正金で市場の紙幣と交換すれば、今の物価高は安定するはずだ」

「いいえ、今の物価高の原因は御一新以来乱発した紙幣が実体としての経済以上に膨張し続けているからです。このままでは庶民は明日の米を買う事もできなくなります。
 民衆の怒りはかの徳川幕府をも打倒する巨大なうねりとなりました。まだ出来上がって十年ほどの政府など、舵取りを誤れば木っ端微塵に砕け散ります。
 今は痛みに耐えて不換紙幣を回収し、実体経済との均衡を図るべきです!」

 大蔵大輔の松方正義は、明治政府の財政政策を陰で操る大隈重信と激論を交わしていた。議題は、この明治十三年から深刻化してきた日本円のインフレーション対策だった。
 ちなみに太政官制度における大輔は現在の官僚制度で言う事務次官に当たる。つまり松方は大蔵卿に次ぐ大蔵省のナンバー2の地位に居た。


 西南戦争の戦費調達の為に国立銀行がそれぞれ独自に乱発した紙幣は、名目上は兌換紙幣でありながら正金不足により実体は不換紙幣となっていた。
 つまり、通貨の信用を担保する金保有高以上に日本円紙幣が国内に流通しすぎていた。

 このままでは通貨の命である『国家の信用』を毀損する事を危惧した松方は、フランスやベルギーで学んできた中央銀行の制度を輸入し、それによって不換紙幣を回収して緊縮財政を行うべきと主張する。
 一方の大隈重信は通貨の発行高こそは日本の富の総量だと考え、緊縮よりもむしろ外債を用いて積極財政を行うべしと主張した。

 両者の主張は平行線を辿り、結局は政治力の差で大隈案がそのまま政府の財政政策として採用される事になる。
 だが、現代の目から見ればこの時の議論は松方に理があるように思える。

 確かに大隈の意見にも正当な理がある。通貨の発行量は即ちその国の富の総量を意味する。
 適切なインフレーションは国家の経済成長を促すというのは現代の経済学者の多くが同意するところだ。
だが、それは発行された通貨に国債という信用の裏付けがあり、かつその国債が市場の信認を得ている事が絶対条件だ。言い換えれば、『まだまだこの国に金を貸しても大丈夫』と市場が思えるようにする必要がある。
一方の緊縮財政は景気に冷や水を浴びせ、折角順調に伸びている経済発展を阻害してしまう危険がある。

 だが、それ以上に通貨に信用が無いというのは深刻な問題だった。


 通貨にとっては信用こそ全ての価値の源だ。
 その信用が自国民ではなく外国人の資産によって作られているとすればどうなるか。これと似たような状況になっているのが現代の韓国だ。
 自国通貨の信用を外債つまり外国人投資家の資本によって維持している。つまり、国家にとってカネ以外の利害関係を持たない者が国家の富を支えるという状況になる。

 そんな時に通貨の信用不安が起きればどうなるか。
 それが1997年のアジア通貨危機における韓国のデフォルト騒ぎだ。

 本来的に外国人投資家が国債を買うのは、その金利に旨味があるからだ。他に理由はない。
 ということは、金利の旨味以上に『この国破産するんじゃね?』という疑いが広がれば、彼らは簡単に国債を投げ売りする。身銭を切って他人の富を支えてやる義理など彼らには何一つない。

 それまで膨張し続けていた通貨の信用がなくなれば、通貨は一瞬にして紙屑になる。
 韓国・チリ・ギリシア
 数々の国がそうして国家全体が破産寸前になるという憂き目に遭っている。

 明治初期の日本は正にこの状況にあった。国内に正金が無く、国民からの税収も通貨の総量に比べれば微々たるものだ。要するに日本には国際的に通用する金銀貨幣が不足していた。だからこそ、殖産興業によって外貨を獲得する必要に迫られていた。

 松方の主張は、自国の税収入だけでは制御不能なほどに膨張した通貨を回収し、一旦仕切り直して自分達の身の丈にあった経済規模を作り直していこうという試みだ。

 荻原重秀、田沼意次、水野忠徳―――
 不思議な事に、日本には通貨の問題に直面した時に、非常にシビアに、現実的にそれを是正しようと努力する官僚が現れる。
 松方正義もそんな現実を直視できる官僚の一人だった。




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